1度きりの追憶(1990年代)


佐藤剛投手の1度きりの勝利投手(1993年)

佐藤投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1993 13 1 0 0 37 18 18 27 6.57
1995 5 0 0 0 7.1 4 7 2 4.91
通算 21 1 0 0 47 23 27 32 6.13

 本田技研から1992年のドラフト1位でカープに入団した佐藤剛投手。当然、即戦力として期待され、プロ初勝利を挙げたときは、さらに期待も高まりました。しかし、ドラフト1位だからといって、けしてプロで活躍できるとは限らないんですね。その後は、泣かず飛ばずの日々が続く中で、1997年に東京ヤクルトへ移籍しました。しかし、移籍した年に3度の中継ぎ登板があったきりで、特に目立つ活躍がないままプロを去りました。

 プロで唯一上げたのは1993年。ルーキーイヤーの初勝利。初勝利であり、それがプロで最後の勝利となりました。それからしばらくして、佐藤剛士投手というピッチャーがカープに入団することになるのですが、そのとき、この佐藤剛投手が話題に浮かんだことがありましたね。それだけインパクトのある投手だったのではないでしょうか。


鈴木健投手の1度きりの勝利投手&完封(1993年)

鈴木健投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1993 19 1 7 0 57.2 44 42 43 6.71
1995 2 0 0 0 2.1 1 2 4 15.43
通算 21 1 7 0 60 45 44 47 7.05

 1993年のカープは、育成重視であるにもかかわらず、ドラフト1位&2位はいずれも社会人の即戦力投手。1位はこのページのちょっと上にある佐藤剛投手、そして2位が鈴木健投手でした。そして結果的には、即戦力として期待されながら、ともにプロで1勝だけ挙げて、引退するという結末になってしまいました。あの「炎のストッパー」津田投手の後を受けて、背番号「14」を受け継ぎましたが、いかんせんコントロールには大きな課題はありました。ゆったりとしたフォームではあったものの、コントロールが定まらず…。だからこそ、打ち頃の球を打たれ、ボール球は見極められてしまったのでしょう。

 ただ、この鈴木健投手がプロで唯一の勝利を完封で飾った試合…それはカープにとって大きな意味がありました。1993年9月16日。場所は敵地・阪神甲子園球場。阪神打線をわずか3安打に抑える素晴らしい投球でした。なんせ、ここまで13試合に登板して、勝ち星がなかった投手がいきなりの完封勝利。しかも、この日、もし負けていたら、実はチームは13連敗というカープの球団記録に並ぶところだったのです。12連敗中のカープ…その窮地に敵地で登板して、しかもこの上ない好投。

 ところが、鈴木健投手のハイライトはまさにこの1試合のみ…。その後、台湾プロ野球に派遣されたり、横浜に移籍したりもしましたが、この1試合こそが、鈴木健投手が最も花開いた瞬間でした。


鈴木哲投手の1度きりのセーブ(1994年)

鈴木哲投手の生涯の1軍成績
(成績は広島在籍時。通算はプロ通算)
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1994 36 2 3 1 75.2 40 58 22 2.62
1996 8 0 0 0 8 6 3 5 5.63
通算 84 7 13 1 215.2 141 145 96 4.01

 1989年のドラフト2位で西武に入団した鈴木哲投手。右のサイドハンドでキレ味鋭いフォークなどが武器でした。この頃、黄金時代を築いていた西武で、一時期は先発の一角としても起用され、1991年にはカープとの日本シリーズで登板したこともありました。そんな鈴木哲投手が、当時カープに在籍していた植田幸弘選手との交換トレードで、1993年のオフにカープに入団しました。

 移籍1年目の1994年には中継ぎで34試合に登板した鈴木哲投手。開幕間もない4月24日の横浜戦で8回からマウンドに上がり、2イニングを無失点に抑えたことで、プロ6年目にしてプロ初セーブを挙げました。プロ通算で7勝をマークしましたが、結果的にセーブについては、この試合が鈴木哲投手にとって唯一のものとなりました。


佐藤裕幸選手のカープで1度きりのヒット(1994年)

佐藤選手の生涯の1軍成績
(成績は広島在籍時。通算はプロ通算)
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1993 6 6 0 0 0 1 4 0 0 .000
1994 2 5 1 0 0 0 1 0 0 .200
1995 2 2 0 0 0 0 0 0 0 .000
1996 1 1 0 0 0 0 1 0 0 .000
2000 5 1 0 0 0 0 1 0 0 .000
2001 2 1 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 37 26 2 1 0 1 10 0 1 .077

 1988年のドラフト2位でカープに入団した佐藤裕幸選手。大型遊撃手として期待を集め、2軍では首位打者にも輝き、一発の魅力のある打者でした。でも、好成績を収めることが出来たのは、なぜか2軍だけで、1軍に昇格すると、その打棒がぱたりと止まってしまう…。

 そんな中で1994年、佐藤裕幸選手がカープ在籍期間では唯一のヒットを放ちました。10月8日のヤクルト戦で、当時、ベテランの伊東昭光投手から放った2塁打。これがカープでの唯一のヒットであり、佐藤裕幸選手のプロ野球人生の中での唯一の長打となりました。ちなみに、佐藤選手は1998年に入来智投手との交換トレードで近鉄へ移籍し、プロ2本目の安打とプロでの唯一の打点を挙げたものの、翌年自由契約となり、カープのテストを受けて、復帰を果たしました。2軍では活躍したのですが、1軍では…。なかなか難しいものです。


小林敦司投手の1度きりの勝利投手(1995年)

小林敦投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1995 16 1 0 0 25.1 18 17 11 3.91
1996 3 0 1 0 2.1 0 1 2 7.71
1999 30 0 0 0 28.2 18 14 7 2.20
2000 4 0 0 0 9 7 10 10 10.00
2001 6 0 0 0 6.1 12 6 5 7.11
通算 59 1 1 0 71.2 49 48 35 4.40

 カープに在籍したのは実に10年間、そして2001年、プロ最後の1年を千葉ロッテで過ごした右腕が、プロ初勝利を挙げたのが1995年7月29日の中日戦でのことでした。延長11回の延長戦でマウンドに上がった小林投手は、2イニングを無失点に抑えて、プロ初勝利を飾ることが出来たのですが、残念ながらそれがプロで最初で最後の勝利となってしまいました。

 思えば、1999年には当時の達川監督が名付け親の「あつかんコンビ」というニックネームで、小林敦司投手と小林幹英投手の2人が中継ぎで活躍しました。自己最多の30試合に登板し、防御率2.20と安定感を見せました。しかし、翌2000年・・・当時巨人に在籍していた清原和博選手の頭部へ死球を当て、乱闘の一歩前までいってしまった・・・それを機に、どことなく投球がおかしくなってしまったのが残念でなりません。


小畑幸司選手の1度きりのホームラン(1996年)

小畑選手の生涯の1軍成績
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1993 12 9 3 1 0 0 5 0 1 .333
1996 5 2 1 1 1 1 1 0 0 .500
1997 17 12 2 0 0 1 8 0 0 .167
1998 38 9 1 0 0 0 4 0 0 .111
1999 2 2 1 0 0 0 0 0 0 .500
2000 2 1 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 76 35 8 2 1 2 18 0 1 .229

 1991年のドラフト7位で所沢商高からカープに入団した小畑選手。1995年には2軍で6本のホームランを放つなど、今までのカープには珍しいパワフルな打撃が魅力のキャッチャーでした。体型からしてコロンとした感じでしたから、見るからにパワーを感じさせるものでしたが、確実性はといえば、ちょっと疑問符・・・でした。

 しかし、当時のカープはといえば、西山選手が正捕手につき、控え捕手として瀬戸選手が入るという2枚看板の捕手がいました。小畑選手は3番手捕手として、1軍のベンチに入る機会は多かったものの、試合に出場する機会は非常に少ないのが現状でした。そんな小畑選手が1軍の舞台でパワーのある打撃を見せたのは、1996年6月19日の横浜戦。左腕の野村投手から放った一発でした。第3の捕手から脱することが出来なかった小畑選手のプロで唯一のホームランでした。


小早川幸二投手の1度きりの先発(1997年)

小早川幸二投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1993 18 0 0 0 13 12 6 10 6.92
1994 1 0 0 0 0 0 0 0 -
1995 30 0 2 1 13 9 10 10 6.92
1996 46 0 0 1 31 19 25 13 3.77
1997 15 0 0 0 9 11 4 11 11.00
通算 110 0 2 2 66 49 45 44 6.00

 左のサイドハンドとして、1996年には46試合に登板した小早川幸二投手。一時期は、チームメイトにかつてのカープの4番である小早川毅彦選手がいたため、スコアボードや新聞には「小早川幸」と表記されていたのを思い出します。

 そんな左のサイドハンドで、中継ぎ専門だった小早川幸二投手がプロ初先発となったは1997年6月1日の横浜戦でのこと。まさかの先発でした。そういえば、過去に左のサイドハンドで、カープの優勝にも貢献した清川栄治投手が、唯一先発の出番が回ってきたものの、雨で中止になった…そんなエピソードを思い出しました。それはさておき、初先発ということで緊張したのか、とにかくストライクが入らず、いきなり初回から無死満塁のピンチから2点を失い、2回もピッチャーに死球を与えるなど、独り相撲。最初で最後の先発は、2回途中で降板と言う苦い思い出になったようです。ただ、その試合はカープが終盤に逆転勝利したのは救いかもしれません。


嶋重宣投手の1度きりの先発&敗戦投手(1997年)

嶋投手の生涯の1軍成績(投手)
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1997 2 0 1 0 2.1 5 1 2 7.71
通算 2 0 1 0 2.1 5 1 2 7.71

 嶋選手と言えば、2004年に「赤ゴジラ」という異名で、首位打者を獲得し、一躍有名になりました。「赤ゴジラ」というフレーズは、この年の流行語大賞にもノミネートされるほど、全国区となりました。

 そんな嶋選手がカープに入団したときは投手でした。高校時代は東北高校で左腕投手として活躍し、当時の高校生3羽ガラスと言われるほど、屈指の好投手でもありました。そんな嶋選手は1994年のドラフト2位でカープに入団し、3年目1997年9月21日にプロ初先発の飾りました。相手は巨人で、いきなり先頭打者に四球を与えましたが、盗塁を捕手が見事に刺し、その後も清原選手を抑えるなど、初回を無失点で切り抜けると、2回にも先頭打者を出しながら、3人で抑えました。しかし、3回に連打を浴びて3点を失ったところで、マウンドを降りました。

 2回と3分の1、3失点・・・これが嶋投手のプロで唯一の先発、そして唯一の黒星となりました。さらに、2回に元木選手から奪った三振…これは嶋投手のプロ人生で唯一の奪三振となっています。


沢崎俊和投手の1度きりの完封勝利(1997年)

沢崎投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1997 38 12 8 0 156 1/3 54 106 65 3.74
1998 17 1 0 0 23 2/3 12 18 13 4.94
1999 25 1 2 14 24 10 16 17 6.38
2000 15 4 4 0 61 2/3 29 38 38 5.55
2002 5 0 0 0 4 1/3 1 1 1 2.08
2003 40 4 1 1 45 2/3 19 35 22 4.34
2004 38 2 2 0 43 16 28 32 6.70
2005 2 0 0 0 1 1/3 0 1 0 6.70
通算 180 24 17 15 359 1/3 141 243 188 4.71

 コントロールがあり、技巧的な投球が持ち味だった沢崎投手。1996年のドラフト1位で青山学院大からカープに入団して1年目のシーズンは、いきなり先発ローテーションに定着し、12勝をマークし、新人王に輝いた1年でした。振り返れば、生涯通算勝利数の半分をルーキーイヤーに手にしたことになります。

 そんな1997年、沢崎投手がこの年最後の勝利となり12勝目を挙げた10月7日。沢崎投手は横浜戦でプロ初完封勝利を飾りました。序盤からカープ打線の手厚い援護に恵まれて、7回途中までノーヒットノーランという素晴らしい投球を繰り広げました。この年、ドラフト2位のルーキーだった黒田投手にプロはt完封勝利は先を越されましたが、沢崎投手は今季最後の登板を完封で飾り、1年の有終の美となりました。でも、その後は右ひじの故障などに悩まされたプロ野球人生…この完封がプロ最初で最後になるとは、その当時はまったく思いませんでした。


広池浩司投手の1度きりのホームラン(1999年)

 なんせ、投手なので、詳しい打撃成績がないので申し訳ないのですが、正直驚いたのが、この広池投手のホームランでした。そう、広池「投手」のホームランは、生涯で唯一のホームランではあったのですが、実は中継ぎが主な仕事場である広池投手にとって、めったに打席に立つ機会がない中で、プロでの初打席で、初安打が初ホームラン。しかもこれがもちろん初打点にもなったわけです。初めての打席で巻き起こった出来事だけに、すべてが初物尽くし!

 1999年9月29日の阪神戦。初回に6点を奪ったカープでしたが、結果的に敗れてしまうというどうしようもない試合…。その5回。7−5とカープが2点リードを奪っていた展開の中で、当時阪神の部坂投手に対して、広池投手が放った打球は、何とレフトスタンドに飛び込むソロホームラン!立教大学時代は投手ではなく、野手としても注目されていた広池投手ですが、その片鱗を見せたこの一発。投手が本職だけに、これが最初で最後となりましたが、まさかの一発…これは驚きました。


田村恵選手の1度きりの打点(1999年)

田村恵選手の生涯の1軍成績
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1998 28 41 9 0 0 3 7 0 2 .220
1999 12 20 5 1 0 2 1 0 0 .250
2000 22 19 2 0 0 0 1 1 1 .105
通算 62 80 16 1 0 5 9 1 3 .200

 引退後はスカウトとして活躍している田村恵さん。現役時代はメガネをかけた、小柄な捕手でした。「冴える頭脳、田村恵〜」という応援歌は今でも口ずさめるほどで、やはり印象深い選手でした。

 そんな田村選手は1998に1軍デビューを飾りました。そして1999年の10月6日。もはやシーズンの大勢が決した、いわゆる消化試合でした。横浜DeNAとの試合は序盤に3点のリードを許しながら、中盤以降にビッグイニングを積み重ねて一気に逆転しました。そんな試合の8回裏、無死1・2塁という場面で、この日、スタメンでマスクをかぶっていた田村選手に打席が回ってきます。このチャンスで当時・横浜に在籍していた阿波野投手からセンター前にはじき返し、セカンドランナーは生還しました。これが田村選手にとって最初で最後のタイムリーヒットとなりました。

 確かにプロでは1度だけのタイムリーヒットでしたが、スカウトとしては安部友裕選手、松山竜平選手、そしてクジで引き当てた大瀬良大地投手ら、多くの主力選手を探し出し、獲得してきました。スカウトとしてのタイムリーは数知れません。


カンバーランド投手の1度きりの登板(2000年)

カンバーランド投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2000 1 0 1 0 1/3 1 0 3 81.00
通算 1 0 1 0 1/3 1 0 3 81.00

 左腕不足に悩んでいたカープが、2000年に獲得した助っ人左腕がカンバーランド投手でした。とにかく左腕がほしい…その思いもあってか、この年の開幕3戦目。東京ドームでの巨人戦で、先発のマウンドに上がりました。これが来日初のマウンドとなったのです。

 先頭打者の仁志選手のセンターフライに打ち取りますが、その後は四球にヒットにと連打の嵐。あっという間に3点を奪われて、わずか1つのアウトを奪っただけでマウンドを降りました。このマウンドを終えて、カンバーランド投手は2軍に落ち、ウエスタンリーグでは1試合4ボークという記録まで作り、日本球界を去りました。結局、この巨人戦での初登板初先発が、カンバーランド投手にとって日本での最初で最後のマウンドとなりました。おまけを言えば、仁志選手をセンターフライに打ち取った1つのアウト。このアウトも、カンバーランド投手にとって、日本で奪った唯一のアウトとなりました。