カープ助っ人列伝〜2000年度版〜

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33 ジェフ・ボール(内野手)

1969年4月17日生まれ。
サンノゼ州立大〜アストロズ〜アスレチックス〜広島(2000年)

2007年現在、アメリカ独立リーグの球団GMとして活躍中
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2000 3 8 2 0 0 0 3 0 0 .250
通算 3 8 2 0 0 0 3 0 0 .250

 1999年、江藤選手(現西武)がFAにより巨人へ移籍したことでぽっかり空いた4番、そしてサードのポジション。その穴を埋めるべく獲得したのがジェフ・ボール内野手でした。99年は3Aバンクーバーで打率3割9厘、8本塁打の好成績を収めました。長打力というよりはシュアな打撃が売りの内野手という触れ込みで期待を集めました。

 私としては、最初にこの選手の名前を聞いたとき、「ボール」って変な名前だなぁ、という印象しかありませんでした。「ストライクなのにボール?」などとふざけたことを言ってみたり・・・。

 オープン戦では4番での起用があったりしましたが、なかなか結果は伴わず・・・。開幕戦では7番でスタメンに入るも、2打席目でもう代打を送られお役ご免。開幕2戦目ではもうスタメンから外されました。開幕3戦目でようやく2安打を放ちましたが、これで日本での最後のヒットとなりました。開幕からわずか10日足らずで2軍落ち。2軍でも2割ちょっとの打率にとどまり、5月上旬には解雇となってしまいました。

 打席でのボール選手を見ましたが、正直、「こりゃ、打てないだろうな・・・」という印象しかありませんでした。というのも、ホームベースから割と離れたところに立つというスタイルで、おそらく外角中心に攻めれば、最後はスライダーで簡単に三振が取れるタイプだろうという感想を持ったからです。その直感は裏切ることなく、投手のスライダーで簡単に手を出し、まったくバットが届かない感じの空振り三振・・・。

 そんなボール選手は2007年現在、アメリカニュージャージー州にある人口4万程度の小さな町であるアトランティックシティを本拠地に持つ独立リーグのチームのGMで活躍されているようです。

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42 クリストファー・カンバーランド(投手)

1969年4月17日生まれ。
パスコエルナンド短大〜ヤンキース〜ツインズ〜レッドソックス〜広島(2000年)

現在不明・・・。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2000 1 0 1 0 1/3 1 0 3 81.00
通算 1 0 1 0 1/3 1 0 3 81.00

 絶対的な左腕の不足に悩んでいた広島が、とにかく左腕を補強にいった2000年。ドラフトでは河内投手と佐竹投手を獲得し、左腕の外国人投手を今回ご紹介するカンバーランド投手を含めて2人、そしてテスト入団で近鉄を自由契約になった谷内投手を獲得しました。

 その中の一人、カンバーランド投手。名前にインパクトがあるので、記憶に残っている方も多いのではないかと思います。ただ、結果だけ見れば、いったい何をしに日本に来たのか、まったく分からないまま5月上旬にボール選手とともに退団となってしまいました。

 カンバーランド投手の1軍での登板はわずか1試合。オープン戦でも先発1試合、中継ぎ1試合のみ登板で、けして万全の調整が出来たとはいない状況で、開幕3戦目にいきなり先発を任され、先頭打者を抑えたものの、それが日本での最初で最後のアウトとなりました・・・。わずか1死取っただけで3失点のKO。その直後に2軍落ちとなり、二度と1軍に登場することはありませんでした。

 2軍では1試合4ボークというウエスタンリーグでのタイ記録を作ってしまいました。けして悪い成績ではなかったものの、日本の野球になかなか適応することが出来なかったようです。アメリカでは3Aで36試合に投げ4勝3敗防御率4.45と、けしてよくもなければ悪くもない成績だったカンバーランド投手・・・日本では自慢のシンカーも通用しないどころか、フォーム自体がボークをとられまくってしまったままでした。

 そういえば、このカンバーランド投手に対して、当時の達川監督が言った言葉・・・「カンバーランド、もっと頑張らんと・・・」。この名言だけが残った選手でした。

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45 サルバトーレ・ウルソー(投手)

1972年1月19日生まれ。
プラント高〜マリナーズ〜ヤンキース〜レッドソックス〜広島(2000年)

現在不明・・・。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2000 29 0 0 1 18 19 12 16 8.00
通算 29 0 0 1 18 19 12 16 8.00

 皆さんはこの投手を覚えていらっしゃいますでしょうか?中継ぎ左腕が絶対的に不足していた当時、とにかくその不足を外国人投手を獲得することで、急場を凌ごうといった感覚で獲得したのがウルソー投手でした。それまで大リーグ経験もなかった左腕なのですが、とにかくこの投手に中継ぎ左腕の軸を・・・と期待を集めました。

 確かにそのフォームは変則的といえば、変則的だったかもしません。スリークオーター気味なフォームから繰り出されるMAX147キロの速球。しかし、その数字も怪しいもので、実際にプロ野球中継や、球場での観戦をしてみると、ストレートは140キロ前後止まり。確かに不安ではありましたが、左打者だけは抑えてくれるだろう、という期待は抱きました。

 そしてシーズン開幕。その直後は好投を続けてはいましたが、投球のクセやタイミングを覚えられたのか、登板を重ねるたびに打者を抑えきれなくなる日々が続きました。1軍と2軍を行ったり来たりはしましたが、1軍で満足な成績を収めることが出来ないまま・・・。29試合に登板し、1セーブを挙げることは出来たものの、助っ人としての活躍あは出来ないまま、カープを去ることとなりました。結局、敵となるチームにその投球のクセやタイミングを読まれてしまった、それが登板を重ねるたびに、投球が安定しない理由のひとつだったのでしょう。ちなみに、その後の消息は良く分かりません・・・。

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