あなたを忘れない〜2004年度版〜

 ※表示している成績は広島での成績、通算は広島退団時点での生涯成績です。

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4 アンディ・シーツ(内野手)

1971年11月19日生まれ。
ルイジアナ州立大〜マリナーズ〜デビルレイズ〜パドレス〜
エンゼルス〜レッドソックス〜デビルレイズ〜広島

2005年の契約を結ばず、阪神でプレー。

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2003 136 514 161 75 25 47 118 3 14 .313
2004 134 542 154 85 23 54 139 2 19 .284
通算 270 1056 315 160 48 101 257 5 33 .298

 当時、ショートを務めていた東出選手が2年連続のセリーグ失策王になってしまい、セカンドへコンバートされるとき、守備力強化のために白羽の矢を立てたのがこのシーツ選手でした。2001、2002年とタンパベイ・デビルレイズで90試合でわずか3つという驚異的な遊撃守備力が注目されました。

 2003年、日本でプレーする外国人選手としては珍しく「守備の人」として入団しました。打率は大リーグ通算2割1分2厘でしたから・・・。当時の内野手陣がまさにザル状態で、広島の守備はまさに危機的状況だっただけに、このシーツ選手の守備力にすべてを賭けたのでしょう。その守備力はキャンプのときから、他選手も目を留めるほどの華麗かつ流れるようなスムーズなプレーを披露。大リーグでも実績十分の守備力を如何なく発揮し、その後は「シーツ先生」として若手内野手にもアドバイスを送ったようです。でも、1年目が終わった時点で、実際に質問をしに行ったのが岡上選手だけだったというのは寂しい限りでしたが・・・。

 それにしても、「守備の人」として入団したシーツ選手ですが、柔らかく右方向を意識したバッティングが日本野球にぴったりマッチしました。1年目は途中から4番を打つなど、打率3割1分3厘、そしてバットの芯で捕らえるのがうまいこともあり、打球が意外に伸びるようで、本塁打も25本。打線には欠かせない存在になりました。2年目も序盤こそ不調でしたが、後半からは徐々に調子を取り戻し、2割8分4厘。「守備の人」を期待していただけに、打撃では期待以上の活躍をしてくれました。

 でも、広島市民球場の内野は難しいのでしょうか。それとも、チームの内野守備の脆さが伝染したか、華麗な守備とは裏腹に2年目には失策王になってしまいました。しかし、シーツ選手の守備は、それまでに比較して、投手陣には安心感をもたらしていたようです。

 さて、2005年からは阪神に移籍することになりました。背番号は同じく「4」。非常に手強い選手を同一リーグに明け渡してしまいました。チームとしてもシーツ選手の弱点は分かっているでしょうが・・・。阪神・岡田監督のシーツ選手の起用は一塁手だそうです。「守備の人」のはずが、「打撃職人」的な扱いのようですね。ショートでの華麗な守備はもう見られなくなるのでしょう。なんとなくシーツ選手の本来の持ち味が消されてしまいそうで残念ですね。

 

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5 町田康嗣郎(外野手)

1969年12月11日生まれ。高知・明徳義塾高〜専大〜広島(1991年ドラフト1位)
入団当初の登録名は町田公二郎、98年より康嗣郎に

戦力外通告後、金銭トレードにより退団。2005年より阪神でプレー。

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1992 49 153 41 19 6 20 34 1 0 .268
1993 103 276 68 31 6 36 72 1 1 .246
1994 18 26 2 1 0 6 7 0 0 .077
1995 69 138 36 22 8 15 36 2 1 .261
1996 73 130 40 23 9 17 26 2 2 .308
1997 103 257 62 33 10 40 56 4 5 .241
1998 89 172 42 23 4 22 41 2 4 .244
1999 81 177 43 28 8 20 33 0 2 .243
2000 102 260 73 34 13 44 56 4 1 .281
2001 70 92 24 22 9 20 28 0 0 .261
2002 73 97 21 12 7 16 36 1 0 .216
2003 70 118 27 19 4 24 124 1 1 .229
2004 7 6 1 0 0 1 2 0 0 .167
通算 907 1902 480 267 84 281 451 18 17 .252

 かつて阪神にいた「代打の神様」といえば八木選手ですが、広島の代打の神様といえば、左の浅井選手に対して、右は町田選手。ある意味、主役になれないままという代名詞でもある「代打の神様」ですが、町田選手の登場にはチームを勝利へ導く一打を期待したものです。

 1992年。町田選手のルーキーイヤー。10月1日の対ヤクルト戦で岡林投手から放った打球はレフトスタンドへ突き刺さるサヨナラ本塁打!専大時代は東都大学2番目の記録である通算15本塁打を放つ長打力が魅力だった町田選手ですが、プロでもその一発の魅力を見せ付けてくれました。その年にはなんと4番に座ることもありました。

 その後、町田選手は江藤選手(現巨人)や同期の金本選手(現阪神)らの台頭により、自然とスタメンに名前を連ねられず、ベンチウォーマーになる日々が続きました。しかし、最強の切り札として1996年には代打で28打数13安打の打率4割6分4厘というセリーグトップの脅威の成績を残し、また代打での9打席連続出塁というプロ野球新記録も樹立しました。

 町田選手は1998年にも江藤選手の代役として4番に起用されることはありましたが、広島を去るまで「代打家業」という役割から脱皮することは出来ませんでした。しかし、その中でも自分の仕事を全うしてきた証として、前述の代打連続出塁記録の他に、2002年には代打本塁打のセリーグ新記録17本(その後に自身の記録を更新し18本)を打ち立て、うち4本が満塁本塁打というのはプロ野球新記録です。

 何かあれば町田選手のバットが何とかしてくれる!そう信じてしましたが、特に2004年は栗原選手ら若手の台頭の波に飲み込まれ、わずか9打席しか立つことができませんでした。でも、広島のユニフォームを着て立つ最後の打席。ノーヒットノーランを目前にした吉見投手(横浜)から放った会心のあたりはレフトライナーになりましたが、「おっ!」と驚かせる火の出るようなあたりでした。本当のスタメンに名前を連ねてほしかった選手ですが、やっぱり代打が似合うんですかね。

 金銭トレードで2005年より阪神へ。そこでも八木選手に代わる代打の神様役となりそうです。皮肉にも同期4位の金本選手がチームメートとなります。くれぐれもお手柔らかに。

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11 横松寿一(投手)

1983年2月2日生まれ。福岡・戸畑高〜広島(2000年ドラフト1位)

2004年オフに自由契約。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2002 1 0 0 0 1 1 1 2 18.00
通算 1 0 0 0 1 1 1 2 18.00

 かつてのドラ1がわずか4年で解雇・・・。しかし、その4年間は壮絶なものでした。

 横松投手がドラフト1位で指名される以前、広島のドラフトは1位候補として挙がっていた内海哲也投手(当時敦賀気比高、現巨人)、内川聖一選手(当時大分工高、現横浜)に相次いで拒否されるという苦しい展開でした。その中で最終的に広島が1位に選んだのが横松投手でした。村上スカウトがあの北別府投手以来となる九州からの1位指名投手で「先天的に投手として生まれてきた」と絶賛の評価を与えていました。当時はMAX144キロの速球とカーブ、ナックルなど多彩な変化球が武器の投手でした。

 2年目となる2002年。ウエスタンで頭角を現し始めた横松投手は、2軍のエース格として5勝を挙げ、防御率も3.57と好成績を残しました。98回と1/3を投げてわずか20四死球という制球力も魅力でした。そんな横松投手がプロ入り初の1軍マウンドに上がったのは、その年の6月16日の巨人戦。1回を投げて2失点とプロの洗礼を浴び、マウンドを降りました。結局、そのマウンドが横松投手にとって最初で最後の1軍マウンドとなってしまいました。

 3年目からは故障との戦いでした。春季キャンプには右ひじ痛、その年の秋には右ひじ痛の元凶となった「胸部出口症候群」のため右の第一肋骨を切除、さらに右ひじ骨折。結局、ファームでも2003、2004年と登板がなく、戦力外通告を受けました。わずか4年のプロ野球生活に幕を下ろしました。

 しかし、そんな横松投手は一度は下ろしたプロ人生の幕を再び上げようとしています。高校時代から親交のあるメジャー関係者から米大リーグのトライアウトの誘いでした。現在は地元の福岡で2005年9月のトライアウトに向けてひじ痛の克服と筋力トレーニングに励む日々を過ごしているようです。ドラ1の底力とアメリカの舞台で発揮できる横松投手の野球人生第2幕の上演の日が来ることを祈ってます。

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13 菊地原毅(投手)

1975年3月7日生まれ。神奈川・相武台高〜広島(1992年ドラフト2位)
入団当初の背番号は26、1994年から49に、2000年から13に変更

トレードにより退団。2005年よりオリックスでプレー。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1997 1 0 0 0 2 1/3 4 0 3 11.57
1998 7 0 1 0 10 6 13 6 5.40
1999 21 3 5 0 36 28 22 31 7.75
2000 9 0 2 0 15 11 12 18 10.80
2001 78 2 2 0 51 1/3 24 51 28 4.91
2002 4 0 0 0 1 1 0 3 27.00
2003 30 2 0 0 18 1/3 8 16 7 3.44
2004 29 0 1 0 25 1/3 6 30 13 4.62
通算 179 7 11 0 159 1/3 88 134 109 6.16

 2005年1月、大阪近鉄と合併し、新たな船出をすることになったオリックスの上村和裕選手、山崎浩司選手との2対1の交換トレードがまとまりました。広島としては、いわゆる国内での交換トレードは当時中日の鶴田泰投手(現中日打撃投手)と紀藤真琴投手(現東北楽天)のトレード以来、4年ぶりとなりました。

 1992年、ヤクルトとのくじ引きで見事に勝利し、広島にドラフト2位で入団したのがこの菊地原投手です。この年の同期には当時の高校生左腕三羽ガラスと呼ばれた中日・野口投手や、現在はニューヨーク・ヤンキースの主軸を打つ松井秀喜選手らがいます。

 そんな菊地原投手もプロ初勝利を挙げるまでには長く苦しい道のりがありました。プロ入り7年目の1999年。達川監督が就任したこの年、シーズン2戦目の先発を果たすも、3回途中で無念の降板。しかし、中4日で先発マウンドに立った菊地原投手は見違えるような投球で6回途中まで2安打無失点の投球でプロ初勝利を挙げました。涙ながらのヒーローインタビューは非常に記憶に残る一コマです。

 さて、そんな菊地原投手といって真っ先に思い浮かぶのが2001年のシーズン最多タイ記録となる78試合登板です。あの西鉄の鉄腕・稲尾和久氏に並ぶ見事な記録でした。「(先発・中継ぎをこなし42勝を挙げた)稲尾とは記録のレベルが違う」と揶揄する記事もありましたが、毎試合肩を作って登板に備えていたわけですから、78試合登板の裏には並々ならぬ苦労があったと思います。しかし、その翌年はさすがに勤続疲労があっての4試合登板、さらにはそれ以降も不調での2軍降格があったり、左打者に長打を浴びたりなど、苦しいマウンドが続いたように思えます。

 2005年からは、何かと話題の多いオリックス・バファローズのユニフォームを着ることになります。そんな菊地原投手は「広島を離れるのはさみしいですが、オリックスでは気持ちを新たに頑張ります。」とのことです。左腕不足に泣くオリックスだけにチャンスも多いことでしょう。交流試合のでは、また広島市民球場で、今度は敵として対戦する菊地原投手が新しいユニフォームに身を包んで登板するときを楽しみにしています。

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21 鶴田泰(投手)

1970年7月23日生まれ。山梨・塩山商高〜駒沢大〜中日(93年2位)〜広島
01年に紀藤投手(現楽天)とのトレードで広島に入団。当初の背番号は17.

04年の戦力外通告を受け、05年より中日の打撃投手に。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2001 15 4 3 1 54 2/3 17 34 15 2.47
2002 17 4 6 0 72 2/3 31 54 49 6.07
2003 17 2 3 0 53 1/3 23 41 25 4.22
2004 2 0 0 0 3 2/3 1 2 3 7.36
通算 125 21 31 2 416 1/3 160 323 193 4.17

 2000年オフ、紀藤投手(2005年時点東北楽天所属)との1対1の交換トレードで広島に来たのが鶴田投手でした。達川前監督から、現在の山本監督の第2次政権に移行した年に行われた、いわゆる星野前中日監督(2005年時点は現阪神シニアディレクター)との友情トレードと呼ばれるものでした。

 駒沢大から1993年にドラフト2位で中日に入団。大学球界屈指の技巧派投手として、1年目から7勝を挙げました。しかし、右ひじじん帯断裂の故障により3年間を棒に振り、やっと復帰した頃には、中日での働き場所がなくなってしまった格好になりました。1年目に7勝を挙げながら、中日に在籍した8年間で11勝に終わりました。

 しかし、2001年から広島でプレーすることになった鶴田投手は、その開幕から絶好調で、古巣の中日戦で8回無失点の好投を見せることもあり、一時は防御率争いでトップに立つほどでした。その後、わき腹を痛めて戦線離脱。「これから!」というときに故障してしまうという点では、鶴田投手にとっては悔やんでも悔やみきれなかったでしょうね。

 鶴田投手の持つ制球力は投手陣の中でも群を抜く存在でした。しかし、体重アップで筋力強化に挑んだ2002年オフ。72キロだった体重を80キロに上げてからというもの、なぜか制球にも影を落とし、球威も感じられなくなってしまいました。そのせいか、2003年以降は投球も簡単にはじき返されることが多くなり、特に、2003年の阪神優勝決定試合で、赤星選手に決勝打を打たれました。大阪地区では今でもその画像が頻繁に放送されています。何とも悔しい出来事です。

 広島在籍4年間で10勝。先発投手陣が揃っていた中でも、主力投手が故障で欠けたときのサブ的な先発投手として、鶴田投手がいることでの安心感はありました。その点では、鶴田投手の存在感は大きかったといえるでしょう。2005年からは古巣の中日で打撃投手としての第2の野球人生が始まりました。

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28 瀬戸輝信(捕手)

1969年3月25日生まれ。福岡大大濠高〜法大〜広島(1990年ドラフト1位)
入団投手は背番号2、96年より28に。

引退し、2005年より1軍バッテリーコーチに就任。背番号84。

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1991 7 8 2 0 0 0 3 0 1 .250
1992 5 5 0 0 0 1 1 0 0 .000
1993 26 40 10 1 0 4 9 0 1 .250
1994 34 37 7 3 0 4 9 0 0 .189
1995 78 203 52 22 2 22 42 2 1 .256
1996 21 39 9 5 1 6 11 0 2 .231
1997 79 152 31 12 2 18 30 1 4 .204
1998 120 322 75 27 3 21 73 4 3 .233
1999 56 123 34 11 0 11 25 0 3 .276
2000 48 114 31 6 1 9 26 0 1 .272
2001 51 72 21 4 1 3 12 0 4 .292
2002 8 7 2 0 0 0 3 0 0 .286
2003 3 3 0 0 0 0 0 0 0 .000
2004 1 0 0 0 0 0 0 0 0 -
通算 537 1125 274 91 10 99 244 7 20 .244

 最後まで2番手捕手だった・・・。

 瀬戸選手を一言で表せば、こうなるでしょうか。そんな瀬戸選手ですが、過去に一度だけ正捕手の座を手中にしかけたことがありました。1998年・・・西山選手の故障で巡ってきた、2番手捕手に主役が回ってきたのです。その年、くしくも他の主力選手に故障が相次ぎ、これより始まる連続Bクラスのスタート年になるとは・・・。しかし、その年ほど瀬戸選手の存在感が表立ったことはなかったのではないでしょうか。正捕手がいないときこそ、その選手に代わって仕事を全うする。そのポジションが守備の要であることからも、瀬戸選手の役割はまさしく「縁の下の力持ち」でした。

 瀬戸選手の持ち味といえば、インコースも強気に攻めるリードと、捕手の中では高い打撃センスではなかったでしょうか。代打での起用もあった瀬戸選手は1999年から2001年にかけて、打率2割7分以上をキープしていました。バッターボックスへのそのそと近付く姿は、一見、大人しそうな雰囲気があるのですが、それとは裏腹に打撃でも守備でも攻撃的な選手でした。

 しかし、1999年のドラフトで、当時の逆指名で入団した木村一選手がその後徐々にマスクをかぶる機会が増えました。それとともに、瀬戸選手がマスクをかぶる機会が減ってきました。それでも、もしものときのためにベンチに控えていた瀬戸選手ですが、最大の転機になったのは2001年にドラフト指名された石原選手の入団でした。2003年から正捕手的な存在として台頭してきた石原選手、さらにそのサポートとして西山選手と木村一選手が入り、捕手陣の世代交代が進むとともに、瀬戸選手の出番は減り、2軍でシーズンを過ごすことも増えてきました。そのこともあり2004年シーズンは正田選手以来となるコーチ兼選手となりましたが、2軍でも1軍でも引退試合のみの出場となり、ほとんどコーチ専任の状況でした。

 1軍での引退試合で、1イニングだけマスクをかぶり、試合に出ていなかったブランクがあったのか、1球後逸してしまいました。でも、そこが現役時代から後逸の多かった瀬戸選手らしいところでしたね。瀬戸選手は2005年より1軍バッテリーコーチに就任しました。正捕手の石原選手は外角中心の安全策の多いリードをします。それだけに、せっかくストライクゾーンも広がったのですから、内外、そして高低を活かした瀬戸選手の現役時代の強気なリードを吸収して、柔と剛を使い分ける捕手になってほしいです。そのためにも若手捕手の育成に力を注いでほしいところです。第2の捕手人生も輝けるものでありますように。

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32 西山秀二(捕手)

1967年7月7日生まれ。大阪・上宮高〜南海(1985年ドラフト4位)〜広島
1987年5月に森脇、永田と1対2の交換+金銭トレード

戦力外通告後、金銭トレードにより退団。2005年より巨人でプレー。

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1987 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -
1988 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -
1989 2 2 0 0 0 0 0 0 0 .000
1990 25 21 6 2 0 0 4 0 0 .286
1991 52 111 31 14 4 7 21 1 0 .279
1992 79 170 38 20 4 16 33 2 1 .224
1993 110 62 62 21 7 13 60 1 5 .229
1994 126 387 110 32 3 35 73 9 2 .284
1995 83 199 42 27 5 25 56 5 2 .211
1996 124 411 129 41 3 51 48 4 1 .314
1997 103 264 54 28 5 37 64 6 2 .205
1998 13 37 7 7 2 3 3 0 0 .189
1999 103 294 70 25 4 27 59 3 3 .238
2000 93 253 56 33 6 22 70 3 7 .221
2001 120 268 64 14 2 36 53 1 3 .239
2002 87 169 33 11 4 16 34 1 1 .195
2003 60 74 11 7 1 3 22 0 0 .149
2004 22 9 1 0 0 0 2 0 0 .111
通算 1202 2940 714 282 50 291 602 36 27 .243

 数少ない南海時代の現ソフトバンクを知る選手(2005年現在)の一人である西山選手。選手会長も勤めた広島の屋台骨を支えた西山選手が2004年、戦力外通告と金銭トレードにより巨人への移籍が決定しました。

 1987年途中に森脇浩司選手(現ソフトバンク2軍内野守備走塁コーチ)と永田利則選手(現広島2軍外野守備走塁コーチ)の2選手と西山選手と金銭を含めた1対2の交換トレードにより、広島に入団した西山選手。そんな西山選手が頭角を現したのが1991年。そう、広島が2004年時点で最後の優勝した年です。その当時を知る数少ない選手の一人がこの西山選手なのです。1991年にプロ初本塁打も放った西山選手は、当時、達川選手がマスクをかぶることが多かったため、主に外野や三塁を守っていました。

 1992年に達川選手が引退すると、1994年頃から正捕手の座に付いたのが西山選手。あのぽっちゃりした体型ではありますが、意外と俊足なのです。1994年には9盗塁、それ以降も意外とコンスタントに走ってるんです。オールスター戦や公式戦でも代走で出場することもあったほど。そんな西山選手は打者としても1996年には3割1分4厘の打率を残しました。

 しかし、ここ数年は木村一選手や石原選手といった若手選手にスタメンを譲ることも多くなり、そんな若手捕手の様子をベンチから眺めていることも多くなりました。特に2004年には出場試合数もわずか22にとどまり、放ったヒットはわずかに1本。でも、2004年6月20日。リードが読まれていたのか、打たれる場面が多く見られた石原選手に代わり、西山選手がスタメンで黒田投手とバッテリーを組むと、そのベテランの味のあるリードで、1−0の完封勝利を演出しました。「さすが・・・」と唸らせるものがありましたね。

 球界の混沌期に選手会長として精力的に動き、またチームメートの一部には「好きなタイプ」欄に西山選手夫人の名前が書いてある選手もいたほど、周囲から慕われていたようですね。そんな西山選手は2005年から巨人でプレーすることになりました。広島のデータを余すことなく知っているだけに、チームとしては相手に弱点を知られるということで非常に痛手になるとは思います。ホント、お手柔らかに。

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38 朝山東洋(外野手)

1976年7月29日生まれ。久留米商高〜広島(95年ドラフト3位)

04年のシーズンオフに引退表明。05年より3軍コーチに就任。

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1999 25 12 4 0 0 0 4 2 0 .333
2000 58 102 25 17 5 3 14 3 0 .245
2001 5 5 2 0 0 0 1 0 0 .400
2002 2 2 0 0 0 0 1 0 0 .000
2003 39 62 14 4 3 4 21 1 0 .226
2004 23 41 4 4 0 1 14 0 0 .098
通算 152 224 49 25 8 8 55 6 0 .219

 高校通算29本塁打、前田2世と呼ばれた野球センスでプロの世界に飛び込んだ朝山選手。その名前は「東洋」で、まさしく広島にぴったりです!希望の背番号に、何と永久欠番ということを知らずに山本監督の「8」を選択したことでも有名です。入団時は「88」、その1年後から「38」をつけるようになりました。

 走攻守3拍子揃い、打撃センス抜群でまさしく「前田2世」と評された朝山選手。しかし、故障に苦しんだことに関しても「前田2世」だったのかもしれません。プロに入って手足に5度のメスを入れました。98年には右ひざ半月板を一部除去、01年には今度は左ひざの半月板を一部除去。結局両ひざの半月板とも、一部除去した形となったのです。

 確かに、どちらか一方のひざだけなら、まだ良かったのかもしれません。でも、両ひざとなると・・・。しかも、左ひざにメスを入れる前年の2000年、達川前監督に認められ、プロ初打点、初本塁打も記録し、これからが朝山選手が1軍のレギュラーとしての第一歩を歩き出そうとしたときだっただけに、「あの故障さえなければ・・・」と悔しい思いが募る選手でした。でも、朝山選手自身が、一番悔しかったのでしょう。

 両膝の半月板の周りに筋肉をつけるため、徹底的に鍛えたようです。しかし、2004年に入ってからは、2軍では脅威の集中力で高打率を残しましたが、1軍では1本のヒットを打つのも苦しそうな、さらにバットに振り回されている雰囲気のある打撃でした。両膝の故障の代償はあまりにも大きすぎたようです。

 そんな故障の経験を活かして、2005年からは故障者が集まる3軍のコーチに就任しました。選手生命は残念ながら短かった朝山選手ですが、今度はコーチとして自分の分まで選手たちが長くプロ野球選手として活躍できるように、縁の下の力持ち的な存在として頑張ってほしいですね。

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42 クリス・ブロック(投手)

1970年2月5日生まれ。
フロリダ大〜ブレーブス〜ジャイアンツ〜フィリーズ〜オリオールズ〜広島

04年のシーズンオフに解雇。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2003 24 8 8 0 144 46 88 63 3.94
通算 24 8 8 0 144 46 88 63 3.94

 先日、弊サイトで行った「広島史上最強の外国人選手は?〜投手編〜」で栄えある3位に入ったブロック投手。2年間在籍してわずか8勝でも、広島でも屈指の強力助っ人だったその理由とは?

 1992年にドラフトで指名され、アトランタ・ブレーブスに入団したブロック投手。1999年にはサンフランシスコ・ジャイアンツで先発を中心に6勝、2000年にはフィラデルフィア・フィリーズで先発・中継ぎに7勝を挙げ、大リーグ通算18勝の実力派投手でした。そして2003年、広島に入団。2003年は広島でも先発ローテーションをシーズン通して守り抜き、8勝(8敗)を挙げました。

 日本での投手成績はいたって平凡。しかし、普段の温和さから一転しての試合中でのその気性の荒さで、暴言を吐き退場になったこともあれば、乱闘になりかけたことも。さらに記憶に新しいのは1試合3ボークを含めて、シーズン通算11ボーク。江本孟紀氏(元南海ほか)の持つ10個を越える、プロ野球最多記録を打ち立てました。というより、ボークなので、記録を打ち立ててしまったの方が正しいのでしょうが、そこがブロック投手らしいところだったのでしょう。

 しかし、魅力は投手としてだけではなかったのがブロック投手。大学時代はバッターもやっていたようで、打席に立つブロック投手は生き生きして見えました。打率3割を超える投手としては飛び抜けて高く、野手も完全に顔負けの打撃成績。さらに、打球がグッと伸びる長打力で2本塁打。代打起用もあったくらいの、9番に置いとくにはもったいない恐怖のラストバッターでした。

 そんなブロック投手は2004年、春季キャンプ中に「右肩けん板損傷で全治1週間」と診療され、精密検査のために渡米しましたが、その後、ひっそりと日本球界を去りました。投手として肩が使えないのなら、6番か7番を打つ打者として残っても良かったのでは(笑)いや、ちょっと本気かも?

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58 マーク・ワトソン(投手)

1974年1月23日生まれ。
ジョージア大〜インディアンス〜マリナーズ〜レッズ〜広島

04年のシーズンオフに解雇。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2004 19 0 2 0 21 2/3 8 20 9 3.74
通算 19 0 2 0 21 2/3 8 20 9 3.74

 チーム間のトレードや新外国人選手の獲得の期限である6月。故障者や不調者が相次ぎ、チームの中継ぎ不足という事情もあって、その期限すれすれに獲得したのがこの左腕のワトソン投手でした。入団当初は、「佐々木投手(現横浜)からフォークを教えてもらった」と語り、期待を集めました。

 19試合投げて、2敗ながらも防御率3.74。21回と2/3を投げて奪三振20。けして悪い投球でもなく、中継ぎ左腕が不足している状況の中では、残留もありなのではと思っていましたが、結局解雇となりました。広池投手に加えて、佐竹投手が台頭してきたチーム事情もあったのでしょうね。

 でも、過去のシーズン中にも1999年のデハート投手、2000年のウルソー投手らの例にもあるとおり、中継ぎ左腕を外国人に託すシーズンが続いており、その都度、あまり活躍せずに帰国しています。彼らからすれば、ワトソン投手はまずまずの活躍をしたんですけどね。中継ぎ左腕の外国人選手を必要としなくなったのは、広島の将来を考えても、選手が成長しているということで良いことなのでしょうね。

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60 西川慎一(投手)

1967年2月26日生まれ。愛媛・大洲農高〜NTT四国〜近鉄(93年2位)〜阪神〜広島
03年にテストで広島に入団。

04年に戦力外通告。現役続行を希望も05年は所属球団なし。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2003 43 0 0 0 22 2/3 12 12 18 7.15
2004 1 0 0 0 0 0 0 0 -
通算 282 4 5 0 246 1/3 133 159 107 3.91

 2002年オフ、阪神を自由契約になった西川投手は、その後、広島のテストを受け、左腕不足というチーム事情もあり、入団することになりました。

 そんな西川投手は1993年に近鉄に入団。主に中継ぎとして1997年には51試合、1998年には61試合に登板するなどフル回転の活躍を見せました。しかし、2000年のシーズン中に近鉄の吉田剛選手とともに阪神の杉山賢人投手と2対1の交換トレードにより阪神に移籍することになりました。移籍1年目は阪神で1.93の防御率を挙げる大活躍を見せますが、その後は低迷・・・。どちらかといえば隔年で活躍するタイプでした。

 2002年に阪神をオフになり、広島にテスト入団した西川投手は、その翌年の2003年には、チームの左腕不足を補うべき序盤から多くの試合で、主にワンポイントとして活躍しました。しかし、登板しても打たれるケースが多く、それでも西川投手しかいないという深刻な左腕不足で登板数は43試合に及びました。

 2004年。開幕1軍に選ばれるも、4月6日に登板した対中日戦。2−2の同点で迎えた延長11回裏の中日の攻撃、2死1、2塁で登板した西川投手は、左の立浪選手に初球をサヨナラ打されました。これが、2004年に投げた1軍での最初で最後の打者であり、最初で最後の投球となりました。その翌日に2軍に落とされた西川投手は、そんな1球の余韻を残し、二度と1軍に昇格することなくチームを去ることになりました。

 現役続行を希望も、トライアウトではどのチームも獲得することはありませんでした・・・。

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66 矢野修平(投手)

1980年8月12日生まれ。宮崎・高鍋高〜広島(1998年3位)

04年に戦力外通告。05年は広島の打撃投手に。背番号は102。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2001 3 0 0 0 7 3 6 1 1.29
2002 1 0 0 0 1 2 1 4 36.00
通算 4 0 0 0 8 5 7 5 5.62

 故障を承知で獲得した投手。故障がなければ1位で指名しなければいけなかった・・・といわれる投手。そして、オープン戦開幕投手も2度務めた期待が高かった投手。そんな投手が2004年を最後にユニフォームを脱いだ。

 1998年。広島にとっては獲得確実といわれた二岡選手を逃して、東出選手を1位指名した年。広島のドラフトを語る中で、未だに語り継がれるターニングポイントといわれていますが、この1998年は広島ドラフトは2004年現在では2位の井生選手を除いては、全選手が1軍を経験した当たり年とも言えるでしょう。そんな井生選手も今後次第では1軍昇格も多いに有りうるのですから。

 矢野投手は150キロを超える速球で、2軍でも一目を置かれた存在で、2003年の1軍で残した成績を見ても、将来の1軍のエース格を実感した方も多かったはず。そんな私もそうだった。しかし、もともと故障持ちで入団し、最後まで故障に苦しんだ矢野投手。2002年のシーズン序盤の阪神戦で、大量失点を許してからというもの、1軍からお呼びがかからず、2003年以降も2軍ですら6試合の登板しかありませんでした。

 矢野投手はシーズンオフの戦力外選手の発表よりちょっと遅れての戦力外通告。でも、将来もチームと再契約の可能性もある打撃投手としての契約。背番号もかつての66より、ケタ数で1つ多い102に。でも、故障からの復活具合によっては再度プロへの復帰もあり得ます。故障さえなければ…、そして実力的には文句なしの投手。ひょっとしたら、このコーナーで何年、何十年も先に、2度目の紹介があるかもしれませんね。そうなることを祈って・・・。

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67 酒井大輔(投手)

1980年6月19日生まれ。愛知・春日丘高〜広島(1998年7位)

04年に戦力外通告。05年からは中日の打撃投手として、再度、プロ入りを狙う。

試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2000 6 0 0 0 7 1/3 7 7 8 9.82
2001 24 1 0 0 34 1/3 24 30 16 4.19
2002 25 0 1 0 26 2/3 18 17 32 10.80
2003 11 0 0 0 15 1/3 1 10 10 5.87
通算 66 1 1 0 83 2/3 50 64 66 7.10

 同期の矢野投手とともに、プロ入り6年で解雇されました。一時は中継ぎ投手として活躍もし、その速球から将来有望な選手でもありました。

 高校時代から投打で注目も集めました。投手としてはMAX145キロのストレート。野手としては50m5.9秒の俊足と高校通算30本塁打という長距離ヒッター。どちらとも好素材で、他球団からもマークされました。広島も当初は外野手としての育成を考えていたようです。

 しかし、投手としてプロ生活のスタートを切りました。2年目の2000年に初めての1軍昇格を果たし、一時はMAX153キロを投げるまでに成長を遂げました。2001年には中継ぎを中心に24試合に登板し、その年の10月7日の横浜戦でプロ初勝利を挙げました。結果的には、その初勝利が最初で最後の勝利となるのですが・・・。そして2002年には序盤から中継ぎで完璧な投球を披露しました。しかし、スタミナに問題があったのか、5月に入って成績は一気に急降下・・・。

 元々、酒井投手はその投球フォームが課題とされてきました。いわゆるアーム式と呼ばれる肘を使わない投球フォームでした。そのフォームは肩に負担がかかりやすいとか、制球が定まりにくいという欠点があります。また、打者にタイミングを取られやすくなります。そんなアーム式投球のしっぺ返しが2004年に右肩関節唇と腱板部分切除の手術を受けました。

 この肩手術で投手生命を縮めてしまったのでしょうか・・・2004年は登板なく、そのまま解雇となりました。2005年からは地元・中日の打撃投手として第2の野球人生をスタートさせました。しかし、それは再び1軍のマウンドへ上がるための通過点になるかもしれませんね。

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