鯉の4番(第31〜40代)

※打撃成績は4番を打った年のみを表記しています。


第31代4番バッター:加藤英司
(初4番は1983年8月30日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1983 75 253 66 36 10 25 49 6 4 .261

 1979年には阪急でシーズン35本塁打、104打点、打率.364で2冠王にも輝き、打点王3回、首位打者2回と華やかな実績を持つ加藤選手が、水谷実雄選手との交換トレードでカープに入団したのが1983年のことでした。しかし、肝炎を患ってしまい、思うような結果が残せないまま、福井保夫選手、森脇浩司選手との交換トレードで、わずか1年で近鉄に移籍したのです。わずか1年の在籍に終わった加藤選手。第31代4番バッターとして、8月30日に4番を務めましたが、カープでは最初で最後のスタメン4番でした。

第32代4番バッター:斉藤浩行
(初4番は1984年10月10日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1984 12 21 6 3 2 2 4 0 0 .286

 2軍では本塁打王、打点王と獲得するなど、そのパワーは素晴らしいものがあった斉藤選手。しかし、打球を目に受けるハプニングから、ナイターの多い1軍の試合ではどうも思うように打てなかったようです。2軍では通算161本塁打を放ち、そのパワーがもし1軍で生かされていれば、それはすごい選手になったのでしょうが…。中日、日本ハムと渡り歩き、1軍ではなった本塁打はわずか16本。その数は2軍の成績から比べると、格段に寂しいものでした…。

第33代4番バッター:長内孝
(初4番は1986年7月30日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1986 118 421 107 58 19 59 5 105 4 .254
1988 80 240 62 36 9 26 7 45 1 .258
1989 97 260 71 42 11 22 2 43 4 .273
1990 108 257 69 40 11 39 0 44 2 .268

 一時は左の代打という時期もありましたが、左の長距離砲として、シーズン19本塁打を放つなど、パワーも折り紙つきでした。三振が多かったのも確かですが、パワフルな打撃でファンを魅了しました。山本浩二選手が引退してから、4番を任されることも時々あった長内選手。1991年のオフに銚子選手との交換トレードで横浜大洋へ移籍し、93年に引退後はカープのコーチを長年務めました。今ではすっかり「カープ鳥」の印象が強くなりましたね。

第34代4番バッター:リチャード・ランセロッティ(ランス)
(初4番は1987年4月10日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1987 121 403 88 83 39 64 114 0 1 .218
1988 79 264 50 50 19 34 58 1 1 .189

 カープには様々な助っ人がやってきましたが、その中でもインパクトが強かった選手の1人がこのランス選手ではなかったでしょうか。打ち出すと止まらないのに、打たなくなると、これまた止まらない。しかも、まるでゴルフスイングのようなバットの軌道で、ホームランか三振かのバッティング。なんせ、打率.218で39本のホームランを放って、ホームラン王になっちゃうんですもんね。ヒットの約4割がホームラン…いくら球状が狭い時代とはいっても、これは驚異的な数字ではないでしょうか。

 これだけホームランを打つと、4番として期待してしまいます。なんせ、ミスター赤ヘル・山本浩二さんが引退した直後の年ですから。ホームランの数では、ポストコージといっても良かったのでしょうが、その確実性は…。まあ、打率.218ですから。

第35代4番バッター:小早川毅彦
(初4番は1987年5月31日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1987 124 420 120 93 24 45 96 5 9 .286
1988 126 453 131 69 17 79 74 8 13 .289
1989 114 396 119 61 12 58 68 1 5 .301
1990 105 353 100 61 17 50 71 2 6 .283
1994 93 150 37 18 6 18 29 2 1 .247
1995 66 113 27 14 2 20 28 2 1 .239

 山本浩二というカープ史上最強のバッターが球団を去ったことで、ぽっかり空いた4番の座。なんせ、前任者が山本浩二選手ですから、その穴は埋めるにはあまりに大きすぎる穴であったことも事実でした。その穴を埋めるべく、山本浩二選手とは法政大学の後輩である小早川選手が4番に座ることも多かったのがこの時期です。そりゃ、山本浩二選手と比べれば、見劣りがしたのは確かでしたが、右打者と左打者の違いからか、何だか新鮮な気持ちもしたのがこの時期。それでも通算6シーズンにわたって、カープの4番を務めました。

 1996年にはヤクルトへ移籍した小早川選手は、いきなり本塁打連発で、カープファンからすれば、そのホームランラッシュに寂しさも感じました。しかし、カープでの活躍ぶりは鮮明に浮かんでくるくらい、印象深いものでした。私個人の話ですが、当時は小早川選手を見ると、歌手の坂本九さんを思い出しました。なんとなく、顔が似ていたもので…。

第36代4番バッター:片岡光宏
(初4番は1987年8月15日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1987 42 66 21 12 5 5 18 0 0 .318

 元々、投手として入団した片岡選手。わずか5試合に登板しただけの投手人生でしたが、その後打者に転向してからというもの、右の長距離砲として活躍しました。1985年に野手に転向すると、パワーのある打撃で、1軍での起用も増えてきました。まさしくそれが1987年のシーズンであり、そのシーズンは規定打席には遠く及ばないながらも、打率3割台、5本塁打を放ち、山本浩二選手が去ったチームにとっては、将来に右の長距離砲として期待される存在となりました。

 そんな飛躍への足がかりとなった1987年のシーズン終盤に、片岡選手は第36代4番打者を任されました。この時期は、山本浩二選手引退後ということで、新4番を模索する時期…その時期だからこそ、右のパワーヒッターとして期待された時期でもありました。

第37代4番バッター:ロッド・アレン
(初4番は1989年9月10日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1989 80 247 74 39 11 29 47 3 1 .300
1990 98 326 102 61 25 38 60 2 1 .313
1991 68 206 48 33 9 19 44 1 0 .233

 来日1年目こそ、打率は3割でしたが、本塁打は11本…けして目立つような成績ではありませんした。しかし、2年目にその打棒が大爆発します。4打席連続本塁打という離れ業をやってのけるなどの活躍ぶりで、25本塁打をマークしました。そして3年目の1991年はアレン投手にとって苦しいシーズンとなり、結果的にこの年を持って日本を去ることになるのですが、カープが出場した日本シリーズでは2本塁打を放ち、長打力がなかったこの年のカープにあって、最後の最後に大きく目立つ活躍を見せました。

 カープの4番としても活躍したアレン選手。やはり、4打席連続アーチのあのパワー…今でも鮮烈に目に焼きついています。あと、大洋(現横浜DeNA)戦で死球を受けたことで、まるでアメフトのように相手を外野まで追いかけていった姿もまた目に焼きついています。

第38代4番バッター:マイク・ヤング
(初4番は1990年4月8日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1990 69 222 52 35 11 28 65 0 0 ..234

 ミスター赤ヘル・山本浩二選手が引退してからというもの、ぽっかり空いた4番の座。カープ史上最強の4番が抜けてしまっては、やはりその穴を埋めるような選手というのは、そう簡単に見つかるものではありません。その中でヤング選手もまた、4番候補として獲得され、オープン戦では目覚しい活躍を見せました。その勢いそのままに、ヤング選手はカープの4番に座ることになりました。

 でも、今も昔もそうですが、オープン戦でいくら活躍していても、公式戦に入ると分からないものですね。その勢いは止まり、結局、戻ることなく…。ただ69試合で11本塁打というパワーだけはしっかり見せ付けましたが、打撃は確実性に欠け、やはりミスター赤ヘルの跡を継ぐには物足りないものでした。

第39代4番バッター:西田真二
(初4番は1990年7月31日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1990 77 186 65 36 13 20 28 4 0 .349
1991 102 315 91 51 7 64 72 6 0 .289
1992 93 255 59 32 5 35 49 5 2 .231

 1991年、2012年の時点でカープの最後の優勝となったわけですが、その年のカープの4番…そう言われると、結構困ったりしますが、私の個人的なことを言うと、西田選手が4番を務めていたという印象があります。確かにパンチ力はありますが、そんなにたびたび本塁打を打つわけではなく、体格の割りに器用な打撃をするという印象でした。

 しかし、妙に存在感のある選手でもありました。愛称は「トラさん」。1990年には自身最多の13本塁打を放ち、翌年のは4番を打つ試合も多かった西田選手。今では四国アイランドリーグの監督というイメージ乙宵のですが、1991年の優勝を知っていると、やっぱり「カープの4番だった選手」…そんな印象が強い選手です。

第40代4番バッター:江藤 智
(初4番は1991年5月4日。成績はカープで4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1991 91 260 56 31 11 52 87 0 12 .215
1992 89 277 80 45 16 35 51 2 10 .289
1993 131 482 136 82 34 84 94 7 11 .282
1994 105 390 125 81 28 70 81 7 13 .321
1995 127 462 132 106 39 92 93 14 11 .286
1996 106 388 122 79 32 80 68 8 14 .314
1997 110 393 99 76 28 85 92 3 13 .252
1998 132 475 120 81 28 100 103 7 18 .253
1999 121 437 127 79 27 78 80 9 12 .291

 カープの歴史の中でも球史に残る4番の1人といってもいいのが江藤選手。1991年…2012年現在、カープ最後の優勝となったこの年、江藤選手は徐々に4番としての出場機会を増やすとともに、この年は主に下位打線ながら、本塁打が極端に少なかったこの年、チームトップの11本塁打を放ちました。

 その後、チームの打線の顔となった江藤選手は1993年、95年と2度の本塁打王にも輝くとともに、95年に関しては打点王にも輝き2冠を達成しました。1999年オフに巨人へとFA移籍した江藤選手でしたが、カープで残した栄光は素晴らしいものだったといえるでしょう。ドラフト5位からチームの顔に育った…まさにカープの真骨頂である「育成」の代表的な存在です。