※表示している成績は広島での成績、通算は広島退団時点での生涯成績です。
7 野村謙二郎(内野手)
(野村選手引退試合特別ギャラリーはこちら)
1969年9月19日生まれ。 大分・佐伯鶴城高〜駒沢大〜広島(1988年ドラフト1位) 2005年に2000本安打達成!そしてその年に引退・・・。 |
年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
1989 | 88 | 151 | 39 | 12 | 0 | 10 | 21 | 21 | 1 | .258 |
1990 | 125 | 519 | 149 | 44 | 16 | 54 | 83 | 33 | 13 | .287 |
1991 | 132 | 524 | 170 | 66 | 10 | 38 | 62 | 31 | 14 | .324 |
1992 | 130 | 545 | 157 | 63 | 14 | 61 | 73 | 21 | 23 | .288 |
1993 | 130 | 556 | 148 | 48 | 14 | 44 | 83 | 12 | 24 | .266 |
1994 | 130 | 558 | 169 | 61 | 10 | 49 | 75 | 37 | 12 | .303 |
1995 | 131 | 550 | 173 | 75 | 32 | 59 | 60 | 30 | 14 | .315 |
1996 | 124 | 514 | 150 | 68 | 12 | 43 | 63 | 8 | 18 | .292 |
1997 | 131 | 540 | 151 | 52 | 13 | 59 | 68 | 26 | 14 | .280 |
1998 | 135 | 561 | 158 | 49 | 14 | 44 | 63 | 15 | 16 | .282 |
1999 | 101 | 350 | 102 | 42 | 6 | 37 | 34 | 2 | 17 | .291 |
2000 | 61 | 208 | 50 | 17 | 2 | 18 | 22 | 1 | 4 | .240 |
2001 | 117 | 403 | 110 | 53 | 9 | 31 | 59 | 7 | 11 | .273 |
2002 | 85 | 175 | 37 | 11 | 3 | 9 | 33 | 1 | 2 | .211 |
2003 | 94 | 310 | 85 | 32 | 5 | 28 | 49 | 3 | 8 | .274 |
2004 | 107 | 359 | 97 | 43 | 5 | 27 | 48 | 1 | 11 | .270 |
2005 | 106 | 272 | 75 | 29 | 4 | 19 | 42 | 1 | 6 | .276 |
通算 | 1927 | 7095 | 2020 | 765 | 169 | 630 | 938 | 250 | 208 | .285 |
上記の成績から野村選手の素晴らしさは言うに及びません。それでも、あえて言えば2020安打は素晴らしいということでしょう。これが故障も何もない順風満帆なものならともかく、1500安打を超えてからは足の故障との戦いだったことを考えると、広島カープに在籍していなければ、2000本安打の達成すらなかったかもしれません。
1988年末のドラフトで1位で指名された野村選手は1年目から1軍で88試合に出場し、その頃は高橋慶彦選手が遊撃を守っていたこともあって、外野を守る機会も多々ありました。しかし2年目の1990年には盗塁王に輝き、1991年には「1番・ショート・野村」として日本シリーズで西武との7戦ゲームにもつれるまでの死闘を演じました。そのときは、長打力はないけども、バッティングセンスと脚力は注目の的となりました。
1995年には打率3割1分5厘、32本塁打、30盗塁で、その当時では秋山幸二選手(当時西武)に次いで6人目、セリーグでは岩本義行選手(松竹ロビンス、現横浜ベイスターズ)が1950年に記録して以来となる偉大な記録。それは走攻守3拍子そろった選手の証でもある称号です。他にも90、91、94年と3度の盗塁王、そして94、95年と最多安打、さらに91、95、96年とベストナイン、95年にはゴールデングラブ賞も受賞しました!
1997年にFAを取得し、大リーグのタンパベイ・デビルレイズからの誘いもあったそうで、「メジャーに最も近い男」と呼ばれました。しかし、野村選手は大リーグへの夢よりも広島カープを選んでくれたのです。
その後の野村選手は足の股関節を痛めるなど、足の故障との戦いでした。その故障の影響で遊撃をシーズン通して守ることは難しくなったため、三塁へコンバートされ、2005年には一塁へもコンバートされました。そんな苦しみの中で達成した2000本安打。本人曰く、今までで一番記憶に残っている安打は打線のつながりで試合終盤にヒットを放てた1999安打目のヒット。そして2000本目の安打は2005年6月23日、ヤクルトの川島投手から放った打球はレフトを守るラミレス選手の目の前でポトリと落ちるレフト前ヒットでした。
野村選手の生涯成績は素晴らしいの一言に尽きますが、そのチームリーダーとしての牽引力や存在感も非常に大きかったと思います。そんな広島を長年にわたって率いてきたチームリーダーである野村選手が2005年に17年の選手生命に幕を下ろしました。端から見てれば、まだまだ出来るって感じでしたが・・・。その引退セレモニーでのメッセージは幣ホームページの別のコーナーにて!
1974年9月21日生まれ。千葉・志学館高〜青山学院大〜広島(1996年ドラフト1位) 2005年オフに自由契約となり、3軍投手コーチに転身。 |
年 | 試合 | 勝 | 負 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率 |
1997 | 38 | 12 | 8 | 0 | 156 1/3 | 54 | 106 | 65 | 3.74 |
1998 | 17 | 1 | 0 | 0 | 23 2/3 | 12 | 18 | 13 | 4.94 |
1999 | 25 | 1 | 2 | 14 | 24 | 10 | 16 | 17 | 6.38 |
2000 | 15 | 4 | 4 | 0 | 61 2/3 | 29 | 38 | 38 | 5.55 |
2002 | 5 | 0 | 0 | 0 | 4 1/3 | 1 | 1 | 1 | 2.08 |
2003 | 40 | 4 | 1 | 1 | 45 2/3 | 19 | 35 | 22 | 4.34 |
2004 | 38 | 2 | 2 | 0 | 43 | 16 | 28 | 32 | 6.70 |
2005 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 1/3 | 0 | 1 | 0 | 6.70 |
通算 | 180 | 24 | 17 | 15 | 359 1/3 | 141 | 243 | 188 | 4.71 |
(写真提供:広島県・つもさん)
高校時代もプロから注目を集めた沢崎投手が青学大進学を選び、大学通算18勝を挙げて、広島を逆指名するという形で入団しました。同じ年に、同じ逆指名という形で入団した黒田投手とは、柔と剛、技巧派と速球派という対照的な投手でした。そこで、最初に頭角を現したのが沢崎投手でした。
ルーキーイヤーから先発、中継ぎにと大回転の働きをみせた沢崎投手。その活躍ぶりは12勝という勝ち星の数と、「新人王」という名誉の形で現れました。まさに華々しいデビューといえるでしょう。しかし、その裏には、ここのところの広島の投手陣の低迷が示すジンクスに見事にはまってしまいました。それは、投手不足が理由として挙げられ、使える投手はとにかく使っていかなければならないチーム事情。まだプロの体が出来上がっていないのに、無理にフル回転させられる。そして、シーズンオフには一定の活躍のせいもあってか、心理的にプロに対するナメの気持ちが出てしまうのと、疲労のたまった状態でのシーズンオフの過ごし方の分からないという経験の薄さ。これが1年目からフル回転してしまった沢崎投手へのしっぺ返しとして表出してしまったのです。ルーキーイヤーこそが、沢崎投手にとって最初で最後の2桁勝利となったのです。
2年目はわずか1勝。一般的に言われる「2年目のジンクス」にドップリはまってしまいました。1999年には、タイプではないストッパー役。これも津田投手が背負った「14」の宿命なのでしょうか。その数字である14セーブを挙げ、2000年には4勝を挙げた沢崎投手でしたが、故障もあって2001年は1軍登板はなし・・・。2003年には3年ぶりの白星。
その後は、中継ぎに活路を見出し、2年続けて、中継ぎエースとして重要な役割を果たしましたが・・・。2005年4月11日の登板を終えて、2軍に降格してからは、一度も1軍へのお呼びがかからず・・・。
広島の投手で、その年に自由契約になりやすいパターン。2軍の試合で何点取られても投手交代させてもらえず、その登板以降、機会を与えられない。2軍で結果を残しても、結果を残しきれない投手が1軍に上がり、逆に本人はいつまでたっても1軍からお呼びがかからない。1軍に上がっても、1本ヒットを打たれただけで2軍に落とされるか、抑えても、意味不明な理由で2軍に落とされる。
沢崎投手は、2軍で好投しても1軍からお呼びはかかりませんでした。1軍ではあれほど中継ぎ投手に困窮を極めていたのに・・・。
上の写真では、引退セレモニーで同期の黒田投手から花束をもらう沢崎投手。2006年からは背番号「87」という新たな背番号を背負い、3軍投手コーチとして、新たなスタートを切りました。何といっても、若さが重視のコーチ陣。これからは制球で相手を打ち取る技術を若手に伝えてほしいところです。
1974年1月29日生まれ。新潟名訓高〜専修大〜 プリンスホテル〜広島(1997年ドラフト4位) 2005年オフに自由契約となり、1軍投手コーチに転身。 |
年 | 試合 | 勝 | 負 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率 |
1998 | 54 | 9 | 6 | 18 | 81 2/3 | 38 | 105 | 26 | 2.87 |
1999 | 35 | 3 | 7 | 10 | 66 | 38 | 63 | 43 | 5.86 |
2000 | 25 | 0 | 3 | 0 | 32 2/3 | 21 | 35 | 17 | 4.68 |
2001 | 51 | 3 | 1 | 1 | 65 2/3 | 44 | 68 | 25 | 3.43 |
2002 | 52 | 4 | 5 | 0 | 68 | 25 | 64 | 24 | 3.18 |
2003 | 5 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 7 | 4 | 6.00 |
2004 | 14 | 0 | 0 | 0 | 14 | 6 | 12 | 6 | 3.68 |
2005 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 1 | 3.86 |
通算 | 238 | 19 | 22 | 29 | 337 | 165 | 356 | 146 | 3.90 |
かつての山内投手や沢崎投手のように、ここ近年の広島の投手のパターンといえば、ルーキーイヤーにその実力を認められ1軍で起用されるも、チームの投手事情から酷使され、2年目以降、故障や不振に悩まされる・・・という特徴があるようです。小林投手も、その際たる投手だったといえるでしょう。
プリンスホテル時代は西武からも指名の噂があったが、広島に入団した小林投手。ルーキーイヤーの活躍ぶりは、今でもファンの記憶に深く残っていることでしょう。球速こそは140キロそこそこでしたが、初速から終速が変わらないような、まるで重力に反してホップするかのような、ものすごい切れ味のストレートを投げ込み、マウンドでの気合も迫力満点。1年目から守護神を任され、18セーブを挙げるなど、高橋由選手(巨)、川上投手(中)、坪井選手(日、当時阪神)とともに新人王の候補にも挙がりました。
しかし、2年目からは徐々に成績は右肩下がりとなります。1年目のような、威力満点のストレートは影を潜めました。やはり1年目の酷使が祟ったのでしょう・・・。ところが、かつてのストレート勝負の投球ではなく、スライダーやカーブといった緩急を使いながらの技巧的な投球に生まれ変わった小林投手は2001年、2002年と50試合を超える登板をこなし、現在、東北楽天に所属する玉木投手とともに、中継ぎのエース格になりました。
しかし、更なる不運が小林投手を襲いました。2003年の春、椎間板ヘルニアの手術による戦線離脱・・・。首脳陣も頭を抱えた戦線離脱となってしまいました。その年はわずか5試合の登板に終わり、2004年はまずまずの投球ながらも14試合の登板に終わりました。
そして2005年。2軍ではセーブ王を獲得するなど、安定した投球を披露しました。しかし、1軍からお呼びはかからず・・・。近年の広島の場合、(1)2軍で活躍してるのに、なぜか1軍に昇格できない、(2)2軍で無茶な起用をされる、(3)2軍でも代打程度の出場機会しか与えられない・・・こういった選手は自由契約になってしまう傾向が強いように思われます。小林投手も結果的にはそうなってしまいました。
2005年の小林投手は、2軍では技巧的な投球を見せました。しかし、かつては自慢だった速球も130キロちょっとという程度にとどまりました。1年目の酷使、そして椎間板ヘルニアに泣かされたプロ人生でした。苦しい投手事情がこのような悲劇の投手を生んでしまったように思えます。今後はプロで長く活躍できる選手を育てるためにも、スタートとなる1年目の体作りこそが重要なのでしょうね。2006年は1軍の投手コーチとして新たなスタート切りました。自分の経験も含めて、長く働ける投手を育成してほしいですね。
1973年9月11日生まれ。 プライマウスセイラム高〜ヘンリーフォード大〜ブルージェイズ〜 マリナーズ〜パドレス〜レッドソックス〜広島 2005年オフに自由契約となり、オリックスの入団が決まる。 |
年 | 試合 | 勝 | 負 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率 |
2003 | 15 | 5 | 2 | 1 | 76 | 26 | 52 | 20 | 2.37 |
2004 | 9 | 3 | 4 | 0 | 51 | 26 | 37 | 35 | 6.18 |
2005 | 18 | 6 | 6 | 0 | 114 2/3 | 50 | 76 | 38 | 2.98 |
通算 | 42 | 14 | 12 | 1 | 241 2/3 | 102 | 166 | 93 | 3.46 |
大リーグ通算114試合7勝6敗1セーブを挙げた右腕。204センチの長身から投げ込むストレートは140キロ台後半、そしてチェンジアップ、スライダーが武器。そんなデイビー投手が広島に入団したのは2003年のシーズン途中、外国人獲得期限ギリギリの6月のことでした。入団してからというもの中継ぎ、先発にフル回転し、15試合を投げて5勝2敗1セーブ、そして防御率は2.37と抜群の安定感をみせました。
しかし、2年目となった2004年。開幕から調子を落としていたデイビー投手は、なかなか調子の波に乗れない状況が続いていました。記憶に新しいのが、あまりの試合運びに頭がカッとなったデイビー投手は、石原選手のサインも無視して、20級以上もストレートを投げ込んで滅多打ちを食らったという試合がありましたね。ところが、5月14日の阪神戦で見事3安打完封勝利!この試合をテレビの前で観戦していましたが、20時から友達と飲み会の約束をしていたのです。絶対に最後まで見れないだろうなぁ・・・とあきらめていたものの、わずか2時間19分で試合は見事に勝利で終わったという記憶があります。私事なので、それはともかくとして・・・
そんな好投の直後、故障歴のある右肩に違和感を覚え、その後の検査の結果、右肩関節唇損傷、右上腕二頭筋長頭腿付着部損傷。かつての故障箇所だっただけに、デイビー投手が自らで長期的な治療だと判断し、帰国してしまいました。そのまま自由契約となりました。
ところが!その年のオフにデイビー投手は戻ってきました。入団テストを受けた結果、見事合格!晴れて広島に再入団となりました。右肩の調子と相談し、夏場からの先発ローテ入りを目指していましたが、5月6日の交流戦開幕戦の西武戦で先発。その試合では3回9失点と打ち込まれてしまいましたが、徐々に調子を取り戻し、夏場から終盤にかけては抜群の安定感を誇りました。
2005年は18試合6勝6敗、防御率2.98。来日3年目で最高の数字を残したデイビー投手。打線の援護があればもっと勝てていただろうと思われるような働きをしました。しかし、2005年オフに就任したブラウン新監督の構想からは外れたようで、自由契約となりました。その裏にはやはり、故障が多く、中4〜5日で先発投手を回すという構想に当てはめるのも難しく、かといって連投の可能性もある中継ぎも厳しい・・・そういった判断があったのではなかったかと思います。
先日、2006年からはオリックスのユニフォームに袖を通すことが決まりました。推定30万ドル(契約時点のレートで約3600万円)。意外と安いという印象ですけどね。お金の話はともかく、新天地で頑張ってほしいところです。交流戦ではなかなか手ごわい相手になりそうですが・・・。
1977年5月1日生まれ。 広島・崇徳高〜亜細亜大〜広島(1999年ドラフト7位) 2005年を限りに引退。その後は関東担当のスカウトに就任。 |
年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
2000 | 23 | 30 | 4 | 2 | 1 | 4 | 16 | 0 | 0 | .133 |
2002 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
2003 | 14 | 17 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | .059 |
2004 | 13 | 21 | 2 | 0 | 0 | 3 | 10 | 0 | 1 | .095 |
2005 | 30 | 33 | 10 | 6 | 1 | 11 | 12 | 0 | 2 | .303 |
通算 | 82 | 103 | 17 | 9 | 2 | 18 | 42 | 0 | 3 | .165 |
広島県呉市出身の松本奉選手。崇徳高時代は4番ショートとして、チームを引っ張って行きました。そして亜細亜大学に進学しても主将として4番を打ち、ポジションは主にサードでしたが、ショートもセカンドも守れる内野のユーティリティープレイヤーとなりました。打撃では長打力が持ち味でしたが、広島のスカウトは松本奉選手の持つ守備力に高い評価を与えていたようです。
実は私と同級生(といっても、少し私の方が上なのですが・・・)で、東京に住んでいた頃は新聞の東都大学野球の試合結果のランに、4番・松本奉と書いてあるのを覚えています。実はこのとき、同じ亜大には松本という名の別の選手がいたため、このときから新聞表記は「松本奉」でした。
そんな松本奉選手は、ルーキーイヤーの開幕直後にプロ入り初安打初打点を挙げる順風満帆は船出でした。その年には、長打力を生かしてプロ初本塁打も放ちました。しかし、その後は、立て続けての故障・・・。その後は、故障しては復帰、故障しては復帰の繰り返し。そして、1軍に上がっては、あまり起用されずに、1度打席に立って凡退すれば2軍降格・・・その繰り返しが続いていました。2軍では打撃好調だったのに、起用されないことで、いざ起用されたときには自分の力を発揮できないまま・・・。それは右の長距離砲で、なおかつ松本奉選手より打率を残せるタイプの選手が多かったからでしょう。時代の前後があれば、その立場は入れ替わってたかもしれませんね。
しかし、2005年。ショートのポジションの相次ぐ故障や、若手起用の失敗から、ショートを守れる松本奉選手に満を持して順番が回ってきました。2番・ショートではいる機会が多かった松本奉選手は、徐々に1軍の空気に慣れてきたのか、ライト方向に伸びる本塁打を放つなど、自身では最高の3割台の打率を残すことが出来ました。しかし、1つの守備のミスを契機に2軍に落とされてからは、山崎選手の台頭もあり、なかなか出番がないまま・・・。打撃ではようやくその勘を1軍で活かし始めていたのに。彼の不運なところは、守備はそこそこなのに、守備範囲が広いわけでもなく肩が強いでもなく、打撃でも主軸で打てるほどの打撃はないから、タイプではない2番に置くしかない・・・。せっかくのタイミングも、当時の首脳陣の先入観や好き嫌いがあったのか、なぜか1軍定着という言葉にそっぽを向けられたことでしょう。何か一つでも大きなアピールポイントがあれば、それが特に打撃面ならば、1軍で3割台の成績を残し、これから活躍の予感が・・・というときの引退にはならなかったでしょう。それには28歳という年齢もネックになったのではないでしょうか。
何か一つ目立つものがほしかった上に、「これからに期待!」という成績を残した割には、そのときには年齢を取りすぎていたということなのでしょう。そんな松本奉選手は2006年からは関東担当のスカウトとして新たなスタートを切りました。亜細亜大学を中心に、コネを生かして、将来のカープを背負う選手を発掘してほしいですね。ちなみに、そんな新たなスタートを迎えるに当たって、「奉文」という名を「有文」に改めたそうですよ。
1972年11月10日生まれ。 マサチューセッツ大〜パドレス〜インディアンス〜広島〜ヤクルト 2005年に自由契約に。2006年はヤクルトでプレー。 |
年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
2004 | 122 | 436 | 143 | 101 | 40 | 75 | 66 | 11 | 9 | .328 |
2005 | 80 | 267 | 81 | 56 | 18 | 28 | 30 | 0 | 14 | .303 |
通算 | 202 | 703 | 224 | 157 | 58 | 103 | 96 | 11 | 23 | .319 |
2005年11月、突然の自由契約。2年契約を結んでおり、その初年度となる2005年のシーズンも、故障と戦いながらも、4番打者として勝負強い打撃で、チームを何度も勝利へと導いてくれました。誰もが2年契約の2面である2006年も4番打者としての活躍を期待していたはず。なのに、突然の自由契約。そのわけは・・・
2004年。二遊間の守備層が薄い広島が補強したのがこのラロッカ選手でした。当初は打撃面で難しいという評価をされながら、当時の内田打撃コーチと熱心にバットを振り込み、見事、その年にチームの外国人選手ではぎ1978年のギャレット選手以来の40本塁打を記録しました。そして、アグレッシブな走塁で、2004年はチームでトップとなる11盗塁も記録しました。かつては機動力野球が最大の特徴だった広島で、チームトップの盗塁数が11というのも寂しい話ですけどね・・・。
2005年も4番打者として開幕したものの、直後に左足ハムストリング肉離れで、あっという間に4番を新井選手に譲ってしまいます。結果的に、このチャンスを活かした新井選手が本塁打王を獲得するわけですが・・・。その後も、復帰しては左足の故障で戦線を離脱するなど、わずか80試合の出場にとどまりました。しかし、ソフトバンクとの交流戦では、当時、負け知らずで絶好調だった杉内投手から2本のホームランを放ち、勝利に貢献したのは記憶に新しいところです。とにかく、その勝負強い打撃とアグレッシブなプレースタイル、そして愛嬌のある性格はカープの選手でもファンが多かった選手だと思います。
2005年オフに監督がマーティーに代わり、秋季キャンプで新井選手と栗原選手の成長、そして社会人屈指の遊撃手だった梵選手をドラフトで指名したことを受けて、ラロッカ選手の自由契約に踏み切りました。これは、マーティーがかねてから考えていたようです。しかし、内野の選手層の薄さから、ひとまずドラフト終了まで、その決断を先送りにしていたようです。あと1年契約が残っていたのに、解雇を決断した理由はやはり故障の多さ。そして、3年後の優勝を目指しての育成が急務のマーティーにとって、新井選手や栗原選手、さらには梵選手が加わったことでレギュラー争いが激化している状況で、ラロッカ選手の存在によって、実力ある若手選手の出場機会が減り、それが育成の妨げになると考えたようです。
2006年からは29年ぶりに古田監督がプレイングマネージャーに就任し、何かと話題のヤクルトでプレーすることになりました。なんせ、シュアで長打力のある打撃がウリの選手だけに、故障が癒え、シーズン通して活躍されたら、広島にとってはかなりの強敵となりそうですね。
1982年7月12日生まれ。 秋田商高〜広島(2000年ドラフト5位) 2005年に自由契約。2006年からは広島の球団職員に。 |
この「週刊カープ評論」が始まって、最初に特集したドラフトで紹介した選手の一人がこの田村選手。それだけに思い入れも深かった選手だったのですが・・・。残念ながら、2005年のオフに解雇という結果になりました。1度も1軍での出場機会もなく、ましてや、ここ最近は2軍でも出場機会に恵まれず、その働きどころのほとんどが代打・・・。
そんな田村選手の高校時代は、名門・秋田商高で高校1年次から4番を打つという打撃センスの持ち主。さらに100メートルを11秒台で走るという俊足。そして、遠投100メートルの強肩。まさに攻走守3拍子揃った選手で、その実力はポスト緒方という期待感を大いに抱かせてくれました。
2年目。序盤から打撃好調で、3割台をキープしていましたが、まだ2年目ということもあってか、時間が経過するとともにその調子は右肩下がり。しかし、まだ2年目ということで、この成績には期待を持たせるものでしたが、まさかこれが自身のプロ生活で最高の成績に終わってしまうとは・・・。これからという場面で田村選手を襲ったのが「扁桃腺炎」。この摘出手術で約1ヶ月、戦線を離脱するハメになりました。若手選手で、しかも激戦区の外野手。1度の戦線離脱が選手生命にもかかわってくるのがプロの厳しさだったのでしょう。
その後は、末永、天谷選手らの台頭や、広瀬選手の2軍での活躍、そして多くの選手が複数の守備位置をこなせるようにするチームの考えもあっても、スタメンでの出場機会にまったく恵まれないまま、わずか実働5年の選手生活に幕を下ろしました。特に大きな故障はなかった選手生活。「扁桃腺炎」、そして若手の台頭、マルチポジション・・・様々な要素が外野一本で打撃に難のあった田村選手の出場機会を削られてしまったようです。
2006年からは球団職員に転身しました。まだ若いので他球団のテストを受けるのかなと思っていましたが、この結末は意外と言えば意外でしたね。でも、新たな道でまた頑張ってほしいものです。
1984年1月31日生まれ。 大阪・上宮高〜広島(2001年ドラフト6巡) 2005年に自由契約。現役続行希望。 2006年2月26日現在、千葉ロッテのキャンプにテスト生として参加中。 |
高校時代から大阪府下ではMAX143キロの速球を誇る奪三振マシーンとして、日本の球団だけでなく、大リーグ球団からも注目を集め、ドラフト1位指名の候補に挙げる球団もあったほどの左腕でした。しかし、練習中の不慮の動作が原因で、左手の手首を骨折することに・・・。これが、スカウトを遠ざけてしまう結果となり、プロ入団後も悩ませ続ける故障となってしまいました。
2001年にドラフト6巡で指名された国木投手。故障は承知の上での指名でした。そもそも、当時は金沢高校の中林佑輔投手を阪神に先に指名されたので、この国木投手に切り替えたそうですが。いくら故障があってリハビリ中とはいえ、故障さえなければドラフト1位で消えた逸材だけに、その期待は高かったようです。
左手首のリハビリは、予想よりもかなり長い期間を要しました。しかも、その間に骨盤の骨を手首に移植する大手術まで行いました。入団して最初の2年間は、ファームでも1度も登板することすら出来ませんでした。そして2004年8月、ついに復活を遂げるファームでの登板を果たしました。MAX142キロと全盛期と変わらない投球で、その年のオフに行われたよさこいリーグでは、中日戦で9回に逆転を許したものの、8回まで無失点に抑える完封ペース。その素質の高さを存分に発揮しました。
しかし、2004年オフに、3度目の手術・・・。2005年はわずか2試合の登板に終わり、自由契約となってしまいました。故障を承知で指名したのだから、もう少し長期的な視点で見ても良かったのではないかと思うのですが・・・。その後、国木投手は現役続行を希望し、トライアウトなども受験。この2月は、鹿児島県の薩摩川内市で行われた千葉ロッテの2次キャンプにテスト生として参加し、首脳陣から、そのフォームを高評価されています。もしかしたら、新しいユニフォームが着れる日も近いかもしれませんね。左手首もまずまず順調のようです。ぜひ、頑張ってほしい投手です。
1982年4月20日生まれ。 長崎・波佐見高〜広島(2000年ドラフト6位) 2005年に自由契約。合同トライアウトに合格し、2006年に阪神に入団 広島での1軍の出場はなし |
弊サイトのコーナーでの一つでもある「カープ同窓会名簿」をご覧になるとお分かりかと思いますが、長崎県の高校から指名された唯一の高校生がこの石橋選手なのです。実は、波佐見高校時代の高校3年の秋に、同期で広島に入団し、高校時代は投手も兼任していた甲斐選手から本塁打を放ったこともあります。高校通算で打率は4割6厘、200以上の盗塁を記録した俊足の持ち主でもあります。
そんな甲斐選手は同期でドラフト4位。一方の石橋選手はドラフト6位。この年のドラフトを思い出してみると、この甲斐選手も実は大型遊撃手として注目を集め、石橋選手は波佐見高では俊足の遊撃手、そして岡上選手は平野(現在、オリックス)選手の陰に隠れながらも遊撃守備には定評のあった東海大の外野手。そんな遊撃手の指名ラッシュの年に入団したのが石橋選手だったのです。昔はサッカー部に所属していて、野球に転向してからも練習熱心なことで有名な選手でした。
そんな石橋選手は1年目から、その50メートル5秒9の俊足を活かして、スイッチヒッターにも挑戦し、持ち前の練習熱心さでものにしようとしていたですが、逆に故障との連続でもありました。2年目のシーズンには右膝蓋骨骨折で、完全にシーズンを棒に振るアクシデントに見舞われました。
しかし、3年目のシーズン。このシーズンが石橋選手にとっては1軍に最も近づいたシーズンだったのではないでしょうか。シーズン中盤からウエスタンで2番・ショートで先発出場も増えて、最終的には打率3割2分5厘。チームには緊急課題であった二遊間の守備に関しても、2軍では群を抜く守備力を見せ、大きな期待を受けました。
2005年シーズン。紅白戦ではチャンスでヒットも放つなど、二遊間が絶対的不足をしているチーム状況の中で一筋の大きな光を放ちましたが・・・。結果的にはケガに泣かされたプロ入り後。個人的には、2軍の試合を見ていると、打撃技術がどうのとかいうよりは、バットに当てる技術と1塁へ走り抜ける俊足に目を引きました。とにかく嫌らしいバッターなのですが、スイング音は鋭かったという記憶があります。彼が自由契約になったときは、「何で・・・」という気持ちになりました。
入団テストの末に、阪神との契約が決まりました。2006年からは阪神の背番号「69」となりました。そして名前も入団当初の「尚登」から「尚至」に、そして「尚到」にと2度目の変更をしました。この入団テストでは阪神だけでなく、ヤクルトや巨人もその素質に注目したといわれています。今度こそケガに泣かされないように、初の1軍デビュー、そして1軍での活躍が出来るように祈ってます。
1974年11月22日生まれ。 南アラバマ大−レッドソックス−独リーグ−マリナーズ− 独リーグ−インディアンス−広島 2005年オフに自由契約。 |
年 | 試合 | 勝 | 負 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率 |
2005 | 11 | 3 | 5 | 0 | 64 | 42 | 41 | 36 | 5.06 |
通算 | 11 | 3 | 5 | 0 | 64 | 42 | 41 | 36 | 5.06 |
新外国人の獲得期限はシーズン中盤の6月30日。その期限ギリギリに契約が決まったのが、このレイボーン投手でした。大リーグの経験はないものの、3Aから独立リーグまで様々なベースボールを経験してきました。2004年には米大リーグ・インディアンス傘下の3Aバファローで23試合8勝2敗という好成績を残しました。伸びのある直球とカーブ、チェンジアップなど多彩な変化球が持ち味の投手。
来日直後、2軍の社会人との交流戦でわずか1イニングを投げて、先発不足というチーム事情で、いきなりの1軍昇格。しかも相手は阪神で、場所は虎ファンで埋め尽くす阪神甲子園球場。その中でレイボーン投手は、相手チームもデータがまったくないということもあるのでしょうが、低めに決める制球ある投球とMAX150キロをたたき出す直球。その内容は来日後、2軍でアマを相手に1イニングしか投げていないとは思えないものでした。
待望の来日初白星は8月10日のヤクルト戦。見事な初完封勝利というオマケ付きでした。その後も脅威の安定感で、先発不足の広島投手陣を支えたのですが・・・。
9月に入った頃から成績は右肩下がり・・・。良かったはずの制球もままならなくなり、先発すれば早い段階でつかまってしまうという傾向に。球は良いものを持っていただけに、制球良く決めれば、二ケタ勝利も狙える投手だと思ったんですけどね。特に、日本での最後の登板となった9月30日の中日戦では6回1安打。この数字だけ見れば、好投のように思えますが、その内容は・・・。特に4回に突如として5四球を与えてしまうという大乱調。無安打で2点を許してしまいました。この突如の大乱調に加えて、6回で7四球・・・これが決め手になったかもしれませんね。
広島での選手生活はわずか3ヶ月ちょっとでした。広島を自由契約になってからは、オリックスや阪神が獲得に興味を示したようですが、結局、契約までには至らなかったようです。現役続行を目指して帰国したようです。
1980年11月25日生まれ。 ラ・エスタンシア高〜米大リーグ・ヒューストンアストロズアカデミー〜 ドミニカカープアカデミー−〜広島 2005年に自由契約に。 |
年 | 試合 | 打数 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 失策 | 打率 |
2005 | 15 | 48 | 11 | 1 | 0 | 0 | 13 | 0 | 0 | .229 |
通算 | 15 | 48 | 11 | 1 | 0 | 0 | 13 | 0 | 0 | .229 |
ドミニカカープアカデミーからプロ選手契約をしたフランコ選手。2004年は中国棒球リーグの広東レオパードに派遣され、本塁打と打点の2冠王を獲得しました。出来たばかりの中国のプロ野球リーグでは大暴れし、満を持してのプロ契約となったのですが・・・。
しかし、まだ設立したての中国のプロ野球とでは、日本の野球とはレベルの差がありすぎたのか、ファームでも満足のいく結果が残せないままでした。元々は長打力もあった選手のはずが、131打数で本塁打は0。中国では3割7分4厘の打率を残した打撃も、2軍では2割3分7厘と低迷しました。
ところが、ラロッカ選手の離脱によって、思わぬ形で1軍昇格の運びとなりました。これほどまでに、広島の二遊間は枯渇していた状況だったのでしょう。当時、1軍では山崎選手が遊撃手として安定した守備をみせ、打撃でも成長を遂げていました。ところが、二塁手はなかなか定まらない状況で、とにかく誰でも良いから1軍で使える選手を・・・という願いが届いてきそうな昇格でした。
1軍に昇格してからは、スタメンで起用されることもしばしば。その中でもヒット打つなど、一時は打率が3割を超えてきたのですが、それも本当に一時だけ。徐々に相手に弱点を読まれたのか、弱点があまりにも大きすぎたのか、打率はどんどん右肩下がりとなりました。また、守備では15試合で無失策だったのですが、その守備の様子はドタドタした腰の浮いた感じの守備で、ひとことで言えば「危なっかしい」っていう感じでしたね。
首脳陣の最後の思いも届かず、そんな思いに応えることができなかったフランコ選手。日本で結果を残すことは出来ず、わずか1年で自由契約となってしまいました。