あなたを忘れない〜2008年度版〜

 ※表示している成績は広島での成績、通算は広島在籍時のみの生涯成績です。

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00 山崎浩司(内野手)

1980年10月31日生まれ。
大阪・大産大付高〜近鉄・大阪近鉄(1998年3位)〜
オリックス(2004)〜広島(2005)〜オリックス(2008)

2008年、シーズン途中に田中彰選手とのトレードでオリックスに復帰
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2005 96 208 53 9 1 7 40 1 5 .255
2006 27 81 9 1 0 3 19 0 3 .111
2007 17 32 8 2 0 1 7 0 0 .250
2008 8 13 2 0 0 0 3 0 0 .154
通算 151 339 72 12 1 11 70 1 8 .212

 2004年のオフといえば、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄・バファローズの合併問題で揺れ、さらにはその余波がプロ野球界全体にも波及した年でもありました。プロ野球界初のストライキも行われ、「プロ野球」という存在意義までも問われた1年でもありました。そんな合併問題に揺れる両チームの中、オリックス・バファローズが生まれた瞬間に、そのチームを飛び出したのが、山崎浩司選手と、1対2の交換トレードの対象となった上村和裕選手でした。

 そんな山崎選手。移籍1年目の2005年、持ち味の小技とチーム打撃で2番に定着しました。それまでチームの課題となっていた二遊間の守備に一気に光明を差し込むかのような華麗な守備を見せる山崎選手。特に捕球後のハンドリングの柔らかさは、文章では書き表せないほどのセンスを持ち合わせていました。

 2007年8月15日の巨人戦。試合も終盤で、勝負の女神がどちらに微笑むか迷っている終盤の7回表、チームのピンチを救うような隠し球を披露しました。そのときの「野球の基本、ボールから目を離さないこと」は、もはや名言ともなり、その試合の後日にはこの言葉がプリントされたTシャツが発売されるなど、影響力もすごかったとともに、山崎選手の曲者ぶりをまざまざと感じたものでした。

 しかし、振り返ってみると、梵選手や小窪選手といった二遊間を守れる選手の台頭、そして東出選手がセカンドに定着したこともあって、山崎選手の1軍での出番は徐々に減っていきました。さらに、守備では卓越した能力を持っていた反面で、打撃ではなかなか1軍で結果を残すことが出来ない日々・・・。2008年も開幕1軍を果たしながら、ゴールデンウィークが明ける頃には2軍へ降格し、1軍からの声はかからないままでした。

 そして7月18日。山崎選手にとって転機となったのが、古巣・オリックスへのトレードでした。田中彰選手との1対1の交換トレードで、4年ぶりに、今度は本格的にオリックスの選手としてプレーすることになった山崎選手。2008年はオリックスでもわずか2試合、1打席のみの出番に終わりましたが、来季は守備で首脳陣にしっかりアピールして、1軍で活躍ほしいですね。あの曲者の守備を、もうカープのユニフォームで見ることが出来ないのは残念ですが・・・。

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13 佐竹健太(投手)

1978年10月23日生まれ。
広島・広陵高〜NKK〜広島(1999年ドラフト5位)

2008年途中に牧野投手と交換トレードへ東北楽天へ移籍。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2000 22 0 2 0 19 2/3 12 17 12 5.49
2001 1 0 0 0 0 1/3 0 1 0 0.00
2002 6 0 0 0 5 3 7 3 5.40
2004 32 1 1 0 25 1/3 8 22 11 3.91
2005 50 0 1 0 36 1/3 22 30 24 5.94
2006 32 1 2 0 32 1/3 18 23 17 4.73
2007 20 0 0 0 9 1/3 7 6 5 4.66
通算 163 2 6 0 128 2/3 65 106 72 5.04

 広島から仙台へ。突然のトレード通告・・・。それは東北楽天・牧野塁投手との1対1のトレードでした。しかしそれは、2008年シーズンで、1軍昇格のチャンスが一度もなく、2軍で登板を続ける中で、一つのチャンスであったかもしれません。

 そんな佐竹投手がカープに入団したのは1999年のドラフト会議での席上でのこと。その俊のドラフト5位でNKK(現JFEスチール西日本)から入団した佐竹投手は、即戦力左腕として、さらに地元広島の広陵高校出身の投手としての期待が高まりました。そんな佐竹投手はルーキーイヤーから1軍での登板機会がありました。やはり左腕という特殊性からというのもあったからでしょう。

 しかし、そこから佐竹投手にとっては暗黒時代がやってきます。それは皮肉にも佐竹投手の教材になってといいほどといわれる理想的過ぎるほどのきれいなフォームにありました。そういったフォームは時に相手打者に非常にタイミングを合わされやすいという、両極端な二面性をあわせもつものでもありました。2001年から3年間で1軍で登板したのはわずか7試合。

 その間、そういったあまりにもきれい過ぎるフォームからサイドスローへの転向も図りました。プロで生きていく術・・・それを探してきた3年間。佐竹投手にとっては非常に厳しい期間ではなかったでしょうか。結果的にサイドスロー転向も功を奏さず、再びオーバーすローへ戻した途端、いったんは失った球威を取り戻しました。その速球は150キロに及ぼうかとするものでした。

 2004年には32試合の登板でプロ初勝利も挙げると、2005年には50試合登板を果たし、防御率5.94ながらもカープには欠かせない左腕へと成長を遂げました。これからも成長の一途をたどる・・・そう思われましたが、徐々に1軍への登板も減っていきました。2006年に1勝を挙げて以来、ついに2008年シーズンでは1軍へのお呼びもかからなくなりました。

 そして7月18日。佐竹投手にとって一つの転機が訪れました。それは、トレード。東北楽天・牧野投手との1対1の交換トレードです。広島から杜の都・仙台へ移籍することとなった佐竹投手は、移籍早々、1軍に上がり、貴重な中継ぎ左腕として24試合ものマウンドに上がり、2勝、防御率2.14の活躍を見せました。その活躍を見ていると、カープにいてほしかったような・・・。新天地で活躍できて良かったというか、複雑な気分になりますが、とにかくこれからの活躍も期待して。

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22 高橋建(投手)

1969年4月16日生まれ。
神奈川・横浜高〜拓殖大〜トヨタ自動車〜
広島(1994年ドラフト4位)〜トロント・ブルージェイズ

2008年オフにFA宣言し、トロント・ブルージェイズでマイナー契約
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1995 39 4 4 0 90 45 54 39 3.90
1996 24 2 1 1 52 2/3 21 40 29 4.96
1997 34 3 4 0 62 34 35 33 4.79
1998 41 3 8 0 101 48 76 43 3.83
1999 36 3 7 0 102 42 90 53 4.68
2000 50 5 9 4 112 1/3 60 88 49 3.93
2001 30 10 8 0 173 63 132 82 4.27
2002 26 9 14 0 173 1/3 41 142 74 3.84
2003 24 9 8 0 167 39 127 68 3.66
2004 18 3 10 0 96 26 66 59 5.53
2005 14 0 2 0 26 2/3 10 14 28 9.45
2006 54 2 3 0 46 17 40 24 4.70
2007 22 5 4 0 112 41 74 46 3.70
2008 21 8 5 0 115 2/3 47 71 45 3.50
通算 433 66 87 5 1429 2/3 544 1049 672 4.23

 建さん・・・この相性でファンからも絶大な人気があった高橋投手が、今季から40歳にして大リーグに挑戦するために、FA宣言し、チームを去ることとなりました。カープで過ごした14年間。先発もやり、中継ぎもやりととにかくフル回転でチームの勝利のために貢献してきた高橋投手。

 1994年のドラフト4位でカープに入団した高橋投手は、子連れルーキーとして話題になりました。即戦力として期待された高橋投手は1年目から先発に中継ぎにと39試合に登板し、4勝を挙げる活躍をみせました。その後も2003年までの9年間、すべてで20試合以上に登板するという鉄腕ぶりで、チームには欠かせない左腕となったのです。

 2001年には先発として10勝を挙げ、プロで初めての二桁勝利を挙げました。これ以降、2ケタ勝利というのは一度もなく、惜しくも9勝どまりだったことが2度・・・。いつも春先は調子よく勝ち星を積み重ねるのに、梅雨入りから夏場にかけて調子を崩してしまう。勝ち運にも見放されてしまい、なかなか勝利に繋げることが出来ない・・・そんなこともあり、どうしても10勝が近くて遠い壁となっていました。その後、夏場以降を乗り切るために禁煙に踏み切るなど、高橋投手自身も様々な努力に励んだようです。

 しかし、2004年以降は苦しいシーズンが続きました。2004年は先発ローテーションとして17試合に登板しながらも、3勝10敗と勝ち星から遠ざかってしまうと、2005年には左ひざの故障に苦しみ、自身ではワーストの14試合の登板にとどまり、防御率も9.45という成績に終わってしまいました。この頃から「引退」の二文字も頭をもたげていたようです。

 そんな選手生命の窮地を救ったのがシンカー系の球を使った打たせて取る投球でした。若手だった頃の高橋投手は150キロ台の速球も投げる速球派でした。それから一変して、変化球で交わすベテランの投球術を手に入れてからは、積極的に内角を突く若々しさも残し、再び輝きを取り戻しました。2007年には苦手だった夏場以降に勝ち星を積み重ねるなど5勝を挙げ、2008年には開幕からルイス投手と左右の両輪として活躍しました。シーズン中盤から勝ち星に繋がらなくなり、8勝にとどまりましたが、ベテランは完全に輝きを取り戻しました。この年、オールスター戦でも先発投手部門で1位に選ばれ、晴れてオールスター戦の先発マウンドにも登りました。

 2008年オフ。高橋投手は決心しました。夢だった大リーグへの挑戦です。同僚だった黒田投手の活躍を知らせを聞いて、かねてから夢に描いていた大リーグへ本格的に挑戦することを決心したのです。100年に1度の大不況の最中、建さんの行き先はなかなか決まりませんでした・・・。本人もヤキモキしたことでしょう。その中でマイナー契約ながら手を挙げたのがトロント・ブルージェイズだったのです。これで夢への扉は開きました。マイナーからのスタートですが、きっと建さんならその扉を開き、黒田投手についで2里目と成るカープからの大リーガーとなれるはず。応援してます!頑張って、目標の1勝を!!

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41 森笠繁(外野手)

1976年10月4日生まれ。
東京・国学院久我山高〜関東学院大〜
広島(1998ドラフト4位)〜横浜(2009)

2008年オフに金銭トレードで横浜へ
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1999 29 32 7 0 0 3 10 2 0 .219
2000 91 148 35 11 2 8 46 10 1 .236
2001 53 62 17 1 0 3 18 3 1 .274
2002 24 19 0 0 0 0 9 0 0 .000
2003 117 257 68 25 6 24 55 8 2 .265
2004 108 174 48 10 1 17 26 4 1 .276
2005 90 170 52 15 2 4 23 2 1 .306
2006 115 291 85 31 6 20 53 1 1 .292
2007 107 258 70 20 2 11 42 3 0 .271
2008 40 43 9 1 0 3 10 0 0 .209
通算 774 1454 391 114 19 93 292 33 7 .269

 1998年のドラフトといえば、今やカープの核弾頭となった東出選手、横浜へ移籍した小山田投手、阪神へFA移籍した新井選手、そして今でもカープの貴重な左腕である広池投手・・・とにかく活躍している選手が多い当たり年でもあります。そんな年のドラフト4位で関東学院大から入団したのが森笠選手でした。

 そんな森笠選手で、私自身が最も記憶に残っているのがプロ初安打です。1999年の開幕直後の中日戦、終盤の7回に代打で登場した森笠選手は、当時中日に在籍していた正津投手からセンター前へ詰まりながらもしぶとく運ぶヒットを放ちました。そのしぶとくもセンスのある打撃に、期待は高まりました。

 2000年にはプロ初本塁打に初打点も挙げ、91試合に出場し、徐々に1軍に台頭してくると、2003年には自己最多の117試合に出場し、2割6分5厘の成績を収めました。その後は代打での起用が主となりましたが、2006年には再びスタメンで起用されることも多くなり、自己最多の291打数で2割9分2厘という好成績を残しました。広島の貴重な左の代打でもあり、スタメンで出場させても結果を残すという、大きな戦力でもありました。

 森笠選手といえば、やはりその打席での特徴は、かつての浅井選手(現広島打撃コーチ)のように、右の袖を捲り上げ、鍛え上げた筋肉を見せるという仕草ではないでしょうか。個人的には、金本選手がFAでカープを去ったときは、この森笠選手こそがポスト金本の一番手だと期待していました。

 2007年には自身で2度目となる右打席での挑戦にも試みました。確かに入団当時はスイッチヒッターではあったのですが・・・。その挑戦も右打席での結果を残すことは出来なかったものの、打撃で新たな発見もあったようです。しかし、2008年には激しい外野のポジション争いの中から、徐々に外されていくように出場機会が激減しました。1軍と2軍を行ったり来たりする中で、出場した試合はわずか40試合。打率も2割9厘まで落ち込みました。

 しかし、出場機会さえあればまだ出来るはず。そんな思いを胸に、2008年オフにFA宣言するかどうかで悩んだようですが、結果的に獲得に乗り出す球団がない可能性が高まったこともあり、トレードでの移籍を模索した結果、森笠選手の地元である横浜への金銭トレードが決まりました。2009年からは青く、背番号00が入ったユニフォームに身を包みます。新たな野球人生のスタートとなる森笠選手。横浜では外野手として出場機会もきっとあるはず。新天地でぜひ頑張ってほしいですね。

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43 アレックス・オチョア(外野手)

1972年3月29日生まれ。
宮崎・高鍋高〜広島(2000ドラフト4位)
ハイアレア・マイアミレイクス高〜ボルティモア・オリオールズ〜
ニューヨーク・メッツ〜ミネソタ・ツインズ〜ミルウォーキー・ブリュワーズ〜
シンシナティ・レッズ〜コロラド・ロッキーズ〜ミルウォーキー・ブリュワーズ〜
アナハイム・エンゼルス〜セントルイス・カージナルス〜
中日ドラゴンズ(2003〜06)〜ボストン・レッドソックス〜広島(2007〜08)

2008年オフに戦力外通告、引退。
2009年からボストン・レッドソックスのコーチとなる。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2007 73 290 87 31 7 30 48 2 1 .000
2008 142 569 174 76 15 35 63 3 3 .300
通算 765 2933 847 416 97 286 474 17 15 .115

 私は思いました。この選手を2007年のシーズン中に獲得したことは、これまでのカープの補強戦略とはまったく異なり、非常に大きな積極性を感じたことを。振り返ってみると、アレックス選手が中日に入団したときは、当時外野の補強として、捕手もできる外国人選手を獲得したものの、それが裏切られてしまったことで、その代わりとして強肩が自慢で大リーグ経験も豊富だという事情があったことを。中日でも4番を務めたアレックス選手がカープに入団する・・・それだけでも、素晴らしいチョイスだと思いました。

 アレックス選手の良さといえば、誰もが口にするのは、外国人選手に対する面度見の良さではないでしょうか。アメリカという舞台から、見知らぬ日本へ舞台を移した新外国人選手たちに対して、積極的に日本の生活も含めて日本野球の素晴らしさを説き、不安でいっぱいの新外国人選手の肩をリラックスさせたこと・・・新外国人選手に対する貢献度という観点から見れば、文句なしの実績といえるのではないでしょうか。

 2007年の交流戦後にカープに入団したアレックス選手は、すぐさまチームの主力選手として定着し、打率3割という高打率を残しました。ここ最近のカープを見ていると、シーズン途中での入団を果たした選手に関しては、そのオフに解雇されてしまうケースが多い中で、アレックス選手は打撃面で結果を残したことが認められ、2008年もカープに在籍することが決まりました。

 2008年のシーズンでも142試合に出場し、3割6厘という素晴らしい成績を残したアレックス選手。当然、来年もらい外野の一角を守ってくれると思っていました。しかし、外野争いにおいては、現有戦力で十分にまかなえる上に、アレックス選手が3番打者として君臨する中で、ゲッツー(併殺打)が2008年ジーズンではリーグ最大・・・。3番打者としては、4番にチャンスでつなげてほしい場面でゲッツーが多い。これは3番打者としては大きなマイナスでもありました。

 個人的には2008年オフの中では最大の損失ではないかと思います。しかし、助っ人はあくまでも助っ人。日本人選手でその窮地をまかなえるのであれば、ぜひそうしたいのも心情でしょう。しかしながら、アレックス選手の退団は個人的には残念で仕方ありません。ちなみに退団後は、現役を引退し、コーチとして第2の人生をスタートさせるようです。もしかしたら将来のカープの監督候補になるかもしれませんね。

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52 大須賀允(内野手)

1980年3月8日生まれ。
群馬・前橋工高〜東北福祉大〜巨人(2001年6巡)〜広島(2007)

2007年オフに戦力外通告、今後は未定
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2007 16 20 3 1 0 3 6 0 0 .150
通算 34 27 5 3 1 3 9 0 1 .185

 2001年に巨人の指名を受け、ドラフト6巡で入団した大須賀選手。高校時代から持ち前の長打力と強肩の遊撃守備が魅力の選手がプロからも注目を集めました。プロ入り後も大型遊撃手として期待されましたが、巨人の厚い戦力の前に、5年間で出場試合はわずか18試合、わずか7打席のチャンスしか与えられませんでした。しかし、1軍で放った2本のヒットのうち、二塁打が1本、もう1本が本塁打とつぼにはまれば長打になるという特徴をアピールしたのではないかと思います。

 ところが、2005年以降は1軍昇格することすらなく、2006年オフに自由契約となりました。合同トライアウトを受ける中で、内野ならどこでも守れるユーティリティー性に注目したのがカープでした。そして2007年からはカープの一員に加わりました。カープでは石原選手が東北福祉大時代、大須賀選手とともにプレーしていた同期ということもあって、チームに溶け込むのに時間はかかりませんでした。

 カープで新たなチャンスを、と意気込んだ2007年シーズンは自身でも初めての開幕1軍メンバーに選ばれました。持ち味である内野ならどこでも守れるという点で、守備要員として起用される場面もあり、またスタメンで起用されることもありましたが、打撃ではなかなか結果を残すことが出来ない状態が続きました。

 2007年6月27日、2軍落ち・・・。その後、2軍でもなかなか結果を残すことが出来ず、そのままシーズンを終えました。そしてがけっぷちに経たされた2008年、2軍でもますます出場のチャンスが減ってしまいますが、大須賀選手自身はその数少ないチャンスを、とにかくモノにしようと必死にボールに食らいつきました。代打での出場が多かった中で、打率2割6分5厘、1本塁打とまずまずの成績ではありましたが、1軍からの声はかからないままシーズンを終えました。

 そして2008年オフ、2度目の自由契約となりました。大型内野手として期待されましたが、1軍の舞台ではその素質を活かすことが出来ないまま、プロでの生活を終えようとしています。オフにはトライアウトも受けましたが、どこの球団からも声はかからず、今後は未定の状態となっています。復活を果たすのか、それとも新しい道で第2の人生を歩むのか。どちらにしても今後の活躍を祈っています。

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57 甲斐雅人(内野手)

1982年4月12日生まれ。
宮崎・高鍋高〜広島(2000ドラフト4位)

2008年オフに戦力外通告、今後は未定
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2004 1 2 0 0 0 0 0 0 1 .000
2005 4 8 2 0 0 0 2 0 2 .250
2006 8 16 1 0 0 0 6 0 0 .063
通算 13 26 3 0 0 0 8 0 3 .115

 2000年のドラフトで4位指名された甲斐選手。高校通算17本塁打という長打力も魅力で、また遠投110mという強肩も魅力。身長188cm、体重80kgという大型遊撃手として期待が高まりました。

 そんな甲斐選手のプロ入り後、私が最も記憶に残っていることとしては、ルーキーイヤーの2001年の春季キャンプでの紅白戦のことです。高校生ルーキーにもかかわらず4番バッターとして大抜擢された甲斐選手は4打数4安打という固めうちをみせました。この結果を見る限りでは、将来は主軸を打ってくれるであろう、そんな期待が否が応にも膨らんでいく存在でもありました。

 その後の甲斐選手ですが、2軍でも徐々に結果を残すようになってきます。2004年には1軍初出場も果たし、2005年には1軍でプロ初安打も放ちました。打撃ではそのセンスの高さを示す一方で、守備さえ・・・という印象を残したのも事実です。だからこそ、守備をしっかり身に付ければ、1軍定着はそんなに遠くないと印象もありました。

 しかし甲斐選手を悩ませたのが故障でした。2006年のシーズン、ウエスタンで3割5分近い打率を残していた甲斐選手ですが、1軍に昇格したのは夏場になってのことでした。試合でも重要な場面での大だとしても起用されましたが、15打線目までヒットが打てず・・・。苦しみもがいている中での16打席目でようやくヒットを放ちました。2006年9月24日、それはシーズンももうすぐ終わろうかという時期でもありました。しかし、その出塁の際に、帰塁時に右ひじを痛めてしまったのです。ようやく放ったヒットでも、こんな不運な巡り会わせがあろうとは・・・。

 その故障からは復活したものの、主な活躍場所は2軍。それでは意味がありません。それでも必死でアピールを続けました。なのに故障もありました。故障とアピールの狭間で苦しみもがき続けた日々・・・。それを繰り返し続けた2008年オフに、広島を自由契約となってしまいました。プロを目指してトライアウトで3安打を放ちながらも、他球団での再契約の道は遠かった・・・。今後の進路は未定ではありますが、どんな道を歩もうとも、ぜひ頑張ってほしいと応援は続けます。

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67 丸木唯(投手)

1986年7月30日生まれ。
石川・輪島実高〜広島(2004年ドラフト4位)

2008年オフに自由契約。その後、カープ球団職員へ。

 能登半島の先端に位置する輪島市。ここに石川県下でもトップクラスの右腕がいるという情報が入ったのが2004年のことでした。その中でも最も注目が集まったのが速球。120キロ台だった速球は、高校3年次にMAX146キロをたたき出すまでに急成長を遂げました。そんな素質の高い投手をプロのスカウトは、見逃すことはありませんでした。

 2004年のドラフト会議。そんな丸木投手を指名したのはカープでした。ドラフト4巡という中位での指名ではありましたが、高校ではわずか1章にとどまった右腕が、この位置での指名。それは彼の素質の高さにほれ込んでのことだったのでしょう。2軍で実践積み重ねれば、きっと大きな投手になる。そんな素質を持った投手でした。

 しかし、その高い素質もプロの世界で完全に開花させることは出来ませんでした。ルーキーイヤーは2軍でもわずか2試合の登板にとどまりました。1回と3分の2を投げて4四球。制球に課題を残したまま迎えた2年目は先発としての起用もあり、2軍での初勝利を飾ることも出来ましたが、終わってみればわずか6試合の登板で12回と3分の2を投げて9四死球。2007年も5試合に登板し、6イニングで5四球。とにかく制球が最大の課題でした。

 その課題を克服するためにフォームのモデルチェンジを行いました。それがサイドスローへの転向でした。これによって請求の精度を上げることが狙いでした。しかし、カープには梅津投手矢林投手、青木勇投手といった1軍クラスのサイドスローが多くいます。その中での争いに果たして残れるのか・・・。その壁は非常に高かった。それどころか自身のフォームを自分のものに出来ませんでした。

 2008年オフにカープを自由契約となった丸木投手。最終年で残した2軍での成績はわずか1試合の登板で、1アウトをとっただけ。なんと7自責点で、防御率189.00という数字・・・。あまりにも寂しすぎる最終年でした。本当の持ち味はこれからもっと伸びる素養のあった速球であったはずなのに、その長所を活かせないサイドスローへの転向。やはり制球難という課題を最後まで克服することは出来なかったのです。

 丸木投手はプロを諦め、カープの球団職員として第2の人生を歩むことになりました。ユニフォームをスーツに替えてのサラリーマン生活。なれないことも多いかと思いますが、これからも球団を裏から支えるため頑張ってほしいですね。

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68 金城宰之左(投手)

1986年8月27日生まれ。
沖縄・中部商高〜広島(2004年ドラフト7位)

2008年オフに自由契約。その後は未定。

 カープのドラフト指名候補に名前が挙がったとき、まず誰もが真っ先に思ったのが「宰之左」ってなんて読むんだろう・・・ってところからではなかったでしょうか。私自身も果たして、この名前なんて読むのやら・・・とずっと調べていました。そんな金城投手が育ったのは沖縄県。そんな南国沖縄に素質豊かな投手がいるとスカウトの目を釘付けにした投手、彼こそが金城投手でした。

 ストレートは当時、MAX138キロ程度だったと記憶しています。しかし、夏の甲子園の初戦、敗退したものの、その試合の中で見せた天性の腕の不利と肘の柔らかさ。まだまだ荒削りなところがある反面で、投手としては素質十分なところをみせてくれました。187センチの長身から、長い腕が鞭のようにしなる、将来性が非常に期待され、カープに2004年のドラフト7位で指名を受け、入団ということになりました。下の名前は「すずのすけ」・・・ご両親が「赤銅鈴之助」のようになってほしいという願いをこめてつけた名前だそうです。

 しかし、その投手としての素質は素質のままで、なかなか本領を発揮できませんでした。2005年も2006年も、2軍のマウンドすら遠い状況で、この2年間での登板はわずか2試合。1年に1試合ずつしか登板の機会を与えられず、ストレートも130キロ前後と精彩を欠きました。

 2007年には自己最多のウエスタンで4試合に登板したものの、防御率は11.25。その中で目立つのは4つの四球でした。素質はある投手にもかかわらず、制球面でどうしても課題が残っている状況でした。今季こそはと臨んだ2008年、球威そのものは徐々に自信がつくまでになり、速球も138キロ程度まで上昇してきたものの、4試合の登板にとどまり、5回と3分の2イニングで6四球を与えてしまいました。イニング数よりも多い四球を与えてしまうほどの制球難は最後まで改善されることはありませんでした。

 貴重な左腕、そして豊かな投手としての素質。開花すれば素晴らしい投手になる・・・と期待は高まったのですが、結果的にはそれはかなわないままプロのユニフォームを脱ぐことになりました。このオフのトライアウトは受けず、今後も未定となっています。ただまだ来年23歳と若いだけに、第2の人生が素晴らしいものになることを願って。

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90 ジム・ブラウワー(投手)

1972年12月29日生まれ。
ミネソタ大〜インディアンズ〜レッズ〜 エクスポズ〜ジャイアンツ〜
ブレーブス〜オリオールズ〜パドレス〜ヤンキース〜広島(2008)

2008年オフに自由契約。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 21 0 2 0 20 1/3 8 13 9 3.98
通算 21 0 2 0 20 1/3 8 13 9 3.98

 2008年からシーズン中のトレードや新外国人選手の獲得の期限が、従来の6月30日から7月31日へと1ヶ月延長されました。その新しく設定された獲得期限ぎりぎりの7月25日の契約し、オールスター休み期間中の7月30日に入団会見を行ったのがブラウワー投手でした。カープの試合も残り52試合という場面での獲得、それは横山投手の戦線離脱から端を発した緊急入団でした。

 そんなブラウワー投手の持ち味は150キロに届く速球と、高速のシンカー、さらにスライダーと横への揺さぶりとともに内角を攻める投球にありました。またもう一つの持ち味がなんといっても、そのタフさです。2004年、サンフランシスコジャイアンツ在籍時に、現在も球団最多タイ記録となっている89試合に登板し7勝7敗、防御率3.29の成績を残しました。それでも故障知らずで、プロになってから故障者リストに挙がったことがないタフさ、そして丈夫さを兼ね備えていました。ちなみに大リーグ通算では354試合に登板し、28勝(32敗)の成績を残しています。

 連投が利くというタフさから、球団もセットアッパーを期待しての獲得となりましたが、入団当初はその期待に見事にこたえる好投を披露しました。いきなり1軍に合流すると、8月3日には初登板を果たし、1回を無失点に抑える好投。その後も好投を続けるブラウワー投手は永川投手に繋ぐセットアッパーとしての役割を見事に果たします。

 しかしその調子も長くは続きませんでした。シーズンも終盤に入ってくると、ランナーを出しては失点するというケースが目立つようになりました。そして9月16日の登板を持って2軍に降格し、そのまま1軍に昇格することはありませんでした。カープに入団し、1軍生活はわずか1ヵ月半という短い間でした。その間の35試合のうち、6割に相当する21試合に登板したという点では、そのタフネスぶりを十分に発揮したとはいえるでしょう。ただ途中入団でこのような結果となったブラウワー投手。ちょっと不完全燃焼だったかもしれませんね。なお今後の動向については未定です。

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93 ビクトル・マルテ(投手)

1980年11月8日生まれ。
ホセ・トゥボ高〜 ロイヤルズアカデミー〜カープアカデミー〜広島(2006〜08)〜
ロイヤルズ(2009〜10)〜カージナルス(2011〜)

2008年に自由契約後、現在も大リーグで活躍
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 12 0 1 0 11 1/3 7 5 2 1.59
2007 17 0 1 0 17 1/3 12 13 16 8.31
2008 1 0 0 0 2 1 2 3 13.50
通算 30 0 2 0 30 2/3 20 20 21 6.16

 ゴロンとした丸い体形。まさに「マルテ」という名前にふさわしい感じの雰囲気でした。そして、その体形にふさわしいほどの剛速球をミットめがけて投げ込む姿がそこにありました。ともかくストレートの勢いは素晴らしく、100キロ以上の巨体から放たれるだけに、重さも感じさせるような球。時には150キロを超えるような剛速球で、パワーアームの獲得を希望していた当時のブラウン監督の目に留まったのが、カープドミニカアカデミー出身のマルテ投手だったのです。

 2006年8月16日、中日戦で初登板したマルテ投手は2回をパーフェクトに抑える見事な投球で、期待度は急上昇!1年目こそ、12試合に投げて防御率1.59という素晴らしい数字を残しましたが、それも長くは続くことはなく…。やはりその原因はコントロールにありました。投げてみないと分からないほど、制球がばらつく…。いくら球が速いとはいえ、あまりにも荒れてしまうと、バッターはとても振ってはくれません。2イニングに1個以上のペースで四球を出しているのでは、なかなか抑えられません。球が速いけれども、ピッチング自体は苦しくなり、1人相撲をとってしまう姿も何度かありました。

 2008年にはわずか1試合の登板。外国人枠の関係で、なかなか出番がめぐってくることはなく、球団から戦力外通告を受けました。しかし、その剛速球、そして名前のとおりの体型。なんとも印象深い投手だったのですが、その後、2009年にはカンザスシティ・ロイヤルズでメジャーデビューを飾り、翌年にはシーズン3勝をマーク。2012年にはセントルイス・カージナルスで中継ぎとして48試合に登板し3勝をマークしました。40イニングで14四死球…ずいぶんコントロールも良くなったんですね。大リーグで成功をつかみつつある剛速球右腕「マルテ」。今後の活躍にも注目したいと思います。

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