あなたを忘れない〜2007年度版〜

 ※表示している成績は広島での成績、通算は広島在籍時のみの生涯成績です。

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11 小山田保裕(投手)

1976年7月27日生まれ。
茨城・土浦日大高〜城西大〜広島(1998年ドラフト5位)

2007年オフに横浜・岸本投手、木村選手との交換トレードで横浜へ遺跡。。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1999 28 1 0 0 36 1/3 24 31 15 3.72
2000 23 1 3 2 15 2/3 7 6 12 6.89
2001 27 0 1 5 29 2/3 14 21 6 1.82
2002 44 2 1 30 43 14 33 13 2.72
2003 23 2 1 0 23 1/3 10 15 11 4.24
2004 21 4 3 0 91 1/3 34 60 32 3.15
2005 18 6 11 0 115 2/3 42 86 60 4.67
2006 18 0 0 0 15 9 17 9 5.40
2007 3 0 1 0 12 8 9 11 8.25
通算 205 16 21 37 382 162 278 169 3.98

 2007年11月28日、小山田投手がトレード要員になっているとの情報がありました。相手は横浜で1対複数のトレードになるとのことでした。そして翌日29日、そのトレードが発表されました。横浜・岸本秀樹投手と木村昇吾内野手との1対2の交換トレードというものでした。このトレードは抑え投手不在に悩む横浜が、実績のある小山田投手に白羽の矢を立てたものでした。

 そんな小山田投手は城西大からドラフト5位で広島に入団しました。当初はオーバースローだった投球フォームを、請求を安定させるためサイドスローに転向しました。それでも150キロを超える速球を維持し、相手打者にとっては打ちづらいだろうと思われる投球スタイルとなり、1年目から28試合に登板し、プロ初勝利も手にしました。

 小山田投手のまず第1の転機は2002年だったのではないでしょうか。前年に5セーブを挙げると、この年、一気に守護神の座を獲得しました。44試合に投げ、当時は球団シーズン最多セーブ記録となる30セーブを挙げました。ただ、課題は毎回のようにシーズンの中盤以降になると息切れしてしまうということでした。翌年にはその疲れが残っていたのか、一つのセーブをあげることも出来ず、逆に守護神の座を当時のルーキーであった永川投手に譲ってしまいました。

 しかし、第2の転機を迎えた小山田投手。2004年の終盤からは先発に転向し4勝を挙げ、翌シーズンも先発ローテーションの一角として、2つの完封勝利など、黒田投手に並ぶ2枚看板として活躍しました。ところが、やはり中盤以降に失速・・・1年間、ローテーションを守り抜くことが出来ず、6勝したものの11敗を喫してしまいました。

 2005年シーズン途中に発症した右肩痛。これが小山田投手を悩ませました。これとともに成績は急降下・・・。150キロを超えていた自慢の速球も影を潜めてしまいました。それでも変化球を駆使した技巧的な投球を目指しましたが、なかなか結果を残すことが出来ないまま。2007年には2その先発機会がありましたが、4回8失点を喫するなど苦しい投球内容となり、信頼回復を果たすことは出来ませんでした。

 そして先述のとおり、横浜への移籍が決まりました。横浜では抑えとしての役割を期待されているようです。全盛期の速球は影を潜めていますが、抑えの経験があるだけに、もう一度再起を目指して。まだまだふくっかつが十分出来る投手だと思っていますので、ぜひ頑張ってほしいですね。

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14 梅原伸亮(投手)

1983年9月13日生まれ。
大阪・金光大阪高〜京都学園大〜広島(2005年ドラフト4位)

2007年オフに戦力外通告。四国IL・徳島に入団決定
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 3 0 0 0 1・1/3 1 0 1 6.75
通算 3 0 0 0 1・1/3 1 0 1 6.75

 京都学園大という中央球界では無名の大学にもかかわらず、各球団のスカウト陣が注目し、カープがドラフト指名を行った梅原投手。その最大のアピールポイントはMAX149キロの威力抜群のストレートもさることながら、オーバースローの投手には非常に珍しいシンカーの使い手であったこと。これで京都学園大時代にはノーヒットノーランも記録しました。大学2年までトルネード投法のフォームだったのですが、オーバスローに転向したことによる効果は絶大でした。

 プロでは速球派の投手として期待を集めましたが、ルーキーイヤーのキャンプ中に右肩を故障し、いきなり出鼻をくじかれてしまいました。これによる自慢の速球も完全に影を潜めてしまいました。それでも2軍ではまずまずの投球でアピールし、シーズン終盤にようやく1軍に昇格しましたが、わずか3試合の登板に終わってしまいました。プロ初登板ではアウトを奪いはしたものの、とにかく打たれた打球は痛烈な当たりばかり・・・。打球の方向によってはすべてヒットになってもおかしくなく、たまたまアウトになった・・・という感じのひやひやの投球でした。

 2年目。良い頃のフォームを取り戻せない日々が続き、2軍でもわずか4試合の登板に終わりました。大学時代は150キロに迫ろうかというストレートの持ち主だったにもかかわらず、この年のシーズン終盤は140キロもやっとという状況・・・。自分の投球を披露することができないまま、わずか2年でまさかの解雇となってしまいました。大学から入団してわずか2年で解雇というのは、過去のカープの歴史を振り返っても珍しいのではないでしょうか。

 今でもプロ続行を希望している梅原投手はトライアウトにも挑戦していますが、結果が実を結ぶことはありませんでした。そして四国アイランドリーグ・徳島インディゴソックスに入団が決まりました。まだまだ24歳。これでプロを終わらせたくないという気持ちも分かります。新しいユニフォームに袖が通せる日が来ることを祈っています。

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15 黒田博樹(投手)

1975年2月10日生まれ。
大阪・上宮高〜専修大〜
広島(1996年ドラフト2位)〜ロサンゼルス・ドジャース(2008)

2007年オフにFA行使し、米大リーグ・ロサンゼルスドジャースへ
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1997 23 6 9 0 135 67 64 66 4.40
1998 18 1 4 0 45 25 25 33 6.60
1999 21 5 8 0 87 2/3 42 55 66 6.78
2000 29 9 6 0 144 62 116 69 4.31
2001 27 12 8 0 190 53 146 64 3.03
2002 23 10 10 0 164 1/3 35 144 67 3.67
2003 28 13 9 0 205 2/3 48 137 71 3.11
2004 21 7 9 0 147 31 138 76 4.65
2005 29 15 12 0 212 2/3 49 165 75 3.17
2006 26 13 6 1 189 1/3 28 144 39 1.85
2007 26 12 8 0 179 2/3 47 123 71 3.56
通算 271 103 89 1 1700 1/3 487 1257 697 3.69

 エース・黒田投手。カープの投手陣、いやチームを支えた絶対的存在だった黒田投手がチームを離れ、大リーグに挑戦することが決まりました。

 そんな黒田投手は1996年に広島に入団。当時は球に威力があるものの荒削りな印象のある投手でした。ルーキーイヤーから規定投球回数に達し、6勝を挙げるほどの活躍を見せましたが、同期の沢崎投手(現広島投手コーチ)が新人王を獲得したこともあり、なかなか目立たない存在でもありました。

 しかし黒田投手の転機となったのは、1999年に就任した達川監督からではないでしょうか。先発投手事情がかなり厳しかったその年、先発の軸としての成長を期待されたのが黒田投手でした。しかし1999年はわずか5勝と結果を残せませんでしたが、翌2000年には、自身最多の9勝を挙げ、リーグの完投王に輝きました。ここから黒田投手がカープの絶対的なエースになる道程の始まり、そして「ミスター完投」という代名詞がつくほどの投手となったのです。

 2001年には自身初の二桁勝利である12勝を挙げ、以降、3年連続で2桁勝利を挙げました。2005年には15勝を挙げ、初のタイトルとなる最多勝を受賞しました。その間も5度にわたる完投王に輝くなど、「ミスター完投」はより光を放ちました。2006年にはマーティー・ブラウン監督が就任し、球数制限のある中での登板が続いたこともあり、完投数は減ってしまいましたが、少ない球数でも相手を抑える省エネ投球。アメリカ式の野球にも見事に適応し、防御率も脅威の1.85という数字を残し、最優秀防御率のタイトルを受賞しました。

 その年のオフ、FA騒動が巻き起こりましたが、結果的にはFA宣言せずに残留という道を選びました。「カープのユニフォームを着た選手と対戦する自分の姿が想像できない」・・・その残留コメントに感謝の涙を流したファンも多かったことでしょう。オフに右ひじのクリーニング手術を行った2007年シーズンも12勝を挙げ、3年間で40勝を挙げ、絶対的なエースとして君臨しました。

 しかしその反面で残念だったのは、黒田投手に続く先発投手が伸び悩んでいたこと。黒田投手におんぶに抱っこのような状態が続いてしまったことで、黒田投手の右肩にチームの連敗ストップを期待する・・・というケースも多々ありました。その中でも勝ち続けた黒田投手の精神力の強さ・・・それは一言では言い表せません。

 2007年オフ、黒田投手はFA宣言し、大リーグへ挑戦することとなりました。チームはロサンゼルス・ドジャース。野茂投手や斉藤隆投手といった日本人選手も活躍した球団。カリフォルニアの暖かい土地で、カープ初の大リーグ選手としてのスタートを切ります。黒田投手の活躍、期待しています。そして広島にいる大竹投手を始めとした投手陣、もう黒田投手には頼れないのだから、ここで奮起してほしいところです。

 黒田投手は最後は日本のマウンドで投げたい、そしてカープのユニフォーム以外のユニフォームを着ることは考えられないと語っています。大リーグで活躍し、またカープのユニフォームに袖を通す日が来ることを祈って。まずは大リーグの舞台で、一層躍動できるよう、応援しています。

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18 佐々岡真司(投手)

1967年8月26日生まれ。
島根・浜田商高〜NTT中国〜広島(1989年ドラフト1位)

2007年シーズンをもって引退。RCC中国放送野球解説者に転身。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1990 44 13 11 17 151 1/3 59 129 53 3.15
1991 33 17 9 0 240 77 213 65 2.44
1992 29 12 8 0 197 64 161 74 3.38
1993 30 5 17 0 183 63 124 88 4.33
1994 41 7 9 6 130 2/3 31 93 48 3.31
1995 44 7 7 17 127 44 110 43 3.05
1996 49 5 7 23 69 17 71 13 1.70
1997 39 5 5 21 57 2/3 22 64 17 2.65
1998 29 5 11 6 121 28 96 51 3.79
1999 26 15 8 0 190 47 150 69 3.27
2000 21 10 6 0 142 2/3 30 94 63 3.97
2001 32 7 10 7 140 1/3 34 92 56 3.59
2002 25 8 9 0 153 2/3 33 127 59 3.46
2003 29 8 8 6 110 1/3 30 81 60 4.89
2004 30 3 7 3 81 1/3 20 61 35 3.87
2005 30 1 6 0 54 19 37 38 6.33
2006 27 8 8 0 149 2/3 34 82 68 4.09
2007 12 2 7 0 45 2/3 9 21 33 6.50
通算 570 138 153 106 2344 1/3 651 1806 933 3.58

 もはや、いまさら経歴を語るまでもないだろう、カープを支えた功労者。カープ一筋の野球人生を歩んできたかつてのエースが、ついにユニフォームを脱ぐこととなりました。そして、これで1991年のカープ優勝の経験者がまた一人、チームを去ることに・・・。

 1990年、先発に中継ぎにとフル回転で13勝11敗17Sという輝かしいスタートを切った佐々岡投手。新人王は惜しくも与田剛投手(中日)に奪われましたが、2年目は先発として17勝を挙げ最多勝に輝き、2007年現在、カープ最後の優勝に大きく貢献し、MVPも受賞しました。

 その後、1995年からは主に守護神として活躍しましたが、当時は150キロを越える速球にかげりが見え始めた1999年。ゆるいカーブを有効に使った技巧的な投球で15勝を挙げ、先発陣の柱として復活しました。その後もベテランらしい技巧派の投球で、エースを黒田投手に譲りながらも、勝ち星を積み重ねていきました。2005年には1勝のみに終わり引退もささやかれましたが、2006年にはチームで唯一、1シーズン先発ローテーションを守り抜き、8勝を挙げ復活を果たしました。しかし、2007年に2勝に終わり、40歳をもって現役を退きました。

 背番号と同じ18年間のプロ野球人生ですが、その他にも輝かしい功績を残しています。1999年5月8日の中日戦では、カープでは1965年・68年の2度達成した外木場義郎氏、1971年に達成した藤本和宏投手以来、史上3人目のノーヒットノーランを達成。その後も2000年にはプロ通算100勝をマークし、2003年にはカープでは大野豊氏に次ぎ2人目、プロ野球史上6人目の100勝100Sを達成すると、2006年5月4日にはプロ野球史上でも江夏豊氏しかいなかった先発100勝100Sの偉業も達成しました。

 2007年10月6日横浜戦。佐々岡投手が最後のマウンドに上がりました。9回2死、相手打者は村田選手。高めに浮いた球を振りぬいた村田選手の当たりは左中間スタンドへ・・・。静まる球場。でも、そのあと佐々岡投手は謝りに来た村田選手に「ありがとう」と声をかけたそうです。村田選手は涙ながらにそれに答えた・・・佐々岡投手はカープだけでなく、プロ野球の選手たちにも人望が厚かったことを思わせるワンシーンでした。

 翌日は神宮球場で古田選手の引退試合で驚きの最終登板を果たした佐々岡投手。古田選手をシュートゴロに抑えました。アマチュア試合に全日本のユニフォームを着た仲。年齢的には古田選手の方が上ですが、長い野球人生を歩み、何度も投手と打者として相まみえた両者が繰り広げた最後の勝負。忘れることは出来ないでしょう。

 そんな佐々岡投手の広島市民球場での引退試合でのメッセージ。一部を抜粋すると・・・

 「子どもの頃から野球が好きで、カープが好きで、いつも赤い帽子をかぶって野球をしていました。夢であったカープのユニフォームを着ることが出来、そして今日までこのユニフォームをこれて本当に幸せな男です。
 こうやって18年間、このマウンドに立てたのも自分を支えてくれた周りの皆さんのおかげです。松田オーナーをはじめ、球団関係者、スタッフに感謝、今まで一緒に戦ってくれた仲間に感謝、丈夫な体に産んでくれた母に感謝、ずっと支えてくれた優子(夫人)、奨悟、みほ(お子さん)、家族に感謝。そして何より自分を応援してくれたファンの皆さんに感謝。感謝の気持ちでいっぱいです。
 最後にファンの皆さんにお願いがあります。来年、カープが優勝するにはファンの皆さんが、声援が必要です。今日みたいに真っ赤に染めて応援してやってください。18年、応援ありがとうございました。」

 2008年、ユニフォームを脱いだ佐々岡投手は、地元RCC中国放送の野球解説者として新たな人生をスタートさせます。もちろん、将来的にはコーチや監督として、再び別の背番号のユニフォームを着る日が来るのではないかと思っています。

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21 ショーン・ダグラス(投手)

1979年4月28日生まれ。
アンテロープバレー高〜オリオールズ〜ブルージェイズ〜タイガース〜
インディアンス〜広島(2006)

2007年シーズンオフに自由契約。米球界復帰へ
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 20 9 6 0 97 2/3 36 71 37 3.41
通算 20 9 6 0 97 2/3 36 71 37 3.41

 マーティー政権の1年目。黒田投手に次ぐ2枚看板として期待され、入団したのがショーンダグラス投手でした。198cmという長身と150キロ近いストレート、さらにはカットボールなど多彩な変化球が武器の投手で、2005年にはデトロイト・タイガースで5勝を挙げルナ度、大リーグ通算7勝を挙げました。入団時の年齢は26歳と、新外国人選手にしては若く、将来性も十分の右腕として大きく期待されました。

 そんなダグラス投手の1年目は順風満帆の船出となりました。とにかく打たれても、それ以上に打線が踏ん張り、もちろんダグラス投手自身も比較的安定感のある投球を披露しました。先発としては完投能力があるわけではなかったものの、6回を2〜3失点に抑えるなど、先発投手としてはまずまずの投球内容で、それでも中継ぎ以降の踏ん張りもあって、勝ち星をどんどん積み重ねていきました。勝ち運の強い投手・・・そんなイメージのある投手でした。一時はハーラーダービーのトップに立つなど、シーズン序盤だけで9勝を荒稼ぎし、倉田投手とともに2枚看板となっていたダグラス投手でしたが・・・。

 その年の6月下旬から右ひじに痛みを覚え、2軍に降格してしまいました。その後、チームは2枚看板のうちの1枚を失ったことによる影響は大きなもので、特にシーズン終盤に黒田投手も離脱した際には、チームは大きな連敗にあえぐ形となってしまいました。

 2006年のチーム採取戦で先発したダグラス投手。2回1失点ながら、順調な回復を思わせ、来季こそはフルに活躍してくれるだろうと思われた、2007年。キャンプも目前に迫った時期になって、来日は延期。それは右ひじの精密検査を受けるためというものでした。オフの期間は十分にあったはずなのに、なぜキャンプ目前で・・・それは球団にとっても不信感に繋がったはずです。

 その後、チームに合流したダグラス投手でしたが、今度は足を痛め、また戦線離脱し、リハビリの日々・・・。結局、1軍はおろか、1軍でも登板することなく2007年を終了し、それとともにチームはダグラス投手を自由契約としました。

 2008年の春季キャンプでテスト生としてダグラス投手が参加する可能性を示唆していましたが、結局、ヒジの具合がまだ完全ではないということで、テストは見送られたそうです。2008年からは米球界に復帰するということで、大リーグでの新たなスタートを期待しています。

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25 新井貴浩(内野手)

1977年1月30日生まれ。
広島・広島工高〜駒沢大〜広島(1998年6位)〜阪神(2008)

2007年オフにFA宣言し、阪神へ移籍
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1999 53 95 21 14 7 9 31 1 2 .221
2000 92 208 51 35 16 23 54 3 5 .245
2001 124 313 89 56 18 39 86 2 9 .284
2002 140 512 147 75 28 44 124 1 17 .287
2003 137 488 115 62 19 45 120 2 6 .236
2004 103 262 69 36 10 31 55 3 6 .263
2005 142 541 165 94 43 42 126 3 23 .305
2006 146 566 169 100 25 36 117 1 19 .299
2007 144 556 161 102 28 56 136 1 12 .290
通算 1081 3541 987 574 194 849 849 17 99 .279

 1998年のドラフト。駒大時代は大学通算わずか2本塁打、しかも周囲からも「打てない、守れない・・・」とまで揶揄されるほど、けして目立つ選手ではなかったようです。ドラフト会議の席上でも、新井選手の指名はどよめきが起きたといわれています。ドラフト6位という順位ではありましたが、広島市出身の長距離砲として、球団の期待は大きかったようです。

 「空に向かって打て」

 この言葉が新井選手のモットー。持ち前の長打力をプロの世界でも如何なく発揮して、本塁打を量産できる選手に・・・。その目標は1年目から、将来、同じ広島出身でミスター赤ヘルと言われ、ライト方向へも伸びていく打球を放っていた山本浩二選手のような選手になれる、そう思わせるような素質を見せてくれました。いきなりの7本塁打。大学時代でも2本しか打ったことなかった本塁打を、1年目から軽く超えてしまいました。

 2003年、師と慕う金本選手がFAで阪神に移籍した後の4番を任された新井選手。しかし、開幕から極度の不振に陥り、規定打席に達しながらも打率2割3分6厘・・・その4番の重圧からか、最低の成績に終わってしまいました。その後、鹿児島県の寺院で護摩行を行い、精神鍛錬も行いながら、自身の打撃技術も伸ばしていきました。

 真の4番へ。2005年には4番に定着し、自身初のシーズン打率3割台、そして43本塁打を放ち、本塁打王という自身初のタイトルにも輝きました。そして2006年からは2年連続で100打点を超え、勝負強さも発揮するようになりました。一方の守備でも、2005年にはリーグ最低の23失策を記録し、相変わらずの守備の脆さを感じさせましたが、2007年にはそのエラーはおよそ半減。好守備を見せるようにもなりました。

 しかし2007年オフ、「環境を変え、野球人として前に進みたかったから・・・」涙の記者会見で、カープとの決別を宣言し、師と仰ぐ金本選手のいる阪神へ。金本選手、新井選手とカープの4番を張った選手が二人とも阪神に行ってしまうのは辛いのですが、是が非でもカープには新井選手にFAを後悔させるような戦いをしてほしいところです。これを発奮材料にして、燃えよ!カープ!!

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27 木村一喜(捕手)

1977年10月5日生まれ。
山梨・帝京三高〜日本通運〜広島(1999年逆指名)〜東北楽天(2008)

2007年オフに戦力外通告、トライアウトで東北楽天入団決定
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2000 28 40 9 2 0 4 8 0 2 .225
2001 39 72 17 4 0 6 14 0 0 .236
2002 109 264 83 28 5 21 38 0 4 .314
2003 76 113 30 20 0 3 19 0 2 .265
2004 35 41 6 2 0 4 6 0 0 .146
2005 27 31 7 3 1 3 6 0 0 .226
2006 8 11 1 0 0 0 2 0 0 .091
2007 4 5 0 0 0 0 1 0 0 .000
通算 326 577 153 59 6 59 94 0 8 .265

 1999年、日本通運から逆指名で広島に入団した木村選手。当時の評価としては強肩、強打でかつ俊足、そしてリードも抜群ということで、身長が173センチと小柄ながら高い捕手センスを買われての入団となりました。即戦力としての期待も非常に高かった捕手でした。

 1年目から1軍で28試合に起用され、プロ初安打も記録するなどまずまずのスタートを切った木村選手。その素質が開花し、一気に正捕手の座を奪ったのは2002年のシーズンでした。2番手捕手だった瀬戸選手の不振により、1軍での捕手のチャンスが回ってきた木村選手。若手を育てる意味でも期待を一身に背負って、試合では強気のリードと、柔軟に投球に対応できる高い打撃センスで一気に頭角を現し、打率も3割を超える見事な成績を残しました。

 一気に正捕手へ、そう思われました。しかし・・・、2003年には前年入団した石原選手の育成の意味もあって起用が増えるとともに、木村選手はスタメン機会が大幅に減りました。その最大の要因は捕手にしては肩が弱いということ。盗塁阻止率が低く、走られるケースが非常に目立つことから、広島の捕手の時代は石原選手へとあっさり移行してしまいました。そして2004年には春季キャンプ中に日南市内の飲食店でトラブルに巻き込まれアゴを骨折・・・そのシーズンでの大きな出遅れを余儀なくされ、それ以降打撃は一気に低迷してしまいました。

 捕手として致命的な肩の弱さ。それを自慢の打撃でカバーすることが出来ず・・・。2006年には再度正捕手の座を奪えるチャンスが巡ってきたかと思えば、黒田投手の投球を右手親指に当ててしまい骨折・・・。その年はなった1安打が、カープでの最後のヒットとなりました。右の代打の切り札的に起用もありましたが、2007年も打撃で結果を残せず、戦力外通告を受けることとなってしまいました。

 そんな木村選手はオフにトライアウトを受け、野村監督の目に留まり、東北楽天での採用が決まりました。野村再生工場とも評価される野村監督の下で、もう一度、かつて3割を打った打棒を取り戻せるでしょうか。これからグリムゾンレッドのユニフォームに身をまとい、第2の野球生活をスタートさせる木村選手。ぜひ頑張ってほしいですね。

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37 岡上和典(内野手)

1979年1月4日生まれ。
福岡・九産大九州高〜東海大〜広島(00年7巡)

2007年オフに戦力外通告、プロ続行も今後は未定
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2001 10 4 1 0 0 0 2 4 0 .250
2002 71 17 3 0 0 4 11 5 0 .176
2003 51 14 3 1 1 0 4 6 1 .214
2004 30 3 1 1 0 0 2 1 0 .333
2006 10 8 1 0 0 0 2 0 1 .125
2007 2 0 0 0 0 0 0 1 0 .-
通算 174 46 9 2 1 4 21 17 2 .196

 故障との戦い・・・それが岡上選手の野球人生だったように思います。

 東海大時代もけして目立つ選手ではありませんでした。一時はコーチ業に就き、プレイヤーから離れていた時期もありましたが、大学3年で選手に復帰すると、4年次には盗塁王に輝きました。元々、遊撃手としての守備力には高い評価がありましたが、当時は平野選手(オリックス入団後、現在阪神に在籍)という守備のスペシャリストがいたため、外野手に転向。それでも広島は守備力、俊足、そして強肩を持つ岡上選手に注目し、2000年のドラフト7巡で指名しました。

 とにかく課題は打撃とされていた岡上選手。1年目は主にウエスタンに出場し、打率2割6分7厘と可もなく不可もなくといった成績。それでも16個の盗塁を決め、俊足をアピールすれば、1軍にも昇格し、プロ初安打も放つ一方で、4盗塁を記録しました。プロとしてのスタートは、まずまずのものだったといえるでしょう。

 2年目からは主に代走や守備要員として、自身最多の71試合に出場しました。そして2003年、2軍でも3割台のアベレージを残した岡上選手。課題だった打撃では2軍で結果を残せるようになるまで成長を見せ、1軍に昇格すると、10月13日のヤクルト戦で、守護神・高津投手の伝家の宝刀であるシンカーを見事にレフトスタンドに運び起死回生の同点弾。これには私も正直驚きました。

 しかし、岡上選手を襲ったのは、これからのプロ生活でももっとも彼を悩ませた右ひじの痛みでした。ようやく打撃では2軍で結果を残し、今度は1軍で活躍できる力を・・・そう周囲の期待も高まった2004年のシーズン途中、右ひじ関節内側側幅靭帯損傷で無念の戦線離脱。それでも2005年の春季キャンプには復帰し、その守備力と、チームにショートのレギュラーが不在となったことから、一気にレギュラーの有力候補に名乗り上げました。

 ところが・・・キャンプ中の守備練習で再び右ひじに痛みが・・・。診断の結果は右ひじ内側側副靭帯損傷・尺骨神経障害で全治8ヶ月というものでした。2006年には名前を「和典」から「和巧」に変更しましたが、プレー中もやはり右ひじの状況が気になりながらといった感じだったようです。そのシーズンには1軍に昇格し、2年ぶりのヒットとなる3塁打を放ちました。時々見せる意外性も彼の魅力だったのかもしれません。

 2007年シーズンでも、1軍へ昇格し、盗塁も披露しましたが、すぐに2軍に降格。そして無念の戦力外通告となりました。右ひじとの戦いに終始した彼のプロ人生。とにかくひじが万全に戻れば・・・との思いも強く、戦力外と聞いて、非常に残念な思いでいっぱいです。トライアウトも受けたようですが、現在のところ、今後は未定だということです。

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38 田中敬人(投手)

1979年7月26日生まれ。
大分・別大付属高(明豊高)〜駒沢大〜
JFEスチール西日本〜広島(2004年ドラフト8位)

2007年オフに戦力外通告。引退後は広島の球団職員に。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2005 14 1 0 0 13 9 7 10 6.92
2006 1 0 1 0 2 2 1 8 36.00
通算 15 1 1 0 15 11 8 18 10.80

 2004年、ドラフト会議で8巡目指名をした田中投手。その直後に行われた社会人の日本選手権でロングリリーフも兼ねたストッパーとして獅子奮迅の活躍を見せ、JFEスチール西日本を優勝へ導き、MVPも受賞しました。MAX146キロの速球とフォークボールのさえる右腕として注目を浴びました。もし、MVP受賞後にドラフト会議があったら、他球団の評価は一気に上がり、8巡目はおろか、指名すら難しかったのでは・・・といわれるほどでした。それだけ期待も高まりました。

 ところがプロでは分厚い壁にはじき返されてしまいました。2005年8月2日の巨人戦、延長11回に登板した田中投手は1点を失いますが、その直後、石原選手の逆転2ランによって、プロ初勝利が転がり込んできました。ラッキーなプロ初勝利でしたが、これが田中投手のプロでの最初で最後の勝利となってしまいました。

 2年目。ウエスタンリーグでは時折調子の波はあったものの、先発として好投を続けました。そして9月10日、ついにプロ初先発のマウンドに上がりました。しかし結果は散々な2回8失点の大炎上。2軍での先発の経験、そして調子の良さを一つも生かすことができないまま、また2軍降格・・・。これが1軍最後の登板でした。

 2007年、背番号は19から38へと降格し、ウエスタンでの仕事場は主に中継ぎとなりました。しかし、防御率5.09・・・結果を残せないまま。1軍では中継ぎに困窮していただけに、チャンスはあったはずなのですが、1度も1軍の呼ばれないまま、シーズン終了の鐘とともに、田中投手のプロ野球生活もわずか3年で幕を閉じました。

 引退後はカープの球団職員としての第2の人生を歩むそうです。今度はカープという球団を支える側になりました。これからの第2の人生、頑張ってください。

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44 山田真介(外野手)

1979年6月15日生まれ。
大阪・上宮高〜巨人(1997年3位)〜広島(2006年)〜阪神(2007)

2007年、喜田選手と交換トレードで阪神へ
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2006 18 47 14 0 0 4 10 0 0 .298
2007 4 3 0 0 0 0 2 0 0 .000
通算 75 124 28 5 1 14 29 4 0 .226

 今季、カープを去った選手の中で、残念ながら意外と思い出せない選手ではないかと思われるのが山田選手ではないでしょうか。

 2006年のシーズン途中、木村拓也選手との交換トレードで巨人から来た選手です。当時、緒方選手の故障もあって、右の外野手がチームに不足していたことがきっかけでトレードが決まりました。巨人では選手層が厚く、なかなか1軍での出場機会に恵まれませんでした。マーティー好みの俊足の外野手として、大きな期待を受けての広島入団となりました。

 移籍してからの山田選手は、スタメン起用も増えました。特にシーズン終盤には、来季の外野手のレギュラー候補になるのではないかという活躍を見せました。特に印象深いのは10月10日のヤクルト戦で1番に起用され、右に左にと、プロ初の4安打をマークし、打率も一気に3割台へと乗せました。元来、打撃が課題とされてきた山田選手でしたが、広島で一気に開花するかとさらに期待は膨らみました。

 しかし、2007年シーズンに入ると、開幕1軍こそは達成しましたが、右の代打が主な仕事場となりました。ところが、3度の打席でいずれも結果を残すことが出来ず、4月12日、2軍降格を言い渡され、その約1ヶ月後の5月18日、左の長距離砲がほしかった広島は山田選手を阪神・喜田選手との交換トレードで放出することとなりました。

 カープのユニフォームに袖を通したのはわずか1年足らずという短い期間となりました。2007年シーズンでは阪神に移籍後、1軍昇格はあったものの、出場機会に恵まれず、2軍へ降格となりました。2軍でも打撃が振舞わなかった山田選手ですが、2008年シーズンは正念場の年となりそうです。

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48 J・フェルナンデス(投手)

1972年2月2日生まれ。
レッドソックス〜レッズ〜アストロズ〜ブリュワーズ〜広島(2007年)

2007年オフに戦力外通告。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2007 30 3 8 0 92 1/3 35 33 62 6.04
通算 30 3 8 0 92 1/3 35 33 62 6.04

 2007年シーズンで最も多くの話題を振りまいた選手の一人として、このフェルナンデス投手を挙げる方も多いのではないでしょうか。マスコミ紙上でフェルナンデス投手の獲得の話が出たときは、日本球界では珍しいナックルボーラーで、ストレートは130キロ台という評価でした。

 しかし実際のフェルナンデス投手はキャンプインのときからとにかくブクブクに太りまくり、長距離走でも圧倒的な最下位。でも常に前向きな姿勢で、周囲に常に明るい話題を振りまいていました。果たしてナックルは日本で通用するのか・・・。そんな心配ばかりがファンの中でうごめいていました。

 デビュー戦は4月8日のヤクルト戦。しかし6回途中10失点で降板。ストレートも110キロ台。ナックル以外に変化球がなく、球速の出ないストレート。これでは通用しないだろうな・・・そんな思いばかりが増幅されました。しかし、その後はナックルも威力を発揮し始め、続く横浜戦では8回途中まで2失点の見事な投球。その後も安定した投球を先発に中継ぎにフル回転しながら披露していきました。

 ところが、5月上旬に痛めた右ふくらはぎ痛。この故障がフェルナンデス投手を苦しめいた原因となってしまったようです。さらには対戦を重ねるにつれ、ナックルは変化せずにただのスローボールになったり、変化しても相手に読まれていたり・・・登板しても打たれるシーンが目立つようになりました。ナックルもここまでか・・・そう思わざるを得ない状況でした。

 シーズンオフ。一部の情報では「ナックルを日本球界に普及させたい」という意向をオーナー人が持っているという話題もあり、もしかしたら残留も・・・と思われましたが、来季、エース・黒田投手が抜けることによって、投手陣の補強が必要となり、支配下枠の関係上、自由契約となりました。チームのムードメーカー的存在であっただけに、その存在感がなくなるのは痛いですが、やはりナックルが効力を失うと、やっぱり苦しいでしょうね。わずか1年での解雇となってしまいました。ただ思うのは、彼にもう少し、ストレートの球速があれば、もう少し活躍できたかもしれないのに・・・ちょっと残念ですね。

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63 仁部智(投手)

1981年9月22日生まれ。
秋田・本荘高〜東北学院大〜TDK〜広島(2003年ドラフト5位)

2007年オフに戦力外通告。引退後は広島のバッティング投手に。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2004 1 0 0 0 2 3 3 2 9.00
2005 8 0 0 0 3 1/3 4 2 4 10.80
通算 9 0 0 0 5 1/3 7 5 6 10.13

 身長166センチ・・・日本球界最低身長の投手として話題を集めた仁部投手。入団当時は背番号34でしたが、その数字が大きく見えるほど、小さな選手です。小さな体を存分に使って、思い切り良く、角度のある球を投げるMAX146キロ左腕。スカウト人の隠し玉として、2003年のドラフト5巡で広島の指名を受け入団しました。大学時代は奪三振マシーンとして活躍。特に相手が強くなればなるほど燃える投球は魅力的でした。

 そんな仁部投手は広島には不足していた中継ぎ左腕の即戦力として期待されたものの、1年目はわずか1試合の登板に終わりました。当時、巨人に在籍していた仁志選手に本塁打を浴びるなど2失点。3つの三振を奪う反面で、3つの四球を出すという制球力に課題のある投球でした。そのまま1年目は終わってしまいました。

 2年目。サイドスローへと転向しました。制球力の安定を高めるため・・・スカウトの評価した角度のある投球は、これで捨てることになったわけです。プロで生きていくためには、まず制球力を上げて左打者を抑える、これが至上命題でした。ウエスタンでも左のワンポイントとして好投を続けた結果、2年目は登板数も8試合に増えました。しかし、防御率は10.80・・・その数字は1年目を下回りました。特に左打者に打たれる傾向があり、サイドスローの特性を生かしきれないまま終わりました。決め球に乏しかったのも要因だったのでしょう。

 3年目以降、1軍からのお呼びはなくなりました。サイドスローを元のオーバースローに戻したり・・・そんな試行錯誤の繰り返し。左打者に対してはまずまず抑えるものの、右打者に極端に打たれる傾向もありました。3年目は2軍でも防御率5.31・・・なかなか自分の持ち味を出せぬまま、2007年オフ、ユニフォームを脱ぐことになりました。

 2007年にはお子さんも生まれたそうです。小さな投手としてのも話題にとどまってしまった仁部投手。生活を支えていくためにも、来季からはカープの打撃投手として新たな人生を踏み出すそうです。左腕の打撃投手は貴重だけに、カープが左投手に強い打線になるように、その縁の下の力持ち的存在になってくれることでしょう。

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95 E・カリダ(投手)

1983年10月28日生まれ。
ラモン・マティウス・メジャ中〜ドミニカアカデミー〜広島(2007年)

2007年オフに戦力外通告。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2007 2 0 0 0 2/3 1 0 0 0.00
通算 2 0 0 0 2/3 1 0 0 0.00

 2007年シーズン。毎年のようにドミニカ・カープアカデミーから何人かの練習生が来日し、春季キャンプに参加しますが、その中でもマーティーの目に留まったのがこのカリダ投手。150キロに達する速球とスライダー、チェンジアップを武器にする投手ということで、パワーアームを希望するまーてぃーにとっても期待の新星となりました。ただ、まだ投手としての経験が浅かったため、まずは2群の試合にも出場できる育成枠での獲得となりました。当時の背番号は123。

 その後、2軍でも速球を武器に結果を残したカリダ投手。1軍投手陣が交流戦で、特に中継ぎ・抑え人が壊滅状態となった6月29日に晴れて支配下登録されました。期限まであと2日という滑り込みでの契約となりました。

 7月5日には1軍で初登板を果たし、プロで初めてのアウトを奪いましたが、続く7月7日の横浜戦での登板では2本のヒットを浴び、わずか1アウトしか取れずに降板。その後2軍降格となりました。いずれも自慢の速球が影を潜め、せいぜい140キロ代前半といったところ。緊張もあったのでしょうが、本来の投球が出来ないまま、ウエスタンに舞い戻り、調子を上げることが出来ないままシーズンを終えました。

 秋季キャンプでは1軍メンバーに入るなど、その素質は注目されていたのですが、キャンプ直前に首痛のため2軍メンバーに降格してしまいました。2007年オフに黒田投手と新井選手がFA移籍してしまい、新外国人選手の獲得が急務となった現状で、支配下選手枠を空けるためにやむを得ず解雇ということになりました。投手経歴が短い中で、ここまで台頭してきただけに、残念な解雇となりました。

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121 飯田宏行(投手)

1980年8月19日生まれ。
山口・下松工高〜徳山大〜ツインズ1A〜広島(2005年ドラフト5位)

2007年オフに戦力外通告。引退後は整体師を目指す。

 2度の戦力外通告受けた投手・・・。

 徳山大時代はMAX153キロの速球派右腕として、スカウトの注目を集めました。その年のドラフト会議でも指名のうわさが出るほど。その速球には魅力があったのですが、結局、ドラフトでの指名にはかかりませんでした。その翌年、アメリカにわたり、ミネソタ・ツインズのルーキーリーグから、新たな野球人生をスタートさせました。しかし、1Aに昇格した2年目の右肩を故障してしまいました。これにより自慢の速球は影を潜め、波乱の野球人生の幕開けとなってしまいました。

 3年で解雇となり、広島の入団テストを受けたのが2005年。オーナーや首脳陣の目に留まったのは145キロまで復活してきた速球でした。その年のドラフトで、見事入団を果たしました。広島では球団史上初の逆輸入右腕として注目を集めました。当時の背番号は56。アメリカ仕込みのチェンジアップにスライダー、フォークと変化球も多彩な速球派。期待は膨らみました。

 しかし、右肩痛が再発・・・。ルーキーイヤーは1軍ですら1度も登板できないまま、シーズンは終わりました。そしてまさかの1年目での戦力外通告。やはり速球派を期待されての獲得だったにもかかわらず、肩痛で球を投げることもままならない状態だったのが理由なのでしょう。速球さえ復活すれば・・・その期待を込めて、育成枠での再契約に至りました。

 2007年。一度は投げ方を忘れるほどのスランプに陥った飯田投手。肩への負担を減らすためにサイドスローにも挑戦しましたが、試合では制球に苦しみました。2軍で初出場を果たしたものの、わずか5試合の登板、0勝1敗、防御率17.36、4回と3分の2イニングのみの登板で9四死球・・・。やはり1年でサイドスローをものにするのは無理があったのでしょうか。

 育成枠もわずか1年で2度目の戦力外通告となってしまいました。野球からは引退し、整体師を目指し勉強に励むそうです。故障との戦いだった野球人生だっただけに、整体師になれば治療を受けに来る選手の気持ちをしっかり受け止めてくれる良き先生になってくれることでしょう。第2の人生、頑張ってください。

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