鯉の4番(第41〜50代)

※打撃成績は4番を打った年のみを表記しています。

▲「鯉の4番」メインに戻る


第41代4番バッター:マーティー・ブラウン
(初4番は1992年4月7日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1992 109 386 90 68 19 41 93 2 2 .233

 来日1年目の2試合目から、いきなり4番に座ることになったブラウン選手。それだけ、その当時のカープは打線の軸がまったくいなかった…まさに投手力だけで勝ってきたチームだったわけです。それを象徴するかのように、来日1年目は時折4番に座り、その年、19本塁打を放ちましたが、打率は低め…。しかし、2年目には27本塁打を放つ活躍を見せましたが、そのときには江藤選手が4番に定着したことで、下位打線を中心にした起用となりましたが、それだけ打線にも厚みが増してきたといえるでしょう。

 それにしても、このときのブラウン選手が、まさか2007年から監督してカープに復帰するなんて誰が想像したでしょうか。しかし、ファンと選手の距離は縮まり、なんかオフに監督が帰国すると寂しさすら感じる、愛着のある監督でした。とりわけ、ALL−INというフレーズ。マーティーが提唱したこのフレーズは、今でもカープファンの心に残る貴重な一言となっています。

▲このページのトップに戻る


第42代4番バッター:町田公二郎
(初4番は1992年7月28日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1992 49 153 41 19 6 20 34 1 0 .268
1998 89 172 42 23 4 22 41 2 4 .244
1999 81 177 43 28 8 20 33 0 2 .243
2000 102 260 73 34 13 44 56 4 1 .281

 ルーキーイヤーから4番に座った町田選手。実は、この年のドラフトでは、町田選手が1位指名を受けましたが、4位指名で金本選手が指名されました。もちろん、順位が高いほうが注目されるわけで、右の長距離砲として町田選手への期待は高まり、1年目から6本の本塁打を放ち、さらには4番を務める試合もありました。

 もちろん、町田選手の打撃も素晴らしいものがありました。そのパンチ力…普通の選手にはない大きな特徴がありました。それゆえに、1998年には6年ぶりの4番に座り、そこからもたびたび4番に座る試合もありました。右の代打の切り札というイメージが強い町田選手でしたが、代役4番を務めるにもふさわしい選手でありました。本当は、レギュラーで4番を務められるほどの実力があったのでしょうが、当時のカープ…それだけ素晴らしい選手が揃っていたということなのでしょうね。

▲このページのトップに戻る


第43代4番バッター:ルイス・メディーナ
(初4番は1993年4月10日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1993 3 9 3 1 0 2 3 0 0 .333
1994 106 384 104 70 14 34 106 0 3 .271

 1993年のカープ打線。4番打者として開幕スタメンを飾ったのが、その年のオープン戦で三冠王を達成したメディーナ選手でした。しかし、それもわずか3試合…不運な故障で、シーズンを棒に振ってしまいました。しかし、カープ球団はその翌年の契約を更新すると、シーズン途中には4番に座り、70打点を挙げるなどの活躍を見せました。しかし、このメディーナ選手のおかげで、その後の江藤選手が4番に定着した要因を作ったようにも感じます。

 それにしても、この「メディーナ」という名前。なんとなく、今でもすごく印象に残っています。「♪メディーナ、メディーナ〜」と今でも、口ずさんでしまうことがあるほど、この助っ人の名前はインパクトがありましたね。それは個人的な話ですが、今でも記憶に残る助っ人、それがメディーナ選手です。

▲このページのトップに戻る


第44代4番バッター:前田智徳
(初4番は1994年4月9日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1994 123 492 158 66 20 57 56 4 2 .321
2000 79 262 62 44 13 18 39 0 0 .237

 第44代の4番は前田智選手。そう、あの前田智選手が4番を勤める日があったのです。しかも、1994年、その次は6年後の2000年…。それこそ、めったに見ることが出来ないスターティングラインナップ。その4番目の位置に、前田智選手の名前があった試合。

 本当は4番タイプではありません。しかし、1994年の場合は開幕から4番を勤める試合が続きました。3番に江藤選手、5番にブラウン選手(後のカープ監督)を従えての4番でした。でも4番を退いてからは主に3番。これが前田智選手の居場所であったようにも思います。3番が4番につなげる打撃をする…それがカープの打線のつながりを生んでいたのでしょう。でも、それは確固たる4番がいたから。そう考えると、打線を作る際には、4番を作ってから、周りを固め…そんな感じで、ミルフィーユ、それともバームクーヘン…そんな感じで、中心を決めることが大切なのでしょうね。それにしても、2010年以降は代打専門になってしまいましたが、4番としての栄光は少なくとも、選手としての栄光は数知れず。それだけカープの歴史に名を残している選手ですね。

▲このページのトップに戻る


第45代4番バッター:ルイス・ロペス
(初4番は1996年8月30日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1996 130 503 157 109 25 38 48 2 14 .312
1997 134 532 170 112 30 42 58 0 10 .320
2000 93 351 110 88 20 20 37 0 8 .313

 やはり4番を打つ以上は、相手に恐怖を与える人物でなければならないと思います。少しでも弱点があったりすると、それだけでも、チームの軸となる部分に穴があるということを意味し、相手にとってもそこが狙い目とどんどん攻め込まれてしまいます。だからこそ、柔軟でどこにでも対応でき、しかもチャンスの場面でも自分のバッティングが出来る柔軟性…それらを全て兼ね備えていたのが、ロペス選手ではなかったでしょうか。

 結果として、右で長打力があるから…それだけの理由で4番に座った4番は数多くいたものの、ロペス選手は実績と経験で4番を勤めた助っ人であるといえます。しかも、打点王にも輝くなど、タイトルにもその勝負強さを感じさせます。助っ人で4番…それは相手に恐怖をどのくらい与えられるかということだと思います。急場をしのぐために緊急補強で4番を勤めるというほど、4番は簡単なものではありません。それゆえに、4番で勝負強さを発揮したロペス選手…助っ人の外国人野手が活躍するのはどんなタイプか、その参考となったのがロペス選手なのではないでしょうか。ただ、チームメイトとプレーのことでもめた経緯もあったりと、最後のイメージがあまり良くなかったのが残念でしたが…。

▲このページのトップに戻る


第46代4番バッター:金本知憲
(初4番は1998年7月12日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1998 133 499 126 77 21 73 94 9 5 .253
1999 135 502 147 84 34 73 92 10 6 .293
2000 136 496 156 96 30 88 101 30 6 .315
2001 140 472 148 101 25 137 69 19 3 .314
2002 140 540 148 80 29 62 99 8 2 .274

 1991年のドラフト4位でカープに入団した金本選手。細身の体系ながら、3年目にして17本塁打を放つなど、徐々にチームの主力として活躍するようになり、1998年7月12日の試合で自身初のカープの4番に座ると、当時4番に座っていた江藤智選手がFAで巨人に移籍して以降の、1999年からは本格的にカープ打線の顔として、2002年オフの阪神移籍までの5年間、カープの4番を務めました。2000年には打率.315、30本塁打、30盗塁という成績でトリプルスリーを達成しました。

 しかし、何と言っても金本選手といえば1492試合連続フルイニング出場という偉大な記録。そのスタートは1999年の7月21日の阪神戦から。当時、金本選手はカープの4番として活躍していた頃でした。実は、カープには数多くの4番を務めた選手がいますが、スタメン4番で出場した選手の中で、2シーズンフルにスタメン4番を飾ったのは金本選手だけ。金本選手らしい記録ではありますが、やはり金本選手はカープの4番としても、偉大な選手ということなのです。

▲このページのトップに戻る


第47代4番バッター:新井貴浩
(初4番は2003年3月28日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2003 137 488 115 62 19 45 120 2 6 .236
2004 103 262 69 36 10 31 55 3 6 .263
2005 142 541 165 94 43 42 126 3 23 .305
2006 146 566 169 100 25 36 117 1 19 .299
2007 144 556 161 102 28 56 136 1 12 .290
2015 125 426 117 57 7 50 73 3 4 .275
2016 132 454 136 101 19 55 101 0 5 .300
2017 100 243 71 48 9 41 56 43 1 .292

 2002年のシーズンオフ、長らく4番を勤めてきた金本選手が阪神jへFA移籍したことを受けて、その後の4番を勤めたのが新井選手でした。2005年には43本塁打を放ち、本塁打王にも輝きました。4番として2006年からは2年間、シーズン100打点以上をマークするなど、その地位を確固たるものにしていたのですが、2007年オフ、まるで自分自身が4番を務める前に4番に座っていたあの金本選手を追うかのように阪神へのFA移籍していきました。
 しかし、あれから8年。阪神に自ら別れを告げて、カープに戻ってきました。逆風が吹きすさぶ中、新井選手は必死にチームのために全力を注ぎました。そのプレーの数々に、ファンもカープの一員として受け入れ、そのプレーに心を打たれたのではないでしょうか。8年ぶりにカープの4番にも座り、打線の軸として活躍し、2016年には主に4番に座り、101打点をマークするなど、25年ぶり7度目の優勝に大きく貢献しました。カープ史を代表する4番バッターです。

▲このページのトップに戻る


第48代4番バッター:ジミー・ハースト
(初4番は2003年6月6日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2003 43 111 23 15 5 16 37 0 2 .207

 いかにもパワーがありそうなその風貌。そして沖縄キャンプでは場外弾連発だったハースト選手。パワーだけは折り紙つきだったのですが…。やはりパワーだけではという感じの選手でもありました。

 6月6日、前日に新井選手が退場処分となったことを受けて、日本では後にも先にも最初で最後の4番に座り、1安打を放ちました。芯に当たればものすごいんですけどね。でも、変化球とコントロールが主体の日本の野球にあって、なかなか大型扇風機では対応し切れなかったとったところでしょう。三振のあまりに多さはそれを物語っているような気がしてなりません。その風貌だけでも、非常に威圧感があっただけに、スタメンに定着すれば、ある意味で相手にプレッシャーを架けることができる選手として期待していたのですが…。

▲このページのトップに戻る


第49代4番バッター:アンディ・シーツ
(初4番は2003年7月12日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2003 136 514 161 75 25 47 3 11 14 .313
2004 134 542 154 85 23 54 2 0 19 .284

 当時のカープはショートのポジションが穴でした。内野のキーマンであるショートのポジションに、安定した守備力のシーツ選手が入団したのが2003年のこと。当時の広島市民球場の土の内野グラウンドでも、柔らかい守備には非常に定評がありましたが、それ以上に打撃でも、日本で花を咲かせました。

 柔らかさがあるのは守備だけでなく打撃も…。開幕当初は2番を打っていたシーツ選手は、打撃フォームも非常に柔らかさを感じさせるもので、ミートセンスある打撃で、ホームランも量産するなど、シーズン中盤からは不振の新井選手(後に阪神に移籍)の後を受けて、4番を務める試合も多くなりました。2年間に渡って活躍したシーツ選手は、一説によればラロッカ選手との確執も報じられましたが、阪神へ移籍し、2012年現在では阪神の駐米スカウトを務めています。

▲このページのトップに戻る


第50代4番バッター:グレッグ・ラロッカ
(初4番は2004年7月16日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2004 122 436 143 101 40 75 66 11 9 .328
2005 80 267 81 56 18 28 30 0 14 .303

 当時、4番を打っていたシーツ選手の故障によって、4番の出番が回ってきたラロッカ選手。入団当初はその打撃も目立たないままだったものの、柔らかいスイングが日本野球に見事に適合し、高打率とともに、意外な俊足で11盗塁もマークしました。そして、何とシーズン40本塁打をマークし、23個の死球はセリーグの死球王にも。2005年には交流戦でインパクトのある一発を放つなど、この選手がいなかったら交流戦はどうなっていただろう…と思うばかりでした。
 しかし、事情は分かりませんが、一説によるとシーツ選手との不仲…それが原因かどうかは分かりませんが、2005年にカープを退団することになったのは、残念でなりません。柔軟で勝負強い打撃…守備こそは難がありましたが、打撃でそれ以上のものを与えてくれたラロッカ選手。インパクトある助っ人4番でした。

▲このページのトップに戻る