鯉の4番(21代〜30代)
※打撃成績は4番を打った年のみを表記しています。
第21代4番バッター:山内一弘
(初4番は1968年9月4日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1968 | 134 | 467 | 146 | 69 | 21 | 53 | 60 | 6 | 2 | .313 |
| 1969 | 100 | 310 | 85 | 38 | 21 | 47 | 48 | 1 | 2 | .274 |
| 1970 | 77 | 144 | 37 | 27 | 5 | 21 | 18 | 2 | 3 | .257 |
第22代4番バッター:衣笠祥雄
(初4番は1968年10月5日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1968 | 127 | 395 | 109 | 58 | 21 | 65 | 76 | 11 | 10 | .276 |
| 1970 | 126 | 406 | 102 | 57 | 19 | 50 | 81 | 13 | 5 | .251 |
| 1971 | 130 | 460 | 131 | 82 | 27 | 79 | 71 | 12 | 9 | .285 |
| 1972 | 130 | 498 | 147 | 99 | 29 | 61 | 77 | 12 | 7 | .295 |
| 1973 | 130 | 454 | 94 | 53 | 19 | 68 | 73 | 6 | 6 | .207 |
| 1974 | 130 | 471 | 119 | 86 | 32 | 54 | 78 | 7 | 5 | .253 |
| 1975 | 130 | 479 | 132 | 71 | 21 | 49 | 61 | 18 | 18 | .276 |
| 1976 | 130 | 522 | 156 | 69 | 26 | 41 | 84 | 31 | 14 | .299 |
| 1977 | 130 | 514 | 136 | 67 | 25 | 59 | 81 | 28 | 16 | .265 |
| 1980 | 130 | 489 | 144 | 85 | 31 | 52 | 89 | 16 | 13 | .294 |
| 1983 | 130 | 496 | 145 | 84 | 27 | 53 | 89 | 8 | 15 | .292 |
| 1984 | 130 | 490 | 161 | 102 | 31 | 39 | 83 | 11 | 12 | .329 |
| 1985 | 130 | 480 | 140 | 83 | 28 | 49 | 77 | 10 | 16 | .292 |
| 1986 | 130 | 477 | 98 | 59 | 24 | 39 | 80 | 4 | 17 | .205 |
世界に名をとどろかせた鉄人・衣笠祥雄。カープの歴史にも燦然と名を残し、背番号「3」は永久欠番。1976年の34盗塁は衣笠選手では唯一の盗塁王。そこにパワーも打撃センスも、そして俊足も、全て兼ね備えたカープらしさが現れています。1971年はシーズン全試合で4番を務めました。そして、1971年からずっと出場試合数は130試合。そう、骨折しても試合に出続けた鉄人。1987年の現役最後の試合を持って、1970年10月19日から始まった連続試合出場の記録は2215試合で途絶えました。しかし、その記録はカープ選手では唯一の国民栄誉賞となるほど、世界に「キヌガサ」の名前は響き渡りました。何があっても試合に出続けた鉄人…その心は後輩・金本選手にも受け継がれました。この忍耐はカープの象徴なのでしょう。
第23代4番バッター:水谷実雄
(初4番は1969年8月26日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1969 | 37 | 51 | 13 | 1 | 1 | 6 | 14 | 0 | 2 | .255 |
| 1973 | 102 | 251 | 58 | 29 | 7 | 15 | 32 | 1 | 1 | .231 |
| 1978 | 119 | 402 | 140 | 75 | 25 | 36 | 48 | 2 | 9 | .348 |
| 1981 | 126 | 427 | 144 | 82 | 23 | 54 | 55 | 1 | 9 | .337 |
| 1982 | 119 | 403 | 122 | 63 | 18 | 39 | 57 | 0 | 4 | .303 |
カープ黄金時代を築いた立役者の1人…それが水谷選手でしょう。水谷選手の生涯成績を振り返ってみると、正直、この選手が4番に座ったのはこれだけ?と思うほど少ないのですが、それは当時、山本浩二選手や衣笠祥雄選手がいたからに他ありません。それだけ選手層が厚かったわけです。1978年には打率.348で首位打者も獲得しました。カープのシーズン最高打率という点で見ても、この記録は破られていません。現代なら、最も4番を打っていた選手だったかもしれない…時代が時代なら、不動の4番…それくらいの打撃力をもっていた選手が水谷選手なのです。
第24代4番バッター:ジム・ヒックス
(初4番は1973年4月14日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1973 | 37 | 312 | 78 | 49 | 16 | 27 | 68 | 0 | 4 | .250 |
| 1974 | 102 | 230 | 56 | 40 | 17 | 22 | 46 | 2 | 1 | .243 |
カープの歴史の中で、多くの助っ人を獲得し、中には多くの功績を残した選手もいました。多くの助っ人野手の中で、球団史上初めて4番に座った助っ人、それがヒックス選手でした。持ち味のパワーが魅力の選手ではありましたが、特別多くのホームランを打ったわけでもなく、打率が高いわけでもなく…今のカープならば4番よりも7番タイプになるかもしれません。しかし、ヒックス選手はカープ史上初の助っ人4番打者として名前を残しています。
第25代4番バッター:山本浩二
(初4番は1973年5月21日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1973 | 126 | 449 | 121 | 46 | 19 | 62 | 75 | 10 | 7 | .269 |
| 1974 | 127 | 476 | 131 | 74 | 28 | 45 | 72 | 18 | 2 | .275 |
| 1975 | 130 | 451 | 144 | 84 | 30 | 69 | 39 | 24 | 1 | .319 |
| 1976 | 129 | 464 | 136 | 62 | 23 | 66 | 57 | 14 | 1 | .293 |
| 1977 | 130 | 448 | 138 | 113 | 44 | 98 | 64 | 22 | 2 | .308 |
| 1978 | 130 | 473 | 153 | 112 | 44 | 96 | 74 | 12 | 2 | .323 |
| 1979 | 130 | 467 | 137 | 113 | 42 | 83 | 71 | 15 | 3 | .293 |
| 1980 | 130 | 440 | 148 | 112 | 44 | 92 | 52 | 14 | 0 | .336 |
| 1981 | 130 | 473 | 156 | 103 | 43 | 76 | 56 | 5 | 2 | .330 |
| 1982 | 130 | 448 | 137 | 90 | 30 | 89 | 56 | 8 | 1 | .306 |
| 1983 | 129 | 462 | 146 | 101 | 36 | 88 | 62 | 5 | 1 | .316 |
| 1984 | 123 | 437 | 128 | 94 | 33 | 66 | 59 | 5 | 2 | .293 |
| 1985 | 113 | 382 | 110 | 79 | 24 | 72 | 55 | 2 | 0 | .288 |
| 1986 | 126 | 439 | 121 | 78 | 27 | 58 | 69 | 4 | 3 | .276 |
その応援歌のように「大空高く」カープ最多のホームランを放った山本浩二選手。その成績は燦然と光り輝くものです。首位打者1度、打点王3度、そして本塁打王4度、MVPに2度、ベストナインは10回、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)10回…あらゆるタイトルを獲得。しかも、オールスターゲームの通算本塁打が歴代トップの14本。カープの歴史の中で、最も三冠王に近かった選手ともいえるでしょう。そんな山本浩二選手はカープの歴史の中でも最も多く4番として出場した選手でもあります。私自身も子どもの頃、山本浩二選手のプレーに何度となく感動したものです。背番号「8」はまさにミスター赤ヘルを象徴する番号であり、今でもファンの心に深く刻まれています。
第26代4番バッター:三村敏之
(初4番は1973年8月12日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1973 | 121 | 449 | 121 | 32 | 12 | 65 | 59 | 7 | 15 | .269 |
解説者時代の三村さんは、非常に穏やかで優しい口調でした。分かりやすい語り口で解説しておられた姿が目に浮かびます。しかし、その一方で選手時代、そして監督時代は、勝負に関して非常に厳しい方でもありました。試合中に相手のプレーに激怒して、翌日の試合が中止になった…そんな今となっては武勇伝もあるほど。そんな三村選手はシーズン27本塁打を放った年もありましたが、山本浩二選手が4番を務めることが多かった中で、1973年が三村選手唯一の4番を打った年でもあります。非常に思い出深い方…それが三村選手であり、監督であり、三村さんなのです。
第27代4番バッター:ミッキー・マクガイア
(初4番は1973年8月29日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1973 | 103 | 369 | 102 | 42 | 9 | 19 | 28 | 1 | 6 | .276 |
今、「マクガイア」という名前を聞けば、大リーグでシーズン70本塁打を放った「マーク・マグワイア」選手の名前を思い出しますが、1973年にカープに加入したマクガイア選手は、入団前は大リーグからは完全に離れてしまっていた選手でした。しかし、その年のカープ打線では規定打席不足ながら、チームでは最高打率の打者でした。それだけカープ打線が低迷していたということなのでしょうし、けして一発はないものの、確実性で4番に起用されたのでしょう。カープ在籍はわずかに2年で、その直後に引退しています。
第28代4番バッター:ゲイル・ホプキンス
(初4番は1975年4月5日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1975 | 130 | 496 | 127 | 127 | 33 | 46 | 53 | 1 | 8 | .256 |
| 1976 | 117 | 420 | 138 | 138 | 20 | 67 | 30 | 1 | 6 | .329 |
「赤ヘル」の由来を作った1975年のジョー・ルーツ監督からの誘いによってカープに入団したホプキンス選手。1年目から4番に座る機会があり、巨人との優勝を決める重要な一戦で3ランを放つ活躍を見せました。1年目から33本塁打を放ち、そのパワーを見せつけたホプキンス選手がカープに在籍したのは2年間。その後は南海に移籍しましたが、カープ在籍時のような輝きを見せることが出来ませんでした。とにもかくにもホプキンス選手はカープ初優勝に大きく貢献した助っ人であり、引退後、今ではアメリカで医師として活躍していることは有名です。
第29代4番バッター:エイドリアン・ギャレット
(初4番は1978年4月13日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1978 | 130 | 462 | 125 | 97 | 40 | 80 | 104 | 2 | 6 | .271 |
カープにはこれまで非常に多くの助っ人野手がチームメイトになりましたが、その中で40本塁打を放った選手はけして多くはありません。その中の第1号がこのギャレット選手。これだけのホームランを放っていれば、当然4番かと思いきや、当時は山本浩二選手がどっかりと4番に座り、その前後をライトル選手やギャレット選手という助っ人勢が支えていたような状況でした。けして確実性があるわけでもありませんでしたが、それでもある程度の打率、そしてパワーを存分に見せつけました。4番に座る機会は少なかったものの、4番を支えた脅威の5番、もしくは6番だったのがギャレット選手でした。
第30代4番バッター:ジム・ライトル
(初4番は1979年4月29日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)
| 年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
| 1979 | 130 | 504 | 133 | 61 | 23 | 43 | 83 | 28 | 4 | .301 |
| 1981 | 128 | 493 | 157 | 100 | 33 | 36 | 58 | 16 | 6 | .318 |
| 1982 | 126 | 482 | 130 | 75 | 24 | 29 | 60 | 8 | 5 | .270 |
過去のカープ助っ人の中でも最強といっても過言ではないでしょう。大リーグでは4球団を渡り歩いたものの、特に目立った成績は残していませんでした。しかし、1977年にカープに入団してからというもの、1978〜80年は全試合に出場し、1981年は最多安打のタイトルを獲得。守備力の高さにも定評があり1978年からは4年連続でダイヤモンドグラブ賞(今のゴールデングラブ賞)を受賞するだけでなく、1980年には日本シリーズでMVPも獲得しました。山本浩二さんが4番を張っていたこともあり、なかなか4番を打つ機会はなかったものの、この選手が4番でない…それは相手には脅威でしょうね。