1970年2月21日生まれ。 フォートスコットシティ大〜エキスポズ〜広島(1999年) 広島を1年で退団後、ドジャース、ロイヤルズと移籍。 |
年 | 試合 | 勝 | 負 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率 |
1999 | 6 | 0 | 1 | 0 | 6・1/3 | 6 | 3 | 6 | 8.53 |
通算 | 6 | 0 | 1 | 0 | 6・1/3 | 6 | 3 | 6 | 8.53 |
皆様はこの投手の名前を覚えていらっしゃるでしょうか?
1999年のシーズン途中である6月11日に契約を結んだのがデハート投手でした。その当時、1軍には菊地原投手や高橋投手くらいしか左腕がいないという慢性的な左腕不足に泣いていた年に、期待の左腕として途中入団を果たしました。でも、最初に登板を見たときから、何となくこの言葉が浮かびました。「付け焼刃ははげ易い・・・」。
それでもこのデハート投手は大リーグでもモントリオール・エクスポズで1997年には23試合に登板し2勝1敗、1998年には勝ち負けには関係なかったものの、26試合に登板しました。貴重な中継ぎ左腕として活躍していたのです。1999年には3試合に登板していました。また、3Aオタワでは、1998年に38試合に登板し7勝1敗という抜群の勝率を誇っていました。
6月25日に1軍に昇格すると、いきなり中継ぎで来日初登板。しかし1イニングで2失点・・・。続く試合でも登板し、巨人・松井選手に本塁打を浴びてしまいます。7月11日には来日初先発を果たしましたが、2回途中2失点で降板。それが日本での最後の登板となりました。特にこれといった活躍もないまま、そのシーズンのオフに自由契約となりました。
その後のデハート投手はロサンゼルス・ドジャースに移籍。直後にカンザスシティ・ロイヤルズで2003年に4試合に登板し2敗。それを最後に自由契約となりました。その後はメキシカンリーグでプレーしているといううわさを聞きましたが、現在もプレーしているかどうかは分かりません・・・。
1975年10月10日生まれ。 ドミニカカープアカデミー〜広島(1999年)〜ヤンキース1Aトレントン 広島を2年で退団後、ヤンキースの1Aに。現在不明・・・ |
年 | 試合 | 勝 | 負 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率 |
1999 | 9 | 0 | 2 | 0 | 13 | 14 | 4 | 13 | 9.00 |
2000 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 3 | 6 | 27.00 |
通算 | 10 | 0 | 2 | 0 | 15 | 17 | 7 | 19 | 11.40 |
1999年、春季キャンプ中に契約を結んだのが、当時、ドミニカカープアカデミーからテストでキャンプに参加していたエジソン・アントニオ・レイソノ・パスクアル投手でした。登録名はレイノソ投手です。
そんなレイノソ投手で最も記憶に乗っているのは、やはり開幕3戦目でのいきなりの先発だったのではないでしょうか。達川監督1年目で、明らかに先発投手のコマが足りないという苦しいチーム状況で、開幕投手は前年15勝を挙げたミンチー投手、そして2戦目は当時はプロ未勝利の菊地原投手。それだけでも投手事情の苦しさを感じられたのですが、3戦目がなんとレイノソ投手。オープン戦でも先発経験のなかったレイノソ投手の登板は、いったいどういう意図があったのでしょうか・・・。
そんな先発機会はとにかく緊張の連続だったようです。いきなり初回から3四球。何とか無失点に抑えましたが、次の回もとにかく制球が定まらずに四球の嵐。2回途中、3つのアウトをとるのに5つの四球を出してしまい、開幕3連敗を喫してしまいました。
もはやインパクトはそれだけですが、今でも印象深いワンシーンでもあります。プロ通算で15イニングを投げて、四死球の数はなんと17。1イニングに1個以上の四死球を出す計算になります。とにかく制球難が大きな課題で、それを克服できないまま、2年目の2000年には9月下旬に1試合投げただけでチームを去ることとなりました。
広島での野球人生を終えた後、2001年には米大リーグのニューヨーク・ヤンキースの1Aトレントンに入団しましたが、その後は消息不明です・・・。