あなたを忘れない〜2010年度版〜

 ※表示している成績は広島での成績、通算は広島在籍時のみの生涯成績です。


00 田中彰(内野手)

1982年10月23日生まれ。
東京・創価高〜法政大〜オリックス(2005〜2008)〜広島(2008〜2010)

2010年オフに戦力外通告を受け、カープスコアラーに
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2008 1 1 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 13 17 1 0 0 0 7 0 0 .063

 2008年のシーズン途中に、当時はカープに在籍していた山崎浩司選手との1対1の交換トレードでカープに入団したのが田中選手でした。その当時のカープは右打者でサードが守れる長距離砲が不在だったことから、1軍での実績はほとんどないものの、右打者でパワーがあることに注目して獲得した田中選手には期待が集まりました。

 カープに入団した直後の7月26日に1軍に昇格を果たした田中選手。その日に行われた横浜戦の8回裏の攻撃で、上野投手の代打として、いきなりカープ・田中選手のお披露目が行われました。そのとき、東出選手が思い切り振ってこいというアドバイスがあったらしく、その助言どおり思い切って振った打球はあわやホームランかという特大のセンターフライに終わりました。それにしても、このお披露目が最後のカープでの姿になろうとは・・・。

 カープでの2年目は自慢の長打力も生かせず、また打率も残せないままシーズンを終えてしまいました。そして2010年のシーズンでは、打率は.254ながら、4本塁打を放つ長打力が注目され、ようやく自分自身の長打力を首脳陣にアピールできたのではないか・・・そんな気がしていました。しかし、1軍からの声はかからず、そのままウエスタンリーグは終了し、戦力外通告という結果になってしまいました。

 右の長距離砲として獲得したのに、もう少しチャンスはなかったのか・・・そう思うと残念でなりません。カープへ希望を持って移籍してきたのに、わずか1打席立って、特大の外野フライを1本放って終わりになってしまうとは。サードはレギュラー不在だったカープだっただけに、もう少しチャンスを与えてから、その処遇を検討しても良かったのではないかと思います。そう考えると残念な戦力外通告でした。

 来季からはカープのスコアラーとして第2二の人生を歩むことになります。

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11 ジャスティン・ヒューバー(内野手)

1982年7月1日生まれ。
ビーコンヒルズカレッジ高〜ロイヤルズ(05−07)〜
パドレス(08)〜ツインズ(09)〜広島(10)

2010年オフに自由契約。帰国後、ツインズとマイナー契約
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2010 80 177 39 17 7 32 42 0 5 .220
通算 80 177 39 17 7 32 42 0 5 .220

 なぜか重用されたバッター。打撃が低迷し続けても、2軍に落とすことはなく、スタメンを外れたら代打で使い、4番が故障で離脱すれば4番に起用し、そして出来るだけスタメンで使い続けたバッターでした。

 2009年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)ではオーストラリア代表の4番に座ったものの、打撃成績は10打数1安打と低調に終わってしまったヒューバー選手。その後、監督を務めることになる野村監督がロイヤルズの臨時コーチを務めていたときに、その練習熱心ぶりにほれ込んで、球団に直訴した上で獲得に至った選手でした。監督自身が選手を見つけてくる・・・異例ともいえるような形で、ヒューバー選手はカープに入団してきました。

 監督がほれ込んで、チームに獲得してもらった・・・そんな気持ちが強かったのでしょうか。とにかく、なぜか重宝がられたヒューバー選手。確かに、右のパワーヒッターが不足していたチームにあって、バットに当たればホームランになるかもしれないというスイングには魅力があったのかもしれません。しかし、変化球にめっぽう弱い打撃は一向に改善の兆しが見えないままでした。監督が起用し続けたにもかかわらず、やはり長年のバッティングのクセはそう簡単に修正できるものではなかったようです。

 時には4番も任されたヒューバー選手。正直、打撃成績だけを見ても、とても1軍で定着できるような数字ではありません。それでも時々見せる一発は監督いわく「万馬券に当たったようなもの」。でも、万馬券はしょっちゅう当たってたら万馬券ではないんですよね。ごく稀に当たるからそう呼ばれるわけで、必死で応援しているファンには万馬券が当たるまで待っていろというわけでしょうか。

 右のパワーヒッターとしての魅力はありましたが、打率が.220では・・・。しかも、得点圏打率にいたっては、開幕から20打席以上もチャンスでヒットが打てていなかったということもあり、シーズンが終わっても.148とチャンスにはめっぽう弱かった。やはり、いざというときには変化球を投げれば、相手は間違いなく振ってくるという読みがあったのでしょうし、それに見事にはまってしまったわけです。

 あまり目立った活躍が出来なかったヒューバー選手は2010年オフに自由契約となりました。もしパワーヒッターが獲得できなければ、残留の可能性もあったといいます。でも、残留できるほどの結果を残しておらず、最後の最後まで、「なぜそこまで重用するのか」の疑問を感じざるを得ませんでしたが、いろんな意味で記憶に残る選手となったのは間違いありません。

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22 高橋 建(投手)

1969年4月16日生まれ。
神奈川・横浜高〜拓殖大〜トヨタ自動車〜広島(95−08)−
トロント・ブルージェイズ(09)−ニューヨーク・メッツ(09)−広島(10)

2010年に現役引退。2011年からは野球解説者に
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1995 39 4 4 0 90 45 54 39 3.90
1996 24 2 1 1 52 2/3 21 40 29 4.96
1997 34 3 4 0 62 34 35 33 4.79
1998 41 3 8 0 101 48 76 43 3.83
1999 36 3 7 0 102 42 90 53 4.68
2000 50 5 9 4 112 1/3 60 88 49 3.93
2001 30 10 8 0 173 68 132 82 4.27
2002 26 9 14 0 173 1/3 41 142 74 3.84
2003 24 9 8 0 167 44 127 68 3.66
2004 18 3 10 0 96 26 66 59 5.53
2005 14 0 2 0 26 2/3 10 14 28 9.45
2006 54 2 3 0 46 17 40 24 4.70
2007 22 5 4 0 112 41 74 46 3.70
2008 21 8 5 0 115 2/3 47 71 45 3.50
2010 26 4 5 0 30 19 17 31 9.30
通算 459 70 92 5 1459 2/3 522 1066 703 4.33

 子連れルーキーとしてプロの世界に飛び込んだ「建さん」こと高橋投手。そもそもは大学時代は野手として、ホームランも打てるようなシュアな打撃と長打力が売りのバッターとして活躍していました。しかし、投手に転向し、さらに社会人へと進み、中継ぎ左腕として活躍し、即戦力投手として期待されてのカープ入団となりました。

 1年目から39試合に登板し、プロ初勝利を含めて4勝を挙げた高橋投手は2年目にはプロ初セーブを挙げました。そもそも、この時期の建さんはとにかく球の速いピッチャーと言うイメージが強くありました。150キロに迫るかのような速球を投げ込むものの、コントロールは非常にアバウト。ただ、球威でどんどん押し込んでいる投球スタイルは、当時のカープには珍しいタイプの投手だったと言えるでしょう。

 そんな建さんにとって、一つの転機だったのは2001年のシーズンだったかもしれません。中継ぎでの登板が大半を占めていた建さんでしたが、この年、先発への転向となったのです。この年の建さんは序盤から勝ち星を積み重ねていくものの、途中で失速してしまいます。しかし、何とかプロ生活で、結果的には最初で最後となる2ケタ勝利となる10勝を手に入れました。いつもシーズン序盤には無類の強さを見せるのに、夏場以降に弱い・・・そんなイメージも植えつけました。そのこともあり、禁煙にも取り組んだことがあるようです。

 先発ローテーションから外れ、再び中継ぎに仕事場を移した建さん。膝の故障もあってのことだとか。さらに年齢的なものも重なったのか、研鑽は徐々に本来の球威を失ってしまいます。ところが、その代わりに手に入れたのがシュートでした。内角をえぐるような投球・・・それまでの速球派のイメージからは一転、球速は140キロ前後ながら、変化球をうまく使う、相手を抑えていく技巧的な投球へと変貌を遂げていったのです。

 2008年に先発ローテーションの復帰し、オールスター戦にもファン投票で選ばれるなど、8勝を挙げる活躍を受け、念願の大リーグに挑戦することになる増す。まずはトロント・ブルージェイズに入団したものの、プレー中の故障で解雇となり、その直後にニューヨーク・メッツに入団。メジャーデビューとしては市場3番目に遅い40歳でのデビューとなりました。その年はチームの貴重な中継ぎ左腕として、28試合に登板し、防御率2.96とまずまずの結果を残したものの、その年に解雇となり、カープに2年ぶりに復帰することになりました。

 2010年もシーズン序盤から中継ぎで運よく2日連続勝利投手となり、勝ち星を積み重ねましたが、やはり夏場が近づくに連れて失速…。出れば打たれるようになるの繰り返しで、2軍に降格し、そのまま引退と言うことになりました。先発に中継ぎにとフル回転してきた左腕が16年のプロ生活に終止符を打ったのです。

 ファンの野次に怒りが抑えきれずに、大声で怒鳴り返したこともありました。しかし、マウンドでの投球には淡々と投げながらも力強さがありました。そして、大学時代まで培ってきた打撃に関しても、プロではホームランを放つこともありました。特に2008年、39歳となったベテランでありながらホームランを放ち、投打に渡って活躍した試合は今でも記憶に残る一打となっています。

 今、建さんは地元・RCCテレビの野球解説者となっています。もしかしたら、将来はコーチとしてカープのyにフォームに袖を通す日も来るかもしれません。そのときを楽しみに・・・第2の人生が充実したものになりますように。

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24 エリック・スタルツ(投手)

1979年12月9日生まれ。
アルゴス高−ベセル大−ロサンゼルス・ドジャース(06〜09)−広島(10)

2010年オフに戦力外通告。ロッキーズとマイナー契約
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 21 6 10 0 124 1/3 49 87 70 5.07
通算 21 6 10 0 124 1/3 49 87 70 5.07

 メジャーでは通算8勝10敗と言う成績ながらも、ドジャースではカープの男気・黒田投手ともチームメイトで、日本でも十分にやっていけると太鼓判を押されたスタルツ投手。カープに入団する前には、阪神や千葉ロッテも獲得に動いていた・・・と言う経緯があったのですが、カープはシーズン途中の4月に契約を結びました。

 ストレートの最速は148キロ。さらにチェンジアップやカットボールなど多彩な変化球を武器に、速球派というよりかは技巧派という点で、日本向きの投手ではないかという期待も高まりました。さらに、その当時のカープの先発陣はもはやマエケンと青木高投手くらいしかいなかったというかなり厳しい台所事情の中で、その窮地を救ってくれる投手としての期待もありました。

 4月23日の巨人戦が来日初登板となりました。いきなりの先発としての大役でしたが、巨人打線を5回まで2失点に抑える好投。6回に炎上してしまいますが、初登板としては上々の滑り出しでした。そんなスタルツ投手が輝いたのが交流戦でした。5月19日のオリックス戦で6回2失点の好投で来日初勝利を挙げるなど、交流戦だけで3勝を挙げました。

 しかし、通常のセリーグとの対戦にはめっぽう弱かった・・・。横浜のような下位に沈んだ球団には強かったものの、巨人や阪神と言った強力打線を売りにしているチームの前ではめった打ちを食らってしまうケースも目立ちました。特に巨人戦の対戦防御率は8.64と派手に打たれてしまいました。

 シーズンで6勝を挙げた反面で10敗を喫したスタルツ投手。シーズンオフに自由契約となりました。「もし、この投手がキャンプの前からカープに入団していたら、もう少し勝っていたかもしれない・・・」。そう考えるともったいない思いもあります。自由契約後、もし大リーグでもマイナー契約ならカープ復帰も、なんてマスコミの報道もあったりしましたが、今のところ復帰の話はありません。再び大リーグに戻って、活躍することを祈っています。

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28 広池浩司(投手)

1973年8月29日生まれ。
立教高〜立教大〜全日空〜広島(99−10)

2010年オフに戦力外通告。2011年からは埼玉西武打撃投手に
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1999 17 0 0 0 11 7 4 7 5.73
2000 26 0 1 0 18 1/3 14 14 17 8.35
2001 6 0 0 0 2 1/3 3 0 3 11.57
2002 42 1 0 0 45 1/3 22 32 23 4.57
2003 5 0 3 0 15 10 10 16 9.60
2004 19 2 2 1 35 11 24 10 2.57
2005 41 0 1 0 41 1/3 28 33 37 8.06
2006 47 4 2 0 59 20 35 21 3.20
2007 32 2 2 0 27 1/3 11 19 19 6.26
2008 10 0 0 0 12 1/3 7 10 7 5.11
2010 3 0 1 0 1 0 0 3 27.00
通算 248 9 12 1 268 133 181 163 5.47

 入団テストに合格しながら、そのときの事情でドラフト指名は見送りとなり、ドミニカカープアカデミーで1年を過ごした後に、見事に1998年のドラフト8位でカープに入団を果たしました。立教大時代は打者として、主将も務めたほど。社会人になってからはアマチュア野球チームのない全日空へ進み、一時はカウンター業務を行っていたほど。サラリーマンの経験もある広池投手がプロで一花を咲かせたのです。

 ストレートは一時、150キロを超えるまでになりました。かつては速球派だった広池投手。しかし、最初に注目を集めたのは投手としてではなく、むしろ打者としてだったかもしれません。なんせ、ルーキーイヤーに中継ぎとして17試合に登板しましたが、初めてのプロの打席に立ったとき、何と旧広島市民球場のライトスタンドにホームランを放ったのですから。プロ初打席初ホームラン・・・投手であった広池投手の持つ珍記録なのです。

 私の広池投手のイメージとしては、やっぱりYahoo!の書き込みなんですよね。Yahoo!のカープ関連の掲示板に、なんと本人が書き込みをしていたんです。あれは広池投手が入団して、まだそんなに間もなかった頃ではないかと思います。その後も、今では多くのカープの選手が行っているブログもほぼ先駆けとして広池投手が始めていますし、その点ではファンに最も近く、パソコンに強い・・・そんなイメージがあります。

 広池投手は中継ぎが主な働き場所ではありましたが、ブラウン監督時代には「困ったときの広池」と言われるほど、中継ぎをしていたかと思えば、中継ぎ陣で1試合を乗り切る「ブルペンデー」では、先発を何度か任されるほどに、いろんなポジションで投げることが出来た、重宝される投手でもありました。そんな広池投手のベストシーズンは2006年。自己最多の47試合に登板し、4勝を上げるとともに、防御率も3.20と抜群の安定感を誇ったのです。

 しかし、2009年のシーズン序盤に左肘の滑膜ひだ切除および骨棘の切除手術を行い、そのシーズンを棒に振りました。プロ人生で初めて1軍に昇格することなく終わったシーズンでした。そして2010年、2軍では安定した投球を見せていましたが、1軍に昇格し、巨人・ラミレス選手に一発を浴びている様子を見た瞬間、「今年で終わりかも・・・」って気持ちになりました。2年ぶりの1軍昇格も3試合で、プロ最後の黒星も喫してしまいました。

 2011年からは埼玉西武の打撃投手に就任しました。本来、地元は埼玉県である広池投手にとっては、ついに故郷に帰ることになったわけですよね。相手に気持ちよく打たせることが求められる打撃投手。今までとはまったく違う仕事ではありますが、「投手」として長く現役を続けられることを祈っています。

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29 佐藤剛士(投手)

1986年5月16日生まれ。
秋田・秋田商高〜広島(05−10)

2010年オフに戦力外通告。広島市内の建築会社に就職
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 1 0 1 0 2 1/3 2 1 9 34.71
通算 1 0 1 0 2 1/3 2 1 9 34.71

 2004年のドラフト会議。この年、北海道日本ハム・ダルビッシュ有投手(当時、宮城・東北高)や埼玉西武・涌井秀章投手(投手、神奈川・横浜高)とともに高校三羽ガラスといわれたのが佐藤投手でした。カープは早々に1位指名を公言していました。MAX150キロという速球に大きな将来性を感じてのものでした。

 ドラフト1位で指名され、カープに入団した佐藤投手。まだ荒削りな面が多かっただけに、1軍でマウンドに登るのはちょっと時間がかかるだろうということでした。ルーキーイヤーはわずか3試合の登板で防御率も9.00という数字に終わりましたが、2年目には2軍で初勝利を挙げ、初めて1軍昇格を果たしました。しかし、プロ初登板初先発となったマウンドでは制球に苦しみ、そして連打を許し・・・3回途中で積み重ねた失点は9。大炎上劇となってしまいました。防御率は34.71・・・このとき残した数字は、最後まで上がりもせず減りもせず、何の変化も遂げないまま、佐藤投手のプロ生涯成績となってしまったわけです。

 2007年からは2軍で中継ぎとして登板することも多くなった佐藤投手。でも、やはり一番の課題である制球力は、最後まで課題のまま残り続けました。1イニングに1個弱・・・これでは、なかなか投球は成立しません。私も佐藤投手の投球を見たことがあるのですが、ストレートもキレを失い、その上、コントロールもないため、ランナーをどんどんためてしまう苦しい投球内容でした。これでは、なかなか1軍に昇格するのは難しい・・・そんな印象ばかりが残る投球でした。

 2009年7月19日、味方の大量援護に守られて、2軍ながら初のプロ初完投を完封で飾った佐藤投手。被安打5、四死球2・・・制球が安定すれば、これだけの投球ができるわけです。これをきっかけに・・・と思いましたが、まるでその完封劇は夢であったかのように、その後は同じことの繰り返し。途中は故障との戦いでもあった佐藤投手ですが、2010年はわずか1試合の登板に終わり、そのままオフに戦力外通告となりました。

 プロ生活は6年間。期待の高い投手でした。個人的には先発よりも、速球を生かして中継ぎで思い切り投げさせてみては・・・と思ったのですが、150キロの速球は戻ることのないまま、すごくこじんまりとしてしまったのが残念でなりませんでした。ドラフト1位は絶対に先発でなければならないのでしょうか・・・佐藤投手の適正は本当に先発だったのでしょうか。2011年からは広島市内の建築会社に就職し、第2の人生をスタートさせます。

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30 森跳二(投手)

1982年4月15日生まれ。
奈良・生駒高〜関西外語大〜広島(05−10)

2010年オフに戦力外通告。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2005 15 0 2 0 21 1/3 10 18 13 5.48
2007 4 0 1 0 3 2/3 1 4 2 4.91
2008 2 0 0 0 1 1/3 1 1 0 0.00
2009 3 1 0 0 1 2/3 1 0 3 16.20
2010 3 0 0 0 3 1/3 2 2 3 8.10
通算 27 1 3 0 31 1/3 15 25 21 6.03

 正直、私個人的には森投手に関しては、もっと期待していました。入団当初から、元横浜の守護神で大リーグでも活躍した佐々木主浩投手と顔が似ていることから「赤魔人」と呼ばれ、注目を集めていました。それよりも、ストレートは140キロ台前半で、横に流れるスライダーと縦に割れるスライダーの2種類を操る右腕ということで、ベテランに入ったときの佐々岡真司投手のような投手になれるのではないか・・・そんな期待をしていました。

 最も記憶に残っているのが、やはりプロ初登板のマウンドではなかったでしょうか。2005年5月29日の西武戦で初先発のマウンドに上がった森投手は、5回まで被安打4の1失点と試合を作る素晴らしい内容。この投球に期待を膨らましましたが、その後の首脳陣の決断は中継ぎ起用でした。ストレートとスライダーが中心のピッチングスタイルにあって、左打者と対戦するときに弱点があったからなのでしょうか。しかし、これが森投手の持ち味を奪ってしまったように感じます。

 その後、シュートを覚えた森投手。正直、シュートさえマスターすれば、間違いなく1軍で先発でやっていけるのではないかと思っていましたが、2軍では中継ぎや守護神としての起用が続きました。球速が早いわけでもない投手なのに、果たして守護神に向いているのだろうか。起用する場所がないために、成れの果てが守護神だったというだけではないのだろうか・・・そんな印象を受けました。

 森投手は2009年6月5日の福岡ソフトバンク戦で、2番手として登板した直後に味方が逆転したことで、5年目にして嬉しいプロ初勝利が転がり込んできました。しかし、6月11日の千葉ロッテ戦で、カープは1イニングに15失点という悪夢を演じてしまうのですが、そのイニングの2番手として登板し、千葉ロッテの勢いをとめることができず、5失点してしまったことで、完全に1軍から遠ざかってしまったのです。正直、1軍経験の浅い森投手に、火がついた相手打線を抑えるには酷過ぎるという状況だったように感じます。

 何だか恵まれなかったなぁ・・・という印象がある森投手。もしかしたら、起用によっては、カープの先発ローテーションの一角に入っていてもおかしくないくらいの逸材だったような気がします。プロ初登板で先発として結果を残しながら、なぜその後中継ぎ一本で起用したのか。惜しい人材を自らの手でフイにしてしまったような気がして、残念に思う限りです。

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33 鞘師智也(外野手)

1980年5月6日生まれ。
兵庫・報徳学園高−東海大−広島(03-10)

2010年オフに戦力外通告。2011年からはカープスカウトに。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2006 5 8 0 0 0 0 3 0 0 .000
2007 15 14 3 1 0 2 6 0 0 .214
2009 2 5 2 0 0 0 1 0 1 .400
通算 22 27 5 1 0 2 10 0 1 .185

 東海大時代にはシュアな打撃と一発の魅力がある外野手として活躍しました。当時は50m6秒という俊足と、遠投110mという強肩、さらに広い守備範囲で、入団当初は「ポスト緒方」との評価も高い即戦力候補でした。しかし、大学4年の秋に右ひじのじん帯損傷で手術しました。その影響で、ルーキーイヤーの2003年はシーズン終盤に20試合に出場し、打率.414という好成績を残しました。

 手術した右ひじも回復してきたかと思えば、翌年、再び右ひじに痛みが・・・。2004年はこの右ひじ内側副じん帯損傷による手術で、2軍でもわずか3試合に終わりました。これで、打撃の勘が鈍ったのか、右ひじをかばうようになったのか、良く分かりませんが、打撃は完全に頭打ちになってしまったような印象があります。

 2005年以降は右ひじの不安も消えましたが、2軍では自己最多の61試合に出場しながら、打率.221と低迷。2006年には2軍で規定打席にも到達するほど出場機会に恵まれたものの、打率は.236と伸び悩みました。その中でも、シーズン終盤の9月26に初の1軍昇格を果たし、1軍への足がかりは作りました。

 2007年にも5月に1軍昇格を果たすと、9日の中日戦で代打で出場し、プロ初安打を放ちました。その年は2軍でも打率.262の成績を残し、少しずつ成長の跡を残したのですが、2008年にはまた打撃が低迷。2009年は1軍昇格のチャンスが与えられ、スタメンのチャンスもあり、2本の2塁打を放つも、暴走気味の走塁もあったりで、結局打撃でアピールしても、試合を通しての流れを把握できていないプレーによって、2軍に降格してしまいました。

 それが鞘師選手にとって最後の1軍出場となってしまいました。そして2010年オフ、戦力外通告を受けることになってしまいました。1軍では外野守備で好プレーも見せてくれた鞘師選手ですが、打撃面ではかなり苦しんだという印象です。良い選手だとは思っていたのですが、やはりプロ入り後に度重なる右ひじの手術・・・これが打撃を狂わせてしまったのかもしれませんね。

 2011年からは近畿地区のカープスカウトに就任し、第2の野球人生をスタートさせます。今や、関西地区はマエケンを筆頭に素質の高い選手がいっぱいいるだけに、将来のカープを担う選手をいっぱい見つけてきてほしいと思います。

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36 青木勇人(投手)

1977年5月6日生まれ。
東京・修徳高〜同志社大〜西武(00−05)〜広島(06−10)

2010年オフに戦力外通告。2011年からは広島の3軍投手コーチに就任。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 8 0 0 0 8 2/3 0 4 0 0.00
2007 43 1 1 0 36 4 17 12 3.00
2008 11 0 1 0 11 4 6 4 3.27
2009 29 0 0 0 23 2/3 5 10 10 3.80
2010 6 0 0 0 10 2/3 4 4 7 5.91
通算 210 9 6 1 231 60 116 107 4.16

 1999年のドラフト6位で西武に入団したのが青木勇投手でした。同志社大時代は準硬式野球で関西大学リーグでは通算28勝を挙げる活躍を見せました。硬式野球の経験がないながらも、西武がその実力に注目し、プロの門をたたいたのです。

 1年目から17試合に登板し、1度先発をしたこともありました(この先発はプロでは最初で最後の先発となりましたが・・・)。そして2年目、3年目とそれぞれ46試合、36試合に登板し、西武の中継ぎの一角として、この2年間で8勝を挙げるなど活躍を見せました。ただ、2003年に相手打者に死球を与えてしまったことで、乱闘騒ぎに巻き込まれ、故障してしまうというアクシデントがあってからというもの、登板機会は一気に減ってしまいました。

 そして2006年、当時はカープに在籍していた福地寿樹選手(現ヤクルト)との交換トレードでカープに入団しました。移籍1年目こそ故障が多く、8試合の登板にとどまりましたが、何とすべて無失点と抑える完璧な投球内容を見せ、中継ぎの一角として期待は高まりました。移籍2年目の2007年には43試合に登板し、5年ぶりの勝利投手に輝き、安定感も際立ちました。

 しかし、カープには梅津投手や林投手といった右の変則右腕が多かったチーム事情、さらには当時の監督だったマーティーが中継ぎ陣にパワーアームをほしがっていたこともあり、青木勇投手のような軟投派の変則右腕は、徐々にその働き場所を失っていったという印象でした。2008年には11試合、2009年には梅津投手の故障もあって登板数は29試合に増えましたが、2010年は6試合の登板にとどまりました。2010年は3イニングのロングリリーフも見せただけに、これからの起用法も注目されたのですが、中継ぎのコマ不足というチーム事情にあってもなお、1軍での登板は急減してしまいました。やはり、勝負どころで打たれてしまう傾向が、起用法を難しくしてしまったのかもしれません。

 競った場面で打たれる傾向が強かった青木勇投手。なかなか起用法が難しかったのかもしれません。2010年のシーズンオフに戦力外通告を受けました。青木勇投手は引退となり、カープの3軍投手コーチに就任することになりました。3軍のコーチ増強を図るカープにあって、育成部門の3軍は非常に重要な存在。これからはカープの将来の主力投手を育成するべく、その経験を伝えてほしいと思います。

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42 長谷川昌幸(投手)

1977年7月16日生まれ。
千葉・市立銚子高〜広島(96−10)〜オリックス(10)

2010年シーズン中にオリックスへトレード
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1997 2 1 0 0 10 1/3 4 10 7 6.10
1998 1 0 0 0 1 2 2 4 36.00
1999 10 1 3 0 22 2/3 13 7 15 5.96
2000 10 0 2 0 23 14 20 8 3.13
2001 22 9 6 0 137 64 114 49 3.22
2002 30 13 10 0 194 1/3 46 153 83 3.84
2003 20 2 10 0 97 41 78 57 5.29
2004 4 2 1 0 19 2/3 11 20 12 5.49
2005 23 2 10 0 86 51 73 62 6.49
2006 29 1 3 0 54 2/3 16 57 24 3.95
2007 26 5 5 0 128 1/3 37 83 42 2.95
2008 14 3 6 0 59 2/3 22 28 46 6.94
2009 10 3 1 0 32 17 24 14 3.94
2010 2 0 1 0 5 1/3 5 4 7 11.81
通算 209 42 61 0 900 1/3 359 688 444 4.44

 個人的な話をすれば、長谷川投手って私と同級生なんですよね。だからこそ、妙に応援している部分はあったのですが、ファンにとっても、首脳陣にとっても、何かもどかしい投手だったのではないでしょうか。

 150キロを超える速球とカーブやフォークを武器にする投手として、とにかく毎年のように期待されていました。1995年にドラフト1位でカープに入団すると、2年目の1997年8月10日の阪神戦にプロ初先発を果たし、しかも初勝利を挙げました。これにより一層期待感は高まったのですが、1軍に昇格してもなかなか思うような結果が残せない年が続いていました。

 そんな長谷川投手の素質が開花し始めたのが2001年のこと。この年のシーズン中盤以降から、一気に勝ち星を積み重ねた長谷川投手は自身最多の9勝をマークしたのです。安定感のある投球に更なる飛躍を期待させました。そして、その期待に応えるかのように、2002年にはチームでもトップとなる13勝をマークするとともに、200イニングまであと少しに迫るほどに、シーズン通してフルに活躍しました。

 黒田投手との2本柱の一角として・・・そんな期待も高まったのですが、2003年には扁桃腺を晴らしてしまうと言うアクシデントに見舞われてしまい、実に2勝10敗と成績は急降下。しかも2004年には春季キャンプ中の守備練習で点灯してしまったことによる右手の故障で、完全に出遅れてしまった長谷川投手は、わずか4試合に登板にとどまりました。

 毎年のように先発の一角として期待されながら、それに応えられなかった長谷川投手。2007年にはシーズン終盤に安定感のある投球を見せたことで、2008年は先発6番手ながらローテーション入りを果たしましたが、1ヶ月しか守ることが出来ずに、この年はわずか3勝どまり。イメージとしては、期待されればされるほどに、その期待に応えられず、あまり注目されていないときに活躍する・・・そのような点では面白い投手だったのかもしれません。

 2010年も2試合の登板にとどまった長谷川投手は5月15日、喜田剛選手とともにオリックスへと移籍することになりました。オリックス移籍後は、昨季の日本一である千葉ロッテを相手に8回1失点の好投を見せたりと、活躍の兆しはあったのですが、そんなときに限って、勝利に結びつかず、結局6試合で3敗と言う成績だけが残りました。ただ、時折見せる好投には、まだまだ長谷川投手が完全に終わってしまった投手ではないということを知らしめているように感じました。これからのプロ人生、何かのきっかけでまた一花咲かせるチャンスがあるかもしれません。そのチャンスをつかんでほしいと思います。

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42 ビニー・チューク(投手)

1978年12月19日生まれ。
セントトーマス大〜ブルージェイズ〜ジャイアンツ=インディアンス〜広島(2010)

2010年オフに自由契約。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 16 2 0 1 18 2/3 8 12 12 5.79
通算 16 2 0 1 18 2/3 8 12 12 5.79

 毎年のように、緊急補強とかで7月ごろに外国人選手を獲得することってあるのですが、どうもそれって上手くいかないことが多いんですよね。ほんの数ヶ月だけ投げて、そのままオフに自由契約になり、帰国してしまう・・・そんなパターンに、今年もチューク投手という名の外国人投手が、はまってしまいました。

 チューク投手は選手の補強期限である7月31日の4日前に滑り込みで契約を結びました。当時は米大リーグのピッツバーグ・パイレーツ傘下の3Aインディアンスに所属し、メジャーではトロント・ブルージェイズやサンフランシスコ・ジャイアンツなどで中継ぎのみで252試合に登板し、7勝15敗で防御率は4.33という数字を残しており、大リーグでの経験も豊富な投手でした。2004年から2007年にかけては4年連続で40試合以上に登板するなどタフネスな特徴もありました。ストレートは150キロに迫るほどの勢いがあり、またスライダー、チェンジアップ、さらにはシンカーも操る。しかも相手打者によっては腕を下げてサイドスロー気味に投球する…まるでベイル投手の右投手版のような感じなのかと期待が膨らみました。

 来日して1週間と経たない8月1日の巨人戦に登板したチューク投手は9回からの1イニングを任されましたが、2死取っただけで6失点の大炎上。その後も、確かにストレートが150キロ台を計測することはあるものの、コントロールはアバウトで、甘く入ったところを痛打されるという様子が多々ありました。それでも、2勝を挙げる勝ち運だけは強かったように思いますが・・・。

 8月1日に来日初登板をし、9月16日には2軍降格。そのまま、1軍に上がることなく、シーズンは終了。日本での1軍生活はわずか1ヵ月半。あっという間の出来事でした。そしてやっぱり、緊急補強は活躍できないというジンクスは見事に当てはまってしまいました。やはり、いきなり初めて日本野球に触れ、いきなり活躍しなさいといわれても、それは難しい話だということ。途中で補強ならトレードで、助っ人補強はキャンプインまでに済ませ、シーズン途中での助っ人補強が必要ない磐石の態勢を整えて、シーズンに臨むことが大切なのかもしれませんね。それはマウンドで投げる助っ人に、より能力を発揮してもらうためにも必要なのだと思います。

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43 ジェフ・フィオレンティーノ(外野手)

1983年4月14日生まれ。
フロリダアトランティック大−オリオールズ(05−06)−アスレチックス(08)−
オリオールズ(09)−広島(10)

2010年オフに自由契約
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2010 44 126 31 15 2 22 37 2 1 .246
通算 44 126 31 15 2 22 37 2 1 .246

 正直、何のためにこの選手を獲得したのだろう・・・という感じでした。確かに、カープの外野手は層が厚い。その中で、広瀬選手や天谷選手、赤松選手、さらには当時は2年目の岩本選手も台頭しており、ベテランの嶋選手もいる中で、活躍の場は完全になくなっていきました。フィオ選手の加入により、外野手の層は一層厚くなったのですが、若手の勢いに完全に圧倒されたのと、右の強打者として獲得したヒューバー選手をやたらと重用する起用法の中で、フィオ選手は活躍の場を失っていきました。

 私はフィオ選手の過去の大リーグや3Aでのデータを見て、非常に期待をしていたんです。安打数が多く、その反面、三振の数が非常に少ない。的確にバットコントロールできる力のある選手という印象を持っていました。そのため、日本野球の特徴である変化球にも十分対応できるのではないかと思っていたんです。でも、起用するチャンスがなかった。こういった選手こそ、日本野球に慣れてくれば、十分に3番打者として活躍できただろうに。

 日本野球は変化球が多いという印象があったのか、初球から積極的に打ちにいくという姿勢はありませんでした。球をしっかり見極めているうちに追い込まれ、最後は三振に終わってしまうという「石橋をたたきすぎて壊してしまう」。それくらいの慎重姿勢のように感じました。もう少し、積極的に行くことができれば・・・いや、それも慣れの問題だったのかもしれません。

 出塁率は.356、得点圏打率は.355。意外とポテンヒットがタイムリーになったりと、妙な勝負強さがあるバッターでした。でも、1軍では起用する場面がなかったのでしょう。私からすれば、同期で助っ人としてカープに入団したヒューバー選手に比べれば、ずっと試してみる価値がある選手だと思っていましたが。とにかく「もったいない・・・」、その一言にすべてが集約されそうな選手です。

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44 喜田剛(内野手)

1979年10月25日生まれ。
沖学園−福岡大−阪神(01−07)−広島(07-10)−オリックス(10)

2010年シーズン途中にオリックスへトレードで移籍。
シーズンオフに横浜へ移籍
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2007 67 150 37 12 3 16 35 1 1 .247
2008 66 92 22 11 4 8 22 0 4 .239
2009 78 126 32 20 2 8 30 0 0 .254
2010 10 8 1 0 0 2 4 0 0 .125
通算 239 409 102 46 9 34 91 1 5 .249

 2010年のシーズン、サードの栗原選手が回り、ファーストのポジションがぽっかり空いてしまった状態で、その穴を埋めようとしたのが、野村監督が自ら推薦したヒューバー選手。もし、ファーストを喜田剛選手が守れるチャンスがあったのなら、今季は飛躍の年だったかもしれない・・・そう思わざるを得ません。それだけ残念な素材を放出してしまったという印象があります。

 喜田剛選手は2005年にウエスタンリーグでホームラン王と打点王(21本塁打、55打点)で2冠王に輝きました。2006年にも2軍で14本塁打を放ち、本塁打王に輝き、2軍では素晴らしい実績を残していました。しかし、当時の阪神は外野が飽和状態で、喜田剛選手にとっては、いくら2軍で結果を残しても、1軍に昇格できないという状況が続いていたのです。

 そこで、2007年5月18日、カープに在籍していた山田真介選手との交換トレードで、カープに入団したのです。当時は、交流戦を前にして、秘密兵器としてその活躍を期待されていました。トレードでカープに入団した直後のオリックス戦でいきなり指名打者でスタメン出場すると、初安打を放ち、その後の千葉ロッテ戦では清水直投手(その後横浜に移籍)からプロ初ホームランも放ちました。今まで1軍ではなかなかチャンスが与えられなかった鬱憤を一気に晴らすような活躍ぶりを見せました。

 喜田剛選手はその後も代打を中心に活躍をみせました。2007年には3本塁打を放つと、2008年には4本塁打・・・与えられるチャンスは数少ないながらも、その中で長打力を存分に発揮したように感じます。ただ、打率を見ると、どうしても物足りない状況が続いていました。これでもあと3分、打率が高ければ、十分にクリーンアップが任せられるのに・・・という状況だったのでしょう。ただプロではその3分がどうしても難しい。その壁をなかなか乗り越えることが出来なかったのも事実です。

 喜田剛選手は2010年5月15日、長谷川投手とともにオリックスへとトレードで移籍となりました。左の長距離砲として、そしてファーストが守れ、クリーンアップが打てるだけの素質がある選手だっただけに、もし、ファーストを外国人選手と争うことがなかったら・・・と思うと、トレードで喜田剛選手を失うのは非常に残念であるように感じました。オリックスに移籍してもなかなかチャンスがないままの状況。飛ばす力があるだけに、何だかもったいない感じばかりが漂います。その中で、さらに横浜への移籍が決まりました。4球団目となる新天地・・・今度こそは!

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58 小島心二郎(投手)

1982年6月11日生まれ。
東京・国士舘高〜国士舘大〜広島(05−10)〜オリックス(11−)

2010年オフに菊地原投手との交換トレードでオリックスへ移籍。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2005 2 0 0 0 8 6 5 5 5.63
2006 4 0 2 0 21 3 12 13 5.57
2007 1 0 0 0 0 2/3 2 0 3 40.50
2010 4 0 0 0 2 2 0 1 4.50
通算 11 0 2 0 31 2/3 13 17 22 6.25

 高校時代からプロでも注目されていた左腕だった小島投手でしたが、3年次に左ひじを骨折したことで、プロのスカウトは離れていきました。その後、国士舘大に進学し、MAX144キロの速球とスライダー、カーブ、シュート、チェンジアップなどなど多彩な変化球を投げ込む投手として期待され、2004年のドラフト5位でカープに入団しました。

 私自身もドラフトの順位とは関係なく、非常に期待していた左腕でした。そして、ルーキーイヤーの8月27日にプロ初の1軍昇格を果たすと、そのままプロ初先発のマウンドへ。この日の中日戦、私はナゴヤドームの外野席で小島投手の投球の様子を見ていました。その日の球速はMAX139キロ。けして球威があるという感じではなく、制球が安定しているという感じでもなかったのですが、それでも、のらりくらりと抑えている印象。意外とタイミングを合わせづらかったのでしょう。それもあって、5回無失点という好投を見せました。

 思えば、その試合が小島投手にとっては唯一の勝利投手になれる可能性を秘めた試合だったように感じます。その後を受けた、同じくルーキーだった森投手が井端選手に満塁弾を浴びてしまい、結局勝ち星が消えてしまいました。でも、小島投手の投球は今後に期待を抱かせる内容になりましたし、2006年にはシーズン終盤に4度の先発を任されました。この4度の先発で6回3失点以内に抑えたのは何と2度もあるほどに、まずまずの投球を見せていたのですが、なぜか打線の援護がなく・・・

 その後の小島投手は完全に伸び悩んでしまいました。2007年にはわずか1試合の中継ぎ登板で炎上。さらに、その後2年間は1軍での登板はなく、2009年オフに球団からサイドスロー転向を打診され、フォーム改造に挑みました。2010年には3年ぶりの1軍マウンドに立ちましたが、わずか4試合の登板に終わったのです。

 思えば、プロ入り後の2年間で、先発した6度の試合。打線の援護があれば、勝利を重ねることも出来たはずなのです。打線が投手を育てることが出来なかった・・・若手を見殺しにし続けてしまったことが、若手の成長の芽をつぶしてしまったのかもしれません。もし1勝でも出来ていたら、小島投手の自信にもなったでしょうし、その後の成長にも大きく影響していたかもしれません。

 2010年オフ。小島投手は菊地原投手との交換トレードでオリックスに移籍することになりました。新天地で、もう一度、1軍で今度こそプロ初勝利を目指して頑張ってほしいと思います。

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61 山本翔(捕手)

1984年1月13日生まれ。
福岡・東筑高〜広島(2001年5巡)

2010年オフに戦力外通告。外資系保険会社へ就職

 個人的なことを書きますが、私が2000年の11月15日に始めたこのサイトで、ドラフトをコーナーを始めるようになったのは2001年のこと。このサイト内で初めて行ったドラフト予想の中で、見事に指名予想を的中させた選手が山本翔選手でした。隠し玉として、その隠れた素質に当時の九州担当の敏腕スカウトであった村上スカウトがその才能にほれ込んだようです。隠し玉的存在を当てて嬉しかったことを今でも覚えています。遠投は110m、2塁への送球は実に1.78秒。その捕手としての評価は伊東勤氏(元西武)や城島健司選手(現阪神)と言われるほどにまで高いものでした。

 2003年には29試合に出場して、打率.154と結果が残せなかったものの、翌年は26試合に出場して.313と高い打率を残しました。しかし、打数は32回のみ。なかなか2軍でも正捕手になれず、チャンスと呼べるチャンスはほとんどありませんでした。その間には地元・広陵高出身の白浜選手が入団し、オリックスから移籍してきた上村選手が台頭してくるなど、次々と現れるライバルの前に、なかなかスタメン出場のチャンスすら得られない日々は続きました。

 しかし、この山本翔選手の一番の持ち味は故障をしない強靭な体にあったのかもしれません。それゆえに、2軍の捕手が足りなくなったときの要員として、山本翔選手が起用されるシーンもありました。2007年はそれゆえに自身最多の57試合に出場し、打率も.254とまずまずの数字を残しました。しかし、1軍から及びはかかることなく、故障者が戻ってきた2008年以降はベンチを暖める日々が続き、めったにチャンスが与えられることはありませんでした。

 昨季オフに結婚した山本翔選手。今季は期するものがあったことでしょう。しかし、会沢選手、白浜選手中心に起用され、シーズン中盤からは上村選手も加わり、さらには育成枠の中村亘選手も起用されるようになって来ました。その中で当然のように出場機会が減り、チャンスすらほとんど与えられないままとなったのです。今季は2軍でも11試合に出場し、12打数3安打にとどまりました。

 2軍の捕手陣の人員不足のときだけ、試合に駆り出された起用が目立った山本翔選手は2010年、1軍のシーズン終了を待たずに戦力外通告を言い渡されました。9年のプロ野球人生で、1軍昇格のチャンスはもしかしたら1度もなかったかもしれません。9年間、あくまでも非常時の捕手的な起用が目立っただけに、もう少しチャンスを与えてほしかった・・・捕手は育てるのが難しいと言いますが、なかなか捕手プラス別のポジションと言うのが難しいだけに、チャンスを与えるのもまた難しいのですね。

 引退後は、外資系の保険会社の就職することになったそうです。家族もいるだけに、これからの第2の人生・・・頑張ってほしいと思います。

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94 ジョン・ベイル(投手)

1972年3月3日生まれ。
南ミシシッピ大〜トロント・ブルージェイズ〜ボルティモア・オリオールズ〜
ニューヨーク・メッツ〜シンシナティ・レッズ〜広島(2004−2006)〜
カンザスシティ・ロイヤルズ〜広島(2010)

2010年オフに戦力外通告。タイガース3Aへ。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2004 25 11 10 0 160 1/3 70 173 75 4.21
2005 51 2 1 24 53 2/3 21 72 19 3.19
2006 30 1 2 6 43 11 46 14 2.93
2010 30 0 3 1 26 2/3 18 21 21 7.09
通算 136 14 16 31 283 2/3 120 312 129 4.09

 まさか、この投手の名前を再び聞くことになるとは思いませんでした。

 2004年に広島に入団すると、先発として11勝を挙げる大活躍。在籍2年目には、今度は一転、守護神として24個のセーブを挙げました。しかし、3年目となる2006年、雨の中でのマウンドとなった試合で、足をとられたことが原因で故障してしまい、その後、2軍に降格し、そのままチームを退団することになりました。カープが獲得した助っ人左腕で初めて勝利を挙げた投手であり、それとともにカープの史上最強助っ人左腕だっただけに、何とも悔やまれる退団となったのです。

 その後、大リーグに戻ったベイル投手はカンザスシティ・ロイヤルズでプレーをしました。ところが、2009年オフにフリーエージェントとなったのです。そこで、カープへ入団の打診があったといいます。ベイル投手の奥様の後押しもあって、カープへ4年ぶりの復帰を果たすことになりました。復帰直後の印象は、やはり「太ったな・・・」ということ。スピードも初来日の頃の150キロ台の速球は影を潜めていました。

 しかし、中継ぎ陣が相次いで戦線離脱する中で、ベイル投手にもチャンスが回ってきました。1軍昇格直後こそ、145キロを越えるストレートを見せていたのですが、登板が重なるたびに速球の球威はなくなっていきました。一時は、過去の経験から守護神を負かさせるケースもあり、1セーブを挙げはしましたが、安定感がない投球で、守護神としての信頼を得ることは出来ず、シーズンオフに戦力外通告を受けることになりました。良い投手なのですが、やはり年齢的なものもあるのでしょうね・・・。やはり全盛期からの衰えは隠しきれなかった、そんな印象を受けました。

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121 山内敬太(外野手)

1985年5月23日生まれ。
愛知・享栄高〜名城大〜広島(2007年育成1位)

2010年オフに戦力外通告。

 外野手は比較的、豊富な戦力がある。しかも左打者はカープには将来有望な選手もいれば、ベテランもいる・・・そんな中で、育成ドラフトで指名された山内選手。正直、「よほどの成績を残さなければ、苦しい状況だろう」という思いでいました。唯一、支配下登録される可能性があるとすれば、長打力がキーワードではないか。つまり2軍でホームラン王を取るくらいの長打力を発揮できれば・・・というところでした。

 高校時代は投手としてもMAX147キロを投げる投手としてプロからも注目を集めました。しかし、大学に入学後は、監督に元々投手だったこともあり、その強肩ぶりが評価され、外野手へ転向しました。外野守備では強肩を披露し、また打撃では本来の飛ばす力を如何なく発揮し、名城大の主軸に座ったのです。そして、その長打力に目をつけたカープが育成ドラフトで指名しました。

 実は、山内選手はすでにプロへは進めないと諦めていたらしく、一般企業へ就職する道を選んでいたそうです。しかし、カープが育成ドラフトで指名したことで、一転、プロの道へと進むことになりました。

 1年目は打率.279とまずまずの打率を残しました。2軍ではなった12本のヒットのうち、4本が2塁打。長打力があるところも見せ、期待は高まったのですが、2年目は打率.194と低迷してしまいました。数少ない打席のチャンス・・・それだけに難しさもあったのでしょう。しかし、その中でも結果を残さなければならないのが、育成選手の務めなのでしょう。3年目はシーズン終盤に2軍ながらついにプロ初ホームランを放ちましたが、「時すでに遅し」でした。

 大卒の育成選手でこの成績で、再び育成契約というのは厳しいでしょうね。案の定、その年のオフに自由契約となりました。元々、野球を諦めていた選手にふっと沸いたプロへの道。もし、彼が高校生から入団していたら、シーズン終盤に見せた長打力を信じて、あと1年、契約を結ぶのでしょうが、山内選手の場合は大卒だったことで、4年以上のチャンスは与えられなかったのでしょう。

 合同トライアウトも受けなかった山内選手。元々はプロ野球選手なんて無理・・・と思って、一般企業へ就職しようとしていたわけですから、ダメもとという気持ちはあったはず。それでも、やり遂げてくれました。今後はどのような進路を歩むのかは分かりませんが、新天地ではこの3年間の経験を活かせば、きっと頑張れるはず。

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122 山中達也(投手)

1988年12月23日生まれ。
香川・丸亀城西高〜広島(2006年育成1位)

2010年オフに戦力外通告。2011年は四国九州アイランドリーグ・香川へ

 育成ドラフトで獲得した選手は、まず最初の3年が一つの区切りとなります。3年を待って、将来性が買われれば、そこからは1年単位での契約となるわけです。カープの育成選手としては初めて4年目となる2010年も、カープのユニフォームに袖を通しました。それだけ、3年目の結果から成長を期待されていたのです。

 そんな山中投手は、2006年の育成ドラフト1位で丸亀城西高からカープに入団しました。そう、今を輝くマエケンや会沢選手と同期なのです。そもそもストレートの球速はMAX140キロと、けしてずば抜けたものは持っていません。しかし、スライダーにシンカーにと、多彩な変化球を操る実践派の投手として、カープは注目していました。

 1年目、2軍ではマエケンよりも早くプロ初勝利を手にしました。順風満帆のスタートを切った山中投手の1年目は12試合の登板で、1勝で防御率3.44という数字を残しました。しかし、2年目は12試合で防御率9.60と沈んでしまいました。3年目には球威が増し、攻めの投球がさえたことで、12試合に登板し、防御率は2.18と安定感はかなり際立ったことで、育成選手としてもう1年の猶予が認められたのです。しかし、20回と3分の2を投げて、14個の四死球。やはり制球が大きな課題として残りました。

 育成選手として4年目となった2010年。山中投手は3年目までに培った球威を生かすことが出来ませんでした。制球にも苦しみ、安定感のない投球内容。11試合に投げて、防御率は3.45・・・3年目のそれと比べると、特に見どころのないままの1年。結果的に、オフに戦力外通告を受けることになってしまったのです。やはり、育成選手としての4年目はかなりの結果が求められるということでしょう。しかし、前年を大きく下回り、これといった進歩が見られなかったというのが、戦力外となった大きな理由なのでしょう。

 山中投手は四国九州アイランドリーグの香川への入団が決まりました。ここなら、もう一度アピールすれば、プロへの復帰だって十分にあります。まだ諦めない・・・その気持ちで、もう一度、プロを目指してほしいと思います。

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