あなたを忘れない〜2009年度版〜

 ※表示している成績は広島での成績、通算は広島在籍時のみの生涯成績です。

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4 尾形佳紀(外野手)

1978年8月5日生まれ。
広島・日大藤沢高〜日本大〜ホンダ〜広島(2003年4巡)

2009年オフに戦力外通告。その後、カープのスカウトに転身
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2004 53 208 52 18 4 10 56 4 7 .250
2005 47 198 60 21 6 17 44 9 12 .303
2007 46 70 15 3 2 5 24 0 0 .214
2009 1 1 0 0 0 0 1 0 0 .000
通算 147 477 127 42 12 32 125 13 19 .266

 6年間のプロ野球生活で、わずか147試合に出場したのみ…いや、もっと出場できる、レギュラーも十分に獲得できる実力がありながら、度重なる足の故障によって147試合にしか出場できなかった、という方が正しいでしょう。しかし、尾形選手がファンに残したインパクトはすごいものでした。

 2003年のドラフト4巡でカープに入団した尾形選手。即戦力として期待されましたが、53試合の出場にとどまり、打率.250、4本塁打の成績に終わりました。しかし、この年はシュートや外野を守るなど、将来性を感じさせるものでもありました。

 2005年には1番・ショートのレギュラーを勝ち取り、3割以上の打率を残す活躍を見せました。カープの攻撃の拠点として、欠かせない選手となった矢先でした…。5月28日の西武戦で、右膝前十字靱帯の断裂の重傷。このケガが尾形選手のプロ野球人生を大きく変えてしまいました。1番打者を失ったカープは、その後失速。尾形選手がどれだけ大きな存在になっていたかを示す結果となりました。

 その後は人生3度目の右ひざの手術を行い、順調な回復を見せていたものの、開幕前に「右膝大腿骨滑車面軟骨損」でまたも手術。2007年には足の負担の少ない外野手に転向し、2年ぶりに1軍に復帰しましたが、本来の打撃を取り戻せないまま、2009年のオフに自由契約となってしまいました。2009年は1軍でわずか1打席、しかも相手は北海道日本ハムのダルビッシュ投手の前に三振に倒れたという結果でした。

 そんな重傷の故障の連続だった尾形選手の一番印象深い試合といえば、やはり2007年8月24日の巨人戦を挙げる方が多いことでしょう。7対7の同点で迎えた9回裏2死ランナーなしの場面でした。

 バッターボックスには代打で尾形選手が告げられました。このシーズンの打率は2割3分1厘。2年のブランク、そして足の故障など…2005年序盤の活躍ぶりとは程遠い内容はありました。バッターボックスには尾形選手、1ストライク3ボールからの5球目でした。白球はライトへ舞い上がりました。そして、ライトスタンドに到達するホームラン。尾形選手にとっては、プロ野球人生を大きく変えたあの故障の3日前、2005年5月25日にはなった一発以来、2年3ヶ月ぶのホームランとなりました。チームの勝利を決めた一打は、同時に自身の復活を祝う祝砲にもなりました。

 尾形選手はヒーローインタビューで涙ながらにこう語りました。「取られると思った。でも、最後はファンの一押しで入ったホームランでした。野球が出来るようになったのも、本当にファンの応援のおかげだと思っています。感謝の気持ちでいっぱいというか、こうやって野球が出来るだけで幸せで。戻ってこれるかどうかも分からなかったので・・・」

 2009年オフ。尾形選手は静かにユニフォームを脱ぎました。故障との戦いからの解放でもありました。そして、ユニフォームをスーツに替えて、引退後はカープのスカウトに転身しました。早速、ドミニカに研修にいったり、指名選手の契約に立ち会ったり、もちろんドラフト候補の選手の調査に行ったり…多忙な日々を過ごしているようです。尾形選手が見つけ出したたくさんの金の卵が、1軍で活躍する日が来ることを祈っています。

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9 緒方孝市(外野手)

1968年12月25日生まれ。
佐賀・鳥栖高〜広島(1986年3巡)

2009年に引退。現在、カープ1軍野手総合コーチに。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1988 1 5 5 5 1 0 2 0 0 .200
1989 2 0 0 0 0 0 0 1 0
1990 32 14 14 14 2 1 3 2 0 .357
1991 102 200 200 200 5 32 37 12 2 .185
1992 86 115 115 115 3 9 21 18 3 .226
1993 93 150 150 150 4 21 36 14 0 .240
1994 57 126 126 126 5 12 25 12 1 .278
1995 101 272 272 272 10 56 45 47 3 .316
1996 129 516 516 516 23 71 129 50 3 .279
1997 135 528 528 528 17 76 93 49 5 .271
1998 107 380 380 380 15 51 61 17 3 .326
1999 132 495 495 495 36 93 76 18 2 .305
2000 21 66 66 66 3 8 15 1 0 .182
2001 64 159 159 159 8 24 26 1 1 .245
2002 130 476 476 476 25 56 95 4 3 .300
2003 136 530 530 530 29 53 100 8 2 .300
2004 122 456 456 456 26 50 87 4 3 .292
2005 122 431 431 431 21 54 65 3 2 .306
2006 81 215 215 215 6 23 33 2 2 .284
2007 33 83 83 83 0 6 19 1 0 .181
2008 69 76 76 76 2 11 10 2 0 .197
2009 53 49 49 49 0 10 2 2 0 .184
通算 1808 5342 5342 5342 241 717 980 268 35 .282

広島に在籍した年数はなんと23年。カープ一筋で20年以上在籍した選手は衣笠祥雄氏の23年、山本浩二氏の22年、そして2010年で21年目を迎える前田智徳選手と緒方選手の4人だけ。その23年間のプロ野球生活は栄養の成績の数々と故障の連続でもありました。

1986年のカープのドラフト3位で佐賀県は鳥栖高校からカープに入団した緒方選手。同じ年といえば、今、カープの1軍のブルペンキャッチャーでありブルペンコーチでもある水本勝己氏、そして阪神に移籍した金本知憲選手がいます。

そんな緒方選手は1988年にプロ初安打がホームランという劇的デビューを飾りましたが、1軍でようやく定着し始めたのが1991年。2010年現在、カープ最後の優勝の年でした。自己最多の102試合に出場したものの、打率は.185。まだまだ発展途上の選手でもあり、また故障がちな選手でもありました。

緒方選手にとって大きな転機となったのは1995年。前田智徳選手に離脱で外野のレギュラー不在という状況で、見事に入り込んだのです。この年、101試合の出場ながら打率.316のハイアベレージとともに、47個の盗塁を決め、初めて盗塁王のタイトルを獲得しました。翌年は50盗塁、さらに次の年は49盗塁と、3年連続で盗塁王に輝きました。この3年間で生涯盗塁数の6割近くを決めたことになります。

入団当初は二塁手でしたが、外野へ転向してからは、持ち前の俊足と球際への執念を感じさせるプレーで、投手を何度も救うプレーを披露し、1995年から99年までの5年間、ゴールデングラブ賞を獲得しました。押しも押されぬ球界を代表する外野手となりました。

2000年、2001年と度重なる故障で試合から遠ざかることもありましたが、再びスタメンに戻ってきた緒方選手は2002年、2003年と打率3割をマーク。2005年には打率.306のハイアベレージをマークしました。しかし、2001年に右足首の手術を行った影響からか、盗塁数は激減してしまいました。

数々の栄光はもはや語るべくもないでしょう。1回表の先頭打者ホームランは22本で歴代3位。また1階裏も含めた先頭打者ホームランは28本で歴代5位。1999年にはなった8本の先頭打者ホームランは歴代2位。また1997年の9月11日の対阪神戦で放った3点差をひっくり返す絵に描いたような逆転サヨナラ満塁ホームラン派印象深いシーンでもありました。2009年6月8日には1500本安打も達成しました。

2009年10月に引退を表明し、10月10日に行われた引退試合。8回からセンターの守備に着いた緒方選手。センターフライをしっかりキャッチし、最後の守備を無難にこなしました。その裏、緒方選手の最後の打席では、巨人先発・ゴンザレス投手の初球を右中間へ飛ばし、若々しさあふれる俊足を飛ばし、2塁を回って、そして最後は足がもつれながら3塁へヘッドスライディング。続く打者の場面でキャッチャーが後逸している間にホームへ突っ込みました。しかし、その必死のスライディングもホームまであと数センチのところで留まってしまい、タッチアウト…。泥だらけになった緒方選手のユニフォーム。緒方選手らしさ満開でしたが、それとともにやはり年齢的な衰えを感じさせる寂しさもありました。

2010年からは1軍の野手総合コーチに就任した緒方コーチ。今まで審判の判定に文句を言ったことがなく、温厚なイメージのある緒方コーチですが、至らないプレーにはカミナリを落とし、必死で技術を教えているようです。緒方コーチの力で、1軍で活躍する若手をどんどん育ててほしいと思います。第2のコーチ人生、応援してます。

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11 コルビー・ルイス(投手)

1979年8月2日生まれ。
ベーカーズフィールド短大〜テキサス・レンジャース(99−04)
〜デトロイト・タイガース(05−06)〜ワシントン・ナショナルズ(07)〜
オークランド・アスレチックス(07)〜広島(08−09)

2009年オフに契約交渉が不調となり、テキサス・レンジャースに復帰
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 26 15 8 0 178 33 183 53 2.68
2009 29 11 9 0 176.1 43 186 58 2.96
通算 55 26 17 0 354.1 46 369 111 2.82

 カープ史上最高の助っ人右腕・・・まさに、その言葉にふさわしい投手だったのではないでしょうか。黒田投手が大リーグへ移籍したことにより、獲得したのがルイス投手。今思えば、黒田投手がカープに在籍していた頃に、ルイス投手を獲得していたら、それこそ先発投手には大きな2本の柱が出来たのにと思わずにはいられません。

 コントロールも素晴らしかった。球速も150キロを超えるような勢いがありました。そして打者としても、シーズンにホームランを2本放つこともあったりと、投打に渡って活躍をしたルイス投手。コントロールが抜群であったことが、日本野球界で成功した大きな要因だったのではないでしょうか。日本の選手の特徴はなんといっても選球眼。だからこそ、球速は多少落ちても、コントロールがある投手ほど生き残ることが出来る・・・しかし、ルイス投手は球速もコントロールも非常に高いレベルにあり、それがこの好成績を残した理由だったのだと思います。

 日本で登板した試合は55試合。そのすべてが先発であり、合計で354回と3分の1を投げながらも、奪った三振はイニング数を上回る369個。これはすごいとして言いようがありません。球数をセーブしながら、打者を打たせて摂ることが多い先発投手にもかかわらず、どんどん三振を奪い、何と2年間の在籍中で2年とも奪三振王のタイトルを手中に収めた。これも、コントロールと球威が成せる業だったのでしょう。

 しかし、カープをわずか2年で去ってしまうことになりました。通算26勝17敗・・・9つもの貯金を作っての退団となりました。契約交渉が不調に終わるとともに、奥様の体調が思わしくない・・・それが理由でもありました。元々の古巣であるテキサス・レンジャースに移ったルイス投手は、日本野球での経験を活かし、その後はチームの先発ローテーションの一角として、ワールドシリーズにも出場するなど、その名前は日本でもとどろいています。そんな投手がカープにいたこと・・・今となっては誇りに思うばかりです。

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13 牧野塁(投手)

1974年7月17日生まれ。
山梨・山梨学院大付属高〜オリックス(93−03)〜阪神(04−06)〜
東北楽天(07−08)〜広島(08−09)

2009年オフに戦力外通告。横浜の打撃投手に。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 7 0 1 0 16 1/3 10 8 7 3.86
2009 14 0 0 0 21 1/3 6 13 10 4.22
通算 222 13 23 2 388 2/3 20 337 187 4.33

 最初はオリックス。11年間所属した球団をトレードで追われ、2004年に阪神に入団すると、その3年後には東北楽天に・・・そんな移籍が続いたプロ野球人生でした。150キロを超える直球が一番の魅力だった右腕でしたが、最後まで課題としてもたげたのは制球でした。2003年にはシーズン100イニング以上投げた年もありましたが、それでもなかなか軌道に乗ることが出来ず、ここぞというところで他球団への移籍。

 カープへやってきたのは008年のシーズン途中でした。カープが先発もできる投手を探していた一方、東北楽天は中継ぎ左腕を希望していました。それぞれの希望が合致して、カープの佐竹健太投手と1対1の交換トレードで獲得したのが牧野投手でした。

 獲得した当初はそれこそブラウン前広島監督にも、非常に評価が高かった印象があります。先発の駒不足に喘いでいたカープですが、先発も出来る牧野投手の獲得によって、投手陣のやりくりの面で非常に大きな手助けとなるとされていました。投手でのユーティリティ性を兼ね備えた投手として、その実力を期待されました。

 そのシーズンオフには結婚もし、心機一転、家庭のために踏ん張らないと・・・そんなカープの2年目でしたが、なかなか結果を残すことは出来ませんでした。マエケン、斉藤投手、篠田投手と言った若手の台頭で、先発としての登板はなくなり、あくまでも中継ぎ一本となった状況の中で、楽な場面では非常に素晴らしい投球を見せる反面、競った場面だと制球難になってしまう・・・ベテランの味を見せることができないままだったように思います。

 2009年オフに戦力外通告を受けた牧野投手。トライアウトを受け、現役へ何とかこぎつけたかったところなのでしょうが、なかなか上手くはいきませんでした。その後、横浜の打撃投手になることが決まりました。元々速球派だっただけに、カープで打撃投手を打診しても良かったのでは?と思ったりもしますが、カープは何となくトレードでやってきた選手に冷たい風潮が・・・。それでも、第2の人生、頑張ってほしいと思います。

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22 アンディ・フィリップス(内野手)

1977年4月6日生まれ。
アラバマ大〜ニューヨーク・ヤンキース〜ニューヨーク・メッツ
〜シンシナティ・レッズ〜広島(2003年3巡)

2009年オフに戦力外通告も、2010年は東北楽天でプレー
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2009 74 264 70 50 15 32 48 0 2 .265
通算 74 264 70 50 15 32 48 0 2 .265

 2008年オフ。カープの補強する助っ人選手の中に、このフィリップス選手の名前がありました。しかし、フィリップス選手自身の大リーグ志向の強さのため、獲得を断念した経緯がありました。ところが、カープが貧打に泣く6月。突如として、このフィリップス選手お名前が急浮上したのです。2009年、3Aでプレーしていたフィリップス選手が6月15日にFAとなるや否や、一気に獲得に乗り出したカープは、6月26日は獲得を発表するというスピード契約にこぎつけたのです。

 入団会見では、そのイケメンぶりで取材陣も驚いたようです。広島カープの公式サイトでも「男前新外国人」として紹介されるなど、イケメンを前面に押し出していましたね。

 6月30日、岐阜で行われた巨人戦に3番レフトでスタメンを飾ると、4打席目にレフトスタンドへ来日初安打となる初アーチを架けました。ド派手なデビューを飾ったフィリップス選手ですが、その後は初めての日本野球の前に低迷してしまいます。しかも守備では何でもないフライを後逸したり、取れそうな打球をワンバウンドで捕球したり・・・守備でも足を引っ張るシーンが多々ありました。

 しかし、大リーグではヤンキースの4番を打ったこともあるほどの実力の持ち主。1ヶ月もすれば日本野球にも徐々に慣れてきて、ホームランにヒットにとついに当たりが出てきました。一時は打率3割に届きそうになるまでに調子を上げました。シーズン終了時点では打率こそ2割6部5厘でしたが、74試合で50打点を上げる勝負強さで、2009年は栗原選手に次ぐ、9個の勝利打点。しかも長打率は5割、出塁率は3割3分9厘。途中入団ではありましたが、チームの打撃には大きな起爆剤となりました。

 球団は来季の契約更新を考えていました。しかし、結果的には戦力外通告。その理由は、調子の波が激しすぎること・・・でした。そして、なんと2010年に入ってすぐ、東北楽天との契約が結ばれました。今日の友は明日の敵・・・手強いバッターが移籍してしまう事態となりますが、カープも負けてはいられません。

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43 スコット・ドーマン(投手)

1978年2月13日生まれ。
ロッキーズ〜ロイヤルズ〜レイズ(デビルレイズ)〜広島(2009)

2009年シーズン中に解雇され、3Aに復帰。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2009 9 0 0 0 8 10 4 16 17.28
通算 9 0 0 0 8 10 4 16 17.28

 プロ入りしてからは3Aでも大リーグでもすべて中継ぎで登板しまくった右腕。MAX154キロといわれる豪速球とスライダーを武器に、大リーグでは目下2005年から4年連続で勝利を挙げており、2008年にも2勝を挙げました。

 そして、中継ぎ陣の駒不足に悩むカープが獲得したのが2008年のオフでした。ここ数年のカープの助っ人投手には珍しく身長185センチという右腕。しかし、大リーグでも164試合に投げ9勝を挙げるなど、その活躍が期待され、それは年俸5700万円と来日1年目の外国人としては、やや高額の年俸ではありました。

 キャンプ中のドーマン投手の評価は非常に高いものでした。スピードにはまだ不満が残ったものの、何よりも評価が高かったのがクイックの速さです。1塁走者を釘付けにするくらいのクイック。外国人投手は一般に、モーションが大きすぎるために、盗塁を仕掛けられやすいなんていわれますが、ドーマン投手の場合はまるで問題ではなく、実戦向きであるという見方が大半でした。

 開幕1軍入りを果たし、セットアッパーの一角として期待されながら、問題は制球力でした。カープでの成績をご覧いただければ分かるとおり、8イニングで10個もの四死球。被安打も14。つまり平均すれば1イニングで3人の走者を出してしまうという計算になります。とにかく制球に苦しみ、ストライクを取りに来た球を通打された・・・その繰り返しでした。

 そして何よりも、カープがプロ野球史上最悪となる1イニング15失点を喫した6月11日の千葉ロッテ戦。そのイニングの2番手で登板したドーマン投手は四死球連発、ヒットも連発・・・「何をしに出てきたの??」と言いたくなるほどのボロボロ・・・。このあとを受けた森投手は1軍定着を狙っての登板だったのに、火に油を注いでしまった打線を抑えきれず。若手の芽をもつぶしてしまった・・・。

 そんなドーマン投手は、6月にカープでは2000年のカンバーランド投手とボール選手以来となるシーズン途中での解雇となりました。その後はアメリカに戻り、3Aで投げているようです。

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52 比嘉寿光(内野手)

1984年7月4日生まれ。
沖縄・沖縄尚学高〜早稲田大〜広島(2003年3巡)

2009年オフに戦力外通告。今後は球団フロント入り。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2006 8 16 3 2 1 1 4 0 0 .188
通算 8 16 3 2 1 1 4 0 0 .188

 今まで、東京六大学からカープに入団した選手のほとんどは法政大学出身でした。その中で、カープにとって初めて早稲田大学から指名したことで話題になったのが比嘉選手でした。

 沖縄出身の比嘉選手は、沖縄尚学高校時代の1999年のセンバツ高校野球では4番として、そしてチームの主将として沖縄県勢では初めて、深紅の優勝旗を沖縄に運びました。沖縄県下ではスターとなった比嘉選手は早大に進学し、ここでも4番として、持ち前の長打力を如何なく発揮し、大学通算9本塁打を放ちました。また主将としても、後に同期でプロ入りする東京ヤクルト・青木宣親選手、阪神・鳥谷敬選手、オリックス・由田慎太郎選手ら、そうそうたる顔ぶれが揃うチームをまとめ、早大の黄金期を築き上げました。

 そんな比嘉選手がカープに入団し、与えられた背番号は阪神にFA移籍して以来、ポッカリ空いていた金本選手がつけていた「10」。その期待の大きさを感じさせるものでした。

 しかし、1年目から故障に苦しみ、2軍でも打率.219と即戦力の期待に応えられなかったものの、2年目の2005年は2軍で打率.282で4本塁打の成績を残したことが評価され、9月18日に初めて1軍昇格を果たすと、翌日の横浜戦で代打でプロ初出場を果たし、いきなりホルツ投手から左中間スタンドへホームランを叩き込みました。なんと、プロ初出場初打席初安打が代打ホームランという、快挙を成し遂げました。私もその試合を横浜スタジアムで観戦していましたが、いきなりの初球をスタンドに叩き込んだので、正直驚きました。大敗で大荒れの試合展開の中で、「見にきてよかった…」と思えるシーンでしたね。

 でも、1軍出場を果たしたのは、この年が最後。もちろん、長打力が魅力だった比嘉選手のホームランもこれが最初で最後でした。2008年には2軍でも打率.063に落ち込みました。2009年には規定打席不足ながら、代打で結果を残し、打率.313の成績を残したものの、残念ながら戦力外通告を受けることになりました。華々しいデビューを飾っただけに、そして最終年にはようやく打撃でつかんだものがある感じだっただけに、残念な通告でした。来季からはカープのフロントに入り、カープを下から支える役割を担います。第2の人生も頑張ってほしいですね。

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54 吉田圭(内野手)

1984年7月4日生まれ。
東京・帝京高〜広島(2002年2巡)

2009年オフに戦力外通告。今後は未定。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2006 16 24 3 2 0 3 9 0 1 .125
通算 16 24 3 2 0 3 9 0 1 .125

 2002年のドラフト会議で、東京・帝京高からドラフト2巡で指名されたのが吉田選手でした。このとき、4巡で指名されたのが、同じ帝京高の松本高明選手でした。カープが1年に同じ高校から2人指名した珍しい年でもありました。

 吉田選手は当初、投手として入団しました。しかし、高校時代も投手としての経験は少なく、3年の夏に東東京大会で9回1死までノーヒットノーランという快投の投球を見せたことで、一気にカープのスカウト陣の評価が上がったのでしょうか。実は、本来は長打力が自慢の打者でもあったのです。

 投手としてスタートを切ったプロ野球生活でしたが、キャンプ中に肩を痛めてしまい、その年のシーズンオフに「肩が使い物にならなくなりました」ということで、野手転向を決意しました。結局、投手としては、2軍のマウンドすら立つことなく、打者として新たな道を模索することになりました。

 そんな吉田選手が1軍に初めて昇格したのが2006年の8月26日のことでした。北海道は釧路で行われた試合で、途中出場でファーストの守備に就きました。その翌日には代打で出場し、東京ヤクルト・館山投手からライト前へプロ初ヒットを放ちました。8月31日には7番・ファーストでプロ初スタメンに名を連ね、4打数1安打と結果を残しました。特にこの試合で、巨人先発・西村投手からレフト前へ放った技ありのヒット。これを見たときは、きっと赤ゴジラ2世的な存在になれると期待したものです。

 ところが、この年を最後に吉田選手が1軍に昇格することはありませんでした。2軍では4番に起用されることもあるくらい期待の高かった選手でしたが、打率は2割前半と結果を残せず・・・。同じポジションを守ることが多い松山選手や岩本選手の加入によって、2軍でも出場機会を失いつつありました。2009年シーズンは序盤こそ3割を超える打率を残していましたが、終盤にくるにつれて調子も上がらなくなり、結果的に2割5分9厘。持ち味の長打力もわずか1本塁打と影を潜めてしまい、自由契約となってしまいました。

 2007年には2軍で7ホーマーを放ち、長距離ヒッターの片鱗は見せたのですが、やはり確実性を上げることが最後までできなかったということなのでしょう。第2の人生・・・将来は未定ですが、月並みですが頑張ってほしいですね。

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57 スコット・シーボル(内野手)

1975年5月17日生まれ。

ウエストバージニア大〜ニューヨーク・ヤンキース〜
セントルイス・カージナルス〜広島

2009年オフに戦力外通告。大リーグ復帰を目指す
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2008 110 400 109 53 15 29 74 0 14 .273
2009 40 127 27 11 4 13 32 1 4 .213
通算 150 527 136 64 19 42 106 1 18 .258

 2007年オフ。当時、カープの4番を打っていた新井選手が阪神へとFAで移籍しました。それに伴ってぽっかり空いてしまったのが、サードのポジション。そして右の長距離砲も失ったカープにとって、補強は必須の状況で、獲得したのがシーボル選手でした。カージナルス傘下の3Aアルバカーキでは打率.300、32本塁打、105打点をマークした長打力のある打者として期待されました。その期待は背番号「25」という新井選手がつけていた数字にも表れていました。

 来日直後に見たシーボル選手の姿は、かつてカープに在籍していたアンディ・シーツ選手と何となく雰囲気が似ている。しかし、ベースからちょっと離れて立っていたこともあって、外角を苦手とするパターンの選手ではないかという一抹の不安もありました。

 2008年のシーズン。出来る限り日本野球に慣れさせようと、調子が悪くてもスタメンで起用されました。打率は2割5分前後を行ったりきたり・・・。でも、この選手の不思議なところは、期待しているとサッパリ打てないのに、期待していないと、なぜか打ってしまう・・・ここになんとも憎めないところがありました。

 私は2008年8月13日に、旧広島市民球場で見た私の最後の試合。序盤に5点を奪われ完全に劣勢の状態ながら、5対4と1点差まで攻め寄った5回裏。2死から嶋選手のヒットの後のシーボル選手。正直、まったく期待していませんでした。しかし、放った打球は打った瞬間それと分かるレフトスタンドへの見事なホームラン!シーボル選手にはこんな意外性がありました。

 2008年のシーズン終盤に調子を上げたことで、2009年の契約が決まりました。しかし、背番号は57に降格。それでも、栗原選手が腰痛でスタメンを外れたときは4番も打ちました。どことなく、優先的に起用されていた風潮がありました。それでも、打率は1年目を大きく下回る結果に。シーズン中に故障をしたこともあり、試合から遠ざかっていきました。

 2009年オフ、意外性の男は静かに去っていきました。でも、何となく記憶にも残る選手だったシーボル選手。2010年は大リーグ復帰を目指すも、まだ未定となっています。

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67 ベン・コズロースキー(投手)

1980年8月16日生まれ。
広島・広陵高〜NKK〜広島(1999年ドラフト5位)
サンタフェコミュニティー大〜ブレーブス〜レンジャース〜レッズ〜
ドジャース〜ヤンキース〜広島

2009年オフに戦力外通告
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 26 2 1 2 38 19 31 20 4.74
2009 1 0 0 0 0 1/3 1 0 2 54.00
通算 27 2 1 2 38 1/3 20 31 22 5.17

 期待の左腕でした。とにかく入団当初、キャンプ中のブルペンでの投球内容には、他球団の偵察隊を驚かせ、そして脅威を与えるような投球を繰り広げていました。198cmという長身から繰り出される速球はやはりすごいものがありました。かつてカープに在籍していたジョン・ベイル投手を彷彿とさせるような、それだけ勢いを感じさせる内容でした。

 入団1年目となった2008年のシーズン。守護神の永川投手がフォーム守勢に失敗したこともあり、開幕までの調子をあげることが出来ずにまさかの2軍スタート。ここで代わりの守護神となったのがコズロースキー投手でした。開幕の中日戦、9回表に1点を奪い、そのリードを守るために起用されたのがコズロースキー投手でした。しかし、2死1・2塁というところまでいきながら、当時中日に在籍していた中村紀洋選手にレフトへ運ばれ、同点とされてしまいました。

 ここで抑えていれば・・・

 今でもそう思ってなりません。若い投手だっただけに、最初を無事に切り抜けていれば、もっともっと活躍できたのではないか。そのご、2008年シーズンではシーズン途中に中継ぎから先発に転向し2勝を挙げました。それだけ実力のある投手ではあるのです。しかし、ブルペンでは良い投球をしているのに、マウンドに上がると人が変わったように悪くなる・・・そんな傾向があったようです。

 2009年シーズンでは背番号も34から67に大きくなってしまいました。それでもカープが残留を要請したのは、コズロースキー投手の球威と、不足していた左腕としての期待もあったのでしょう。しかし、来日2年目は2軍でも防御率5点台、たった1度登板sに田1軍のマウンドでも2失点で、防御率は54.00。これでは、いくら左腕とはいっても厳しい・・・。

 結局、2009年オフに戦力外通告となってしまいました。左腕としての期待を果たすことが出来ないまま、来季はアメリカで再びプレーするのか、日本の別の球団が獲得するのか、それとも他の国でプレーするのか・・・それは2009年11月20日段階では分かりません。

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90 スコット・マクレーン(内野手)

1972年5月19日生まれ。

アラバマ大〜ニューヨーク・ヤンキース〜ニューヨーク・メッツ
〜シンシナティ・レッズ〜広島(2003年3巡)
アタスカデロ高〜タンパベイ・デビルレイズ〜西武−シカゴ・カブス
〜サンフランシスコ・ジャイアンツ〜広島

2009年オフに戦力外通告。今後は大リーグ復帰を目指す
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2009 114 401 98 52 18 45 107 1 6 .244
通算 434 1439 340 223 89 208 391 6 6 .236

 打線の不振から、その起爆剤として開幕直後の4月27日に契約を結んだのがマクレーン選手でした。実は2008年のシーズン途中にも、一時、獲得を目指したようですが、チーム事情から回避された経緯がありました。

 マクレーン選手は2001年に西武に入団し、2004年までの4年間、日本でプレーした経験がありました。特に2001年には39本塁打を放つパワーを見せつけ、当時西武に在籍していたアレックス・カブレラ選手とともに、西武の長距離砲として「ツイン・バズーカ」とも呼ばれるほどでした。しかし、2002年以降は元々当たれば飛ぶけれども・・・という打撃だったこともあり、弱点を読まれてしまったのか打撃の調子を落としてしまいました。

 しかし、そんなマクレーン選手の長打力をカープが必要とし、獲得することになったのです。そして、入団直後の5月2日には早速スタメンに入り、いきなりその試合で一発を放ちました。シーズンでは18本塁打を放ち、当たれば飛ぶところは見せたのですが、調子の波が激しかった印象があります。打てる投手にはとことん長打力を発揮するも、相手投手によってはサッパリということもしばしば。打率も2割5分に届かず・・・。守備では主にサードに入ることが多く、自分の手の届く範囲であれば、意外と軽快にさばいていたのが、妙印印象に残っています。

 この年のカープは、シーボル選手、ドーマン選手、そしてマクレーン選手と3人の「スコット」を獲得したカープでしたが、3人とも退団となってしまいました。マクレーン選手の場合、持ち味のパワーは発揮しましたが、やはり5番を任せるには打撃に確実性が低かった。7番あたりで起用できるほど、カープの戦力に厚みがあれば、怖い存在だったとは思うのですが。

 自由契約になってからは横浜が獲得に興味を示した時期もあったそうですが、大リーグ復帰を目指すようです。

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