あなたを忘れない〜2011年度版〜

 ※表示している成績は広島での成績、通算は広島在籍時のみの生涯成績です。


33 豊田 清(投手)

1971年2月2日生まれ。
三重・鈴鹿高〜同朋大〜西武(1993−2005)〜
巨人(2005−2010)−広島(11)

2011年に現役引退。2012年からは巨人の2軍投手コーチに
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1995 4 0 0 0 6.0 0 4 1 1.50
1996 18 5 5 0 108.0 28 88 37 3.08
1997 23 10 6 0 150.2 56 86 49 2.93
1998 7 4 2 0 39.1 9 31 19 4.35
1999 20 10 4 0 122.2 19 91 53 3.89
2000 26 5 9 1 118.1 29 90 50 3.80
2001 47 5 3 28 47.2 13 58 15 2.83
2002 57 6 1 38 57.1 4 66 5 0.78
2003 58 2 3 38 58.0 10 54 8 1.24
2004 34 5 1 11 36.2 5 39 4 0.98
2005 35 3 1 19 34.0 6 31 15 3.97
2006 38 1 4 13 38.0 6 46 14 3.32
2007 47 2 5 4 48.0 10 56 18 3.38
2008 50 3 2 0 46.1 6 49 17 3.30
2009 46 2 2 5 40.2 16 32 9 1.99
2010 16 1 1 0 14.1 6 18 7 4.40
2011 32 2 1 0 26.1 1 20 9 3.08
通算 558 66 50 157 992.1 207 859 330 2.99

 プロで通算157個のセーブを挙げ、しかも2002年と2003年には西武で最多セーブのタイトルも獲得した実績十分の右腕・豊田投手が、カープに入団することが決まったのは2010年のオフのこと。その年、巨人から戦力外通告を受け、そのままコーチ就任の打診があったものの、現役にこだわった豊田投手に獲得の意思を表したのがカープでした。

 中継ぎ右腕が不足していたチーム事情もあり、しかも、これまでの豊富な経験を若手に伝えてほしい・・・そういった意味も込めての獲得となりました。もちろん、過去の経験を伝えるだけでなく、戦力としての豊田投手に魅力を感じていたからでもありました。豊田投手としては3球団目、そして選手生活の最後をカープで過ごすことになったのです。

 開幕1軍を果たした豊田投手でしたが、やはり新天地ということもあったのか、序盤はなかなか心と体が一致しない面もあったようです。4月25日に登録を抹消され、それから1軍に再昇格を果たしたのは7月5日のことでした。その後はベテランらしい投球を展開し、セットアッパーの役目をになうこともあったベテラン右腕。その存在感はやはり頼もしさと安心感を与えるものでした。ヒットを打たれても、しっかりと後続を絶つ投球はさすがでした。

 しかし9月29日の登板で、ベースカバーの際に右足の内転筋を痛めてしまうアクシデント。その翌日に1軍登録を抹消されました。その後の豊田投手のブログでは最短の抹消期間である10日で戻りたい、必ず戻る・・・などと前向きなコメントが書かれ、そして球団側も来季の契約更新を考えていたようです。しかし、古巣・西武の帆足投手から言われた「走れなくなったら終わり・・・」その言葉に引退を決意したそうです。足の状態が良かったり悪かったりで、なかなか快方に向かわなかったのかもしれません。

 来季も中継ぎの精神的支柱として、そしてもちろん戦力としても期待されていた右腕でした。それだけに、故障を治して戻ってきてくれると思っていただけに、まさかの引退は驚きました。長いプロ野球生活・・・本当にお疲れ様でした。栄光ある実績の中で、最後にカープに入団してくれたこと、感謝するばかりです。そして来季からは巨人の2軍投手コーチとして第2の人生をスタートさせるようです。

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43 チャッド・トレーシー(内野手)

1980年5月22日生まれ。
ウエストメクレンブルク高〜イーストカロライナ大〜
ダイヤモンドバックス(04−09)〜
マーリンズ(10)〜カブス(10)〜広島(11)

2011年オフに自由契約。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2011 40 149 35 19 1 13 34 0 6 .235
通算 40 149 35 19 1 13 34 0 6 .235

 カープが新助っ人としては球団史上最高額で獲得した長距離砲・・・それがトレーシー選手でした。大リーグでは、2005年にダイヤモンドバックスで145試合に出場し、27本塁打を放ち、打率も.308という活躍を見せました。さらに翌年も154試合に出場して、20本塁打、80打点。そんな過去のものとはいえ、メジャー通算79本塁打という大きな実績を残した選手がカープに入団するとあって、その期待はいやおうなしに高まりました。

 ただ1つ気がかりだったことと言えば、2007年以降は大リーグでも出場機会が少なくなっていたこと。そして左投手に弱点があるといったこと。しかし、3Aでも大リーグでも比較的三振が少なかったことで、日本野球には適応してくれる能力が高いのでは…そんな期待が膨らみました。

 野村監督が打ち出したのは「4番・トレーシー」。打順を左右交互にするために、栗原選手をあえて4番から外し、トレーシー選手を軸に据えたカープ新打線。シーズン開幕直後こそ、トレーシー選手はセリーグの投手に苦戦していましたが、一通り対戦を終えて、5月に入る頃には一気に打撃の調子を上げ、チャンスの強いバッティングを見せるようになりました。打率も3割を目前にまで迫っていた時期もありました。

 しかし、トレーシー選手にいきなり大きな暗雲が立ち込めました。それが交流戦でした。せっかくセリーグの投手に慣れてきた頃に、今度は対戦したことのないパリーグの投手との対戦。これにはトレーシー選手は大きなドツボにはまってしまったかのように、打率は急降下の一途をたどり、2割5分をも割り込むまでに落ち込みました。

 6月・・・ついにトレーシー選手は2軍に降格となりました。しかし、それは不振だからと言う理由ではなく、股関節痛を発症したことによるものでした。さらにアメリカに帰国して精密検査を受けることに・・・いわゆる典型的な途中退団のパターンとなってしまったのです。もちろん、例に漏れず、トレーシー選手は二度と日本に戻ってくることはなく、故障箇所の完治も思わしくなく、来季の復帰も難しいとの判断からそのまま自由契約となりました。メジャー79発の長打力を期待されながら、日本で放ったホームランは5月12日、甲子園球場で大量ビハインドの展開で放ったライトスタンドへの一発・・・これが最初で最後のホームランとなってしまいました。

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53 林 昌樹(投手)

1979年11月28日生まれ。
静岡・興誠高〜広島(98−11)

2011年に戦力外通告。2012年からは広島の打撃投手に転向
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2001 1 0 0 0 3 3 0 2 6.00
2002 1 0 0 0 1.2 0 2 3 16.20
2003 13 1 0 0 16 7 10 5 2.81
2004 47 1 1 1 45.2 25 37 21 4.14
2005 5 0 0 0 3.2 1 2 3 7.36
2006 61 2 4 0 65.1 32 44 26 3.58
2007 57 3 2 0 48.1 21 28 19 3.54
2008 17 0 0 0 18 6 13 9 4.50
2009 46 0 2 0 48.1 23 27 23 4.28
2010 26 0 1 0 25.2 8 19 17 5.96
2011 2 0 0 0 2.1 0 5 0 0.00
通算 276 7 10 1 278 126 187 128 4.14

 プロで14年間プレーし、276試合に登板した林投手。2004年には47試合、そして2006年には自己最多の61試合に登板すると、その翌年も57試合に登板。生涯成績を振り返ると、1シーズンに40試合以上登板したのは実に4試合に上ります。人生で1度だけ先発がありましたが、それ以外はすべて中継ぎという、リリーフに徹したプロ生活でした。

 1997年のドラフト3位で静岡・興誠高校からカープに入団した林投手。入団当初はオーバースローの投手でした。しかし、2軍でもとにかく制球難で満足な成績が残せない中、2000年のシーズン途中にサイドスローへの転向に挑戦しました。結果としては、この思い切った挑戦が、後の中継ぎの主力投手への道を歩むことになったのです。

 その後は、先ほど紹介したように、2006年には実に61試合に登板するなど、中継ぎ投手として活躍しました。しかし、点差があったり、ランナーがいなかったりといった場面での登板では持ち味の出せるのに、勝負どころでの登板となると打たれてしまう…それが、中継ぎでもセットアッパーなど重要なポジションを担うことが出来なかった1つの要因なのかもしれません。

 さらに追い打ちをかけるように、カープには林投手と同じようなサイドスロー投手が台頭してきました。2005年には梅津投手、2006年には青木勇人投手(現カープ軍コーチ)…彼らの加入、そして梅津投手がセットアッパーにまで成長するなどの中で、林投手は徐々にその活躍の場を失ってしまいました。

 2003年10月12日、ヤクルト戦の9回に登板し、古田選手を内野ゴロに抑えたことで、ラッキーなプロ初勝利。そのときの球数は何と1球。1球でプロ初勝利は史上3人目のことでした。そして、2006年6月24日の横浜戦では、登板直後、いきなり初球に死球…これで敗戦投手となりました。当時史上18人目の1球敗戦投手となったのです。両方を記録したのは当時史上2人目…林投手には、この「1球」がプロ野球人生で大きなキーワードとなりました。

  2003年10月12日、ヤクルト戦の9回に登板し、古田選手を内野ゴロに抑えたことで、ラッキーなプロ初勝利。そのときの球数は何と1球。1球でプロ初勝利は史上3人目のことでした。そして、2006年6月24日の横浜戦では、登板直後、いきなり初球に死球…これで敗戦投手となりました。当時史上18人目の1球敗戦投手となったのです。両方を記録したのは当時史上2人目…林投手には、この「1球」がプロ野球人生で大きなキーワードとなりました。

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54 宮崎充登(投手)

1978年9月6日生まれ。
和歌山・智弁和歌山高〜ホンダ鈴鹿〜広島(07−11)

2011年に戦力外通告。球界を引退へ
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2007 31 3 5 0 722 31 45 39 4.83
2008 12 1 6 0 47 31 21 36 6.89
通算 43 4 11 0 119.2 62 66 75 5.64

 プロ入団時には28歳。しかも、あの高橋建投手以来の「子連れルーキー」としても注目を集め、さらに、当時のカープの監督であったマーティー・ブラウン氏が掲げたパワーアームの急先鋒としても期待をされた右腕。そのストレートはMAX154キロを計時するなど、社会人を経て、しかもフォームをサイドの転向してからというもの、コントロールの精度も高まったことを受けて、カープが希望枠で獲得した投手でもありました。

 28歳という年齢・・・それだけに、1年目から先発ローテーションとして、ある程度の勝ち星を期待してはいたのですが…。プロの世界では、球速があれば抑えられるというものではありませんでした。コントロールもプロの世界では見極められ、そして何よりも、ストレートと高速スライダーを武器にしていた宮崎投手にとっては、せっかくのストレートも、高速スライダーとの組み合わせではそれほどの緩急が付けられないことで、相手打線に打ち込まれてしまうこととなってしまったのです。

 そこで、宮崎投手はフォークの習得を目指しました。そしてコントロールを重視した投球にモデルチェンジしようとしましたが、本来のストレートの球威は落ちてしまった反面で、フォークは威力を発揮せず、肝心のコントロールが上がったわけでもない・・・このような状況では、なかなか1軍で活躍するのは難しいという事態になってしまいました。

 ルーキーイヤーこそ3勝を挙げましたが、2年目は登板試合数も3分の1程度に減り、勝ち星はピッタリ3分の1の1勝どまり。2009年以降は1軍に昇格しても、投げる機会すら与えられるずに2軍に降格したことが1度あったきりで、ほとんどを2軍で生活することになってしまいました。2011年の春季キャンプでは、キャンプ後半に1度だけ1軍の紅白戦に呼ばれたことはありましたが、結果を残すことは出来ず・・・。これが宮崎投手に与えられた最後のチャンスだったのでしょう。

 2011年のシーズンオフに宮崎投手は戦力外通告を受けました。背番号16は剥奪され、54に変わり、そして戦力外通告・・・。良くあること、そして読めた流れであることは間違いありませんが、せっかくのパワーアームも1軍では151キロの速球を1度投げ込んだだけで終わってしまったことは残念でなりません。球界からの引退も決め、家族のために第2の人生をスタートさせることでしょう。

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57 川口盛外(投手)

1985年8月15日生まれ。
静岡・静岡高〜早稲田大〜王子製紙〜広島(10〜11)

2011年に戦力外通告。

 準硬式野球出身・・・カープが2009年のドラフトで隠し球的な存在として、ドラフト6位指名した左腕、それが川口投手でした。プロ入りは25歳、遅れてきた異色の経歴のルーキーではありましたが、即戦力左腕として期待を集めました。

 高校時代は静岡高校のエースとして、連投も辞さずに投げまくり、その代償が肩痛という形になって現れてしまいました。早稲田大進学後は、準硬式野球部に所属し、リーグでは通算34勝をマークし、準硬式ながらもプロから注目される左腕となりました。この時点で、すでにカープは育成選手としての指名を打診していたといいます。

 しかし、社会人・王子製紙入りが決まっていたこともあり、そちらに進むと、エース格の働きで、優秀選手賞も受賞するほどでした。MAX143キロの威力あるストレートが武器の左腕・・・25歳の即戦力として、1年目の沖縄キャンプでは野茂臨時コーチの前で気迫に満ちた投球を見せました。その炎のストレートにますます期待は膨らみました。

 1年目のオープン戦で登板した川口投手。練習試合で見せた気迫とは裏腹に、その球場の雰囲気に飲まれてしまったのか、コントロールも定まらず、さらにはプロの洗礼を浴び、1回2失点・・・。これを機に川口投手は1軍メンバーから外れ、2軍で鍛錬の日々を過ごすことになりました。思えば、1軍メンバーとして出場した試合は、これが最後になったわけです。

 1年目はそこそこの成績を残しましたが、1軍からのお呼びはかからず、2年目は疲労骨折などの影響もあって登板数はわずかに7。ストレートの球威もなく、さらにコントロールもアバウト・・・これではプロの世界ではなかなか相手を打ち取れませんでした。オフに戦力外通告を受け、わずか2年のプロ生活となった川口投手。球団職員への道を断り、トライアウトを受けることになりましたが、果たして新天地を見つけることが出来るのか。気迫こもった投球をまた新しい場所で見せてほしいと思います。

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70 マイク・シュルツ(投手)

1979年11月28日生まれ。
ロヨラ・メリーマウント大〜ダイヤモンドバックス(07)〜広島(08−11)

2011年に戦力外通告。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 55 3 4 0 53 20 43 19 3.23
2009 73 5 3 1 75 22 72 19 2.28
2010 11 0 1 7 10.1 2 8 4 3.48
2011 19 0 0 0 17 12 7 2 1.06
通算 158 8 8 8 155.1 55 130 44 2.55

シュルツ投手がカープに入団した2008年…それは黒田投手、新井選手という投打の柱が一気にチームから去るという緊急事態でもありました。それもあって、球団はスコット・シーボル選手、コルビー・ルイス投手、ベン・コズロースキー投手ともに獲得したのがシュルツ投手でした。一気に助っ人を4人獲得する…それは球団史上でも類を見ないほどの補強策でもありました。

 しかし、シュルツ投手はその中でも1年目から活躍する期待度は低かったのではないでしょうか。大リーグでの経験はわずか1試合のみ、剛速球はあってもコントロールに課題がある…それは年俸だけでなく、当時獲得した4人の助っ人の中で最も大きい背番号「70」にも現れていたように感じます。

 1年目。いきなり春季キャンプ中に右肩痛に見舞われます。実は、右肩はシュルツ投手にとっては何度となくメスを入れた場所。この報道を聞いたときは、登板することなく帰国して、そのまま終わってしまうのではないか…そう思いました。まさか、このシュルツ投手が4人の助っ人の中で、最後までカープで活躍してくれるとは思いませんでした。

 なんせ、201cmの長身から150キロ中盤の速球を投げ込むわけです。150キロ台のストレートは日本でもありますが、それを201cmから投げ下ろされる…しかも前評判よりも、コントロールもまずまずだったとなれば、鬼に金棒といったところでした。それにより、2008年には55試合に登板すると、2009年には73試合に登板し、防御率2.25と中継ぎとして抜群の安定感を見せました。

 2010年には守護神・永川投手の不振も受けて、守護神としてセーブを積み重ねる活躍を見せたのですが…。シュルツ投手にとって、投手としてのピンチを迎えることになってしまったのです。腰椎椎間板ヘルニア…これにより帰国、そして手術を余儀なくされました。

 2011年。術後の回復ぶりが認められ、カープと4年目の契約を結びます。しかし、かつての150キロ台をバンバン投げ込むシュルツ投手の姿はそこにはありませんでした。ストレートは140キロ台前半、変化球で交わそうとする投球。手術によって、投球のスタイルすらも変わってしまい、このシーズンは多くを2軍で暮らすことになりました。1軍でも19試合い登板し、防御率は1.06ではあったものの、17イニングを投げて22被安打、12個の四死球…正直、この内容で防御率がこの数字であるのが不思議なくらいでもありました。

 それにしても、驚くべきはこの4年間でシュルツ投手が打たれたホームランはわずかに2本。2008年7月10日に中日・ウッズ選手、2011年5月17日に福岡ソフトバンク・松田選手にホームランを浴びただけ。中継ぎにとって最も怖いのがホームラン。それを日本で通算155.1イニング投げて、わずか2本に抑えたわけですから、これは中継ぎの鑑といえる数字です。

 4年にもわたって、カープに在籍したシュルツ投手。2011年オフに自由契約となってしまいました。日本の生活にもすっかり溶け込み、カープでも大活躍してくれただけに、いなくなってしまうのは寂しい限りです。

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91 ジオ・アルバラード(投手)

1978年1月24日生まれ。
ホセ・パブロ・アビラ高〜パイレーツ(95−01)〜ブリュワーズ(02)〜
タイガース(03)〜台湾・誠泰(04)〜レッズ(05−06)〜エンゼルス(08)〜
台湾・統一(08)〜広島(10−11)〜横浜DeNA(12)

2011年に戦力外通告。横浜DeNAへ移籍
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 20 8 8 0 119.1 44 97 54 4.07
2011 18 3 7 0 99.1 41 88 30 2.72
通算 38 11 15 0 218.2 62 185 84 3.46

 大リーグで登板した経験こそないものの、台湾球界の経験があり、アジアいシリーズに出場した際は、日本代表の埼玉西武を相手に好投を披露したアルバラード投手。サード方向へインステップする独特の投球フォームに注目し、2010年の新助っ人としてカープが獲得しました。ジャンカルロ・アルバラード投手・・・その名前の長さから、ニックネームとして「ジオ」投手と名づけられました。

 しかし、2010年のシーズンが始まった直後のジオ投手は、日本野球への適応に苦しみました。日本旧開発のマウンドとなったのは2010年シーズンの開幕2戦目のことでした。中日を相手に5回まで無失点に押さえながらも、6回に途端に崩れてしまい4失点・・・。これでマウンドを下りることになったのですが、その後も調子が上がらず2軍に降格。そして再び1軍に昇格した直後、6月7日のオリックス戦では4回までに8失点。試合も10対21という記録的敗戦を喫してしまいました。

 ところが、正念場に立たされた6月13日の埼玉西部戦で嬉しい来日初勝利を手にすると、そこからジオ投手の真骨頂を見せてくれたのです。とりわけ、プエルトリコ出身ということもあってか、夏場に抜群の強さを見せました。通常は夏場にばてる選手が多い中で、チームとしても夏場に弱点がありました。しかし、ジオ投手は夏場にこそ調子を上げ、自身5連勝を飾るなど、その安定感は当時のマエケンをしのぐほどになり、結果的にマエケンに次ぐシーズン8勝をマークしました。

 2010年には新助っ人を3人獲得したカープでしたが、翌2011年もカープでプレーしたのは、結果的にジオ投手のみ。しかし、来日2年目は外国人枠の兼ね合いから、なかなか1軍に昇格できない日々が続きました。ところがシーズン中盤以降には先発ローテーションの一角に入り、18試合に登板し、勝ち星こそ3勝にとどまりましたが、防御率は1年目をはるかに上回る内容を残しました。

 しかし、そのシーズンオフにカープが出した結論は自由契約。費用対効果の面を考えると、年俸の割に勝ち星が少ないこと、そして翌年も助っ人枠の関係から、1軍に昇格するチャンスが限られてくることなどの理由でした。ここ一番で選手の層が薄くなったときに、その穴をカバーしてくれる存在としても、そして夏場を力に変えられる逞しさも兼ね備えていただけに、この自由契約は非常に残念な選択だったように感じました。

 2012年からは横浜DeNAでプレーすることになったジオ投手。日本球界でのプレーを希望していたジオ投手にとっては、最高の結果となりました。昨日の友は今日の敵・・・相手も自分たちの手の内を知っているますが、逆も真なり。手ごわい相手になりますが、ジオ投手・・・くれぐれもお手柔らかにお願いします。

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99 ディオーニ・ソリアーノ(投手)

1982年12月30日生まれ。
セントラル・デル・エステ大〜広東レオパーズ(06)〜
四国九州アイランドリーグ(07−09)〜広島(09−11)

2011年に大リーグ挑戦の意思から戦力外通告。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 10 2 3 0 46 19 27 22 4.30
2011 8 1 1 0 24.2 10 12 10 3.65
通算 18 3 4 0 70.2 29 39 32 4.08

 ドミニカカープアカデミーから、中国野球リーグや四国アイランドリーグなどに派遣されながらも実戦経験を積んできたソリアーノ投手。2006年からの派遣生活という長い下積みを経て、2009年のシーズン途中でカープと育成選手契約を結び、左腕から繰り出す速球と2軍でのまずまずの安定感によって、2010年5月に待望の支配下登録を勝ち取りました。長い下積みの結果がようやく実ったのです。

 そんなソリアーノ投手が1軍の舞台でついに初勝利を挙げたのが2010年10月1日の阪神戦でした。相手は「これで負けると優勝の可能性が消える」という土俵際の局面で、しかも先発は当時高卒ルーキーの秋山投手。浮き足立つ相手の前に、打線は着々と得点を重ね、ソリアーノ投手もコントロールが乱れながらも、相手が打ち損じてくれたりで、あれよあれよとプロ初勝利を完封で飾りました。シーズン終盤に2勝を挙げたソリアーノ投手は、更なる飛躍が期待されました。

 しかし、支配下2年目となったソリアーノ投手は開幕こそ1軍入りを果たしますが、助っ人枠の兼ね合いでなかなかマウンドに立つことができず、しかもシーズン中盤からは中継ぎでの起用もあったりで、調子を上げられないまま、シーズンを終えました。チームとしては契約更新の考えがあったようですが、大リーグへの挑戦の意志が強いようで、オフに戦力外通告を受けるにいたったのです。

 コントロールに課題が残ったソリアーノ投手。しかし、150キロを超えるストレートには非常に魅力がありました。先発も出来るスタミナも十分であるだけに、カープ先発陣に万が一の戦力不足が生じた際のバックアップとしても起用できた…そう思える投手であっただけに、アメリカへの挑戦は残念な思いでいっぱいであるとともに、「またか・・・」とドミニカアカデミーの存在意義を考えずに入られません。

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123 松田翔太(投手)

1990年5月17日生まれ。
石川・金沢学院東高〜広島(09〜11)

2011年に戦力外通告。

 2008年のカープの入団テストに参加した松田投手。当時、金沢学院東高校のエースだった松田投手は、プロへの門を切り開きたく、3球団の入団テストを行いました。その中の1つがカープだったのですが、結果は不合格…。しかし、その投球に投手としてのセンスの高さを感じたことで、その年のドラフト会議で育成選手として指名されました。

 180センチを超える長身でありながら、70キロを下回る細身の体型。とてもプロの投手とは思えない体格ではありましたが、それでも140キロを超える速球に、パームボールも操る技巧的な左腕ではありましたが、そのボールをコントロールする制球力には課題がありました。

 1年目となる2009年は2軍で10試合に登板し、防御率は7.15。11.1イニングを投げて、与えた四死球は11。1イニングに1度は四死球を出す計算となります。しかし、2年目には防御率が5.23、3年目には4.09と、数字上では良くなっているものの、内容自体は育成4年目の契約を結びたくなるほどのインパクトはなかったのでしょう。育成3年目にして、オフに自由契約となりました。

 その後、トライアウトを2度受験しました。本来、オーバースローでもサイドスローでも、さらにはアンダースローでも投げられる器用さを武器に、トライアウトでも打者からどんどん三振を奪う投球を見せたようですが、そのアピールは残念ながら届くことはありませんでした。プロとして大成したい…その気持ちの強かった投手だけに、どこかで芽を出してくるのではないか、そう期待したいと思います。

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140 ウィルフィレーセル・ゲレロ(投手)

1986年10月17日生まれ。
アリドパウリノ中高〜広島(10〜11)

2011年に戦力外通告。
 ソリアーノ投手に続くことは出来ませんでした…。

 ドミニカにあるカープアカデミーから2008年に来日し、その後、当時の四国九州アイランドリーグの長崎セインツ(現消滅)に派遣されました。翌年には徳島インディゴソックスに派遣され、防御率1.69という数字で最優秀防御率のタイトルも獲得しました。その成長が認められ、2010年に育成選手契約を結んだことで、正式にカープの一員となったのです。

 確かに球威があり、投手としての素質は素晴らしいものがあったようです。しかし、それはあくまでもダイヤモンドの原石であり、それを光らせることは出来ませんでした。球威は良くとも、コントロールには課題があり、また投手としての守備にも課題が山積していたようです。

 1年目こそ14試合に登板し、2勝3敗、防御率3.35の成績を残しましたが、43イニングに対して31個の四死球…。やはり数字の上からもコントロールのなさがうかがえます。さらに支配下登録を目指した2011年も41回と3分の1を投げて、32個の四死球。四死球が命取りとなり失点を喫することもしばしば…。

 球威が勝って相手打線を抑えることもありましたが、やはり細かなコントロールがないと、その好調も持続することはなく、安定感を欠いてしまったようです。2軍でもシーズン終盤にはまったく登板の機会すらなくなったゲレロ投手。課題を克服できないまま、チームを去ることになってしまいました。

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