あなたを忘れない〜2006年度版〜

 ※表示している成績は広島での成績、通算は広島在籍時のみの生涯成績です。

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0 木村拓也(外野手)

1972年4月15日生まれ。
宮崎・宮崎南高〜日本ハム(1990年外)〜広島(1995)〜巨人(2006)

2006年、山田真介選手との交換トレードで巨人へ移籍
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1995 7 7 0 0 0 0 3 0 1 .000
1996 30 14 2 0 0 4 4 4 0 .143
1997 77 78 18 5 0 8 25 8 1 .231
1998 86 131 32 8 0 14 27 14 3 .244
1999 90 205 51 13 3 10 39 6 11 .249
2000 136 572 165 30 10 36 80 17 16 .288
2001 137 551 145 45 7 61 129 18 7 .263
2002 130 412 98 27 5 23 66 6 5 .238
2003 131 473 135 38 13 35 95 14 13 .285
2004 85 161 40 12 2 17 32 4 6 .248
2005 111 313 77 16 2 28 41 3 9 .246
通算 1020 2917 815 204 42 231 541 97 72 .279

 ♪足の〜速さは〜誰にも負けない

 この応援歌といえば、背番号0の木村拓選手でした。しかし、2006年のシーズン途中に山田真介外野手と1対1の交換トレードで巨人へ移籍することになりました。これには木村拓選手本人も予感はあったものの、その球団が巨人だと聞いて、戸惑いもあったようです。

 木村拓選手は1990年に、現時点で現役では珍しいドラフト外で日本ハムに入団しました。1995年に長富浩志投手とのトレードで広島に入団しました。その後、2000年には1番・木村拓選手、2番・東出選手の1・2番がブレークし、広島の核弾頭として活躍しました。

 その一方で、木村拓選手といえば、背番号0をカープのユーティリティプレイヤーの象徴にまでするほど、あらゆるポジションを守った選手でもありました。主に近年では二遊間を守る機会が多かったのですが、日本ハム時代からずっと外野手として活躍しました。さらに高校時代や日本ハム入団当初は捕手でもありました。達川元広島監督時代には実際に1軍で捕手としてマスクをかぶったこともありました。内外野だけでなく捕手もこなす・・・まさしくユーティリティプレイヤーでした。

 しかし、マーティーが監督に就任した2006年。若手への切り替えから出場機会は激減どころか、1軍にすら上がれない状態が続き、結果的には巨人へのトレードとなってしまいました。最初はトレードに戸惑いもあった巨人でも、カープ時代と同じようにユーティリティープレイヤーとして存在感を示しています。あのSMAPの木村拓哉さんと同い年で、テレビ番組でも対談したほどの強い印象を持つ木村拓選手。巨人でもユーティリティープレイヤーとしての力を発揮して、いつかは選手としてでも、コーチとしてでも、再びカープのユニフォームを着てくれるときがくれば・・・と思っています。

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6 浅井樹(外野手)

1971年12月14日生まれ。
富山・富山商高〜広島(1990)

2006年、現役引退後、2007年より2軍打撃コーチに就任
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1993 2 2 0 0 0 0 1 0 0 .000
1995 63 152 46 16 6 20 31 5 1 .303
1996 103 124 42 28 6 7 18 7 3 .339
1997 87 77 18 6 1 11 17 1 0 .234
1998 109 277 75 40 6 33 44 4 5 .271
1999 96 162 38 14 2 15 26 4 3 .235
2000 112 247 74 46 13 20 51 5 3 .300
2001 107 189 54 24 4 22 32 3 1 .286
2002 97 146 45 19 4 11 29 1 0 .308
2003 92 207 66 32 7 24 43 6 5 .319
2004 79 88 25 21 3 8 17 0 1 .284
2005 80 98 26 9 0 18 29 3 1 .265
2006 43 63 14 4 0 3 7 2 2 .222
通算 1070 1832 523 259 52 192 345 41 25 .285

 右の町田選手に左の浅井選手・・・

 かつての広島を代表する最強の代打陣。そんな浅井選手が2006年のシーズンをもって引退となりました。前田選手と同期の浅井選手ですが、早くから1軍で台頭した前田選手に比べ、浅井選手はじっくりと2軍で下積みをしていました。そんな浅井選手が初めて1軍の舞台に立ったのは1993年、4年目のシーズンでした。

 確かにその当時は体の線が細いという印象はありました。しかし、顔のいかつさ、そしてスイングの速さ・・・この選手はきっと大物になる、そんな予感をさせるような雰囲気がありました。そしてそれから2年後の1995年に、ようやく1軍に定着し始め、以後、主に代打の切り札として1軍で活躍を続けました。

 代打の切り札・・・聞こえは良いこの言葉ですが、裏を返せばレギュラーを取れない選手。しかし、浅井選手はそれでも代打の切り札として、最後まで全うし続けました。選手生活で最終打席となった2006年10月16日の中日戦。代打で登場し、見事センター前ヒットを放ちました。浅井選手らしい最終打席、前田選手はその様子を見て涙を流し、最後はかたく抱きしめあっていました。同期として長く苦楽をともにしてきた2人の選手・・・きっと衝突したこともあったことでしょう。そんないろんな思いがよぎるとともに、長い野球生活にお疲れ様と声をかけたのでしょう。

 2007年からは2軍の打撃コーチとなりました。代打の切り札だからこそ、1回のチャンスで結果を残すという一球必殺の打撃技術、そして打席に立つまでの心と体の準備、打席での集中力、精神力・・・代打の切り札だったからこそ、教えられる打撃論。そんな浅井選手を教えを受けて、有望な若手をどんどん育ててほしいところです。

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30 マイク・ロマノ(投手)

1972年3月3日生まれ。
トゥレーン大〜トロントブルージェイズ〜広島(2005年)

2006年オフに戦力外通告。米球界復帰を目指す
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2005 27 5 4 1 73 1/3 37 48 37 4.54
2006 31 5 9 0 103 2/3 49 65 65 5.64
通算 58 10 13 1 177 86 113 102 5.19

 メジャー通算3試合で防御率11.81。でも3Aでは先発に中継ぎにとフル回転し、2003年には13勝5敗という好成績を残した右腕。あのロジャー・クレメンス投手からもアドバイスしてもらったという投球フォームは、まさにクレメンスそっくり。そんなロマノ投手が広島に入団したのは2005年のことでした。150キロ台のストレートにカーブやスライダー、チェンジアップと多彩な変化球を持つ投手という情報でした。

 来日してからのロマノ投手の1年目は先発、中継ぎにと活躍しました。球場でも、そしてテレビでもその投球を何度か見たことがありましたが、印象としては思ったよりスピードのあるボールを投げるということ。低めに決まる投球をするときは見事に打線を牛耳るのですが、急に調子を崩したりという試合の中での波が大きいということ。そして、意外と勝ち運があるということというのが挙げられます。

 2005年には先発もこなし5勝を挙げたロマノ投手。実家のあるアメリカ・ニューオーリンズでのハリケーン「カトリーナ」の被害にも遭われ、急きょ、帰国せざるをえなくなるという事態にもなりました。実家の被害が収まらぬ中、2006年には新監督に就任したマーティーがロマノ投手を必要とし、再び日本でのプレーが実現しました。

 2006年のロマノ投手はシーズン中盤から先発に転向し、ローテーションの穴を任されることがたびたびありました。しかし、やはり好不調の波が大きく、際どいコースに投げた球がボールに判定されたりと、なかなか思うような投球ができない状況もありました。来日1年目より多くのイニング数を投げたものの、先発投手としては「出せば打たれる・・・」という不安が付きまとい、なかなか首脳陣の信頼を得ることができませんでした。

そのまま自由契約となってしまいましたが、米球界への復帰を希望しているようです。ハリケーンでの被災に遭っているだけに、米球界へ復帰し、また活躍できることを祈っています。

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38 福井敬治(内野手)

1976年5月12日生まれ。
奈良・智弁学園高〜巨人(1994年3位)〜広島(2005)

2006年に自由契約となり引退。
2007年からは茨城ゴールデン・ゴールズに入団。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2005 73 87 25 5 1 4 15 0 2 .287
2006 27 37 5 2 0 6 7 0 0 .161
通算 268 303 70 25 8 21 71 1 6 .231

 2004年シーズンオフ、巨人を自由契約となった福井選手。その年の広島の入団テストで、右の長距離砲として、そして内野ならどこでも堅実に守れる守備力を買われて、入団を決めました。巨人時代は10年間で168試合に出場したのみ。主に代打としての起用がほとんどでした。しかし、2001年には東京ドームで広島・高橋建投手からプロ初本塁打をレフトスタンドに運んだことは、今でもはっきり記憶に残っています。当時は痛い失点を喫したという印象ですね。

 そんな福井選手が2005年が広島のユニフォームを着ることとなりました。広島には嶋選手や新井選手、さらには森笠選手や小山田投手、横山投手といった1976年度生まれの選手が数多くいる中で、すぐにチームにも溶け込みました。前年に嶋選手が「赤ゴジラ」ブームを巻き起こしたことから、福井選手にもその容貌から「赤ゴリラ」と呼ばれていました。何となくおとなしいイメージのある広島の選手の中で、福井選手の明るさ、そして試合中の声出しなどは、チームの雰囲気をより明るくする選手でしたね。

 1度も2軍に落ちることなく1年間を終えた福井選手。2006年シーズンは、キャンプでの紅白戦でも本塁打を連発し、もしかしたら右の代打要員だけでなく、1塁のレギュラー候補にも挙がるのでは?と思われましたが、シーズンに入ると、代打の機会でも凡打が目立ってくるようになりました。打撃は低迷したまま7月上旬に2軍落ちとなりました。広島入団以来初の2軍落ちで、若手起用が目立ってきた終盤に向けて、福井選手がその後、1軍から声がかかることは二度とありませんでした。

 そのまま自由契約となった福井選手は、合同トライアウトで阪神の首脳陣の目に止まったものの、獲得する球団は現れず・・・。そのまま引退という運びになりました。「東京で野球と違う世界に進みます。ずっと野球をやっていたから、今後は何らかの形で子供たちに教えていきたい」と言い残し、球界を去っていくことになりました。新天地は欽ちゃん球団でおなじみの茨城ゴールデン・ゴールズです。常に場を盛り上げる福井選手にはピッタリの環境ですね。活躍を期待しています。


44 福地寿樹(内野手)

1975年12月17日生まれ。
佐賀・杵島商高〜広島(1993年4位)〜西武(2006)

2006年、西武・青木投手との交換トレードで西武へ移籍。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1997 2 5 0 0 0 0 2 0 0 .000
1999 14 25 6 1 0 1 3 4 1 .240
2000 51 17 1 0 0 4 5 11 0 .059
2001 52 7 4 2 0 1 1 10 1 .571
2002 53 97 25 5 0 3 26 16 2 .258
2003 91 159 41 4 1 6 42 20 3 .258
2004 19 17 1 0 0 1 5 0 0 .059
2005 30 11 2 0 0 0 1 8 1 .182
通算 312 338 80 12 1 16 85 69 8 .238

 チームを去る選手は自由契約だけではなく、トレードという場合もあるわけで・・・。2006年のシーズンが始まる直前の3月23日。福地選手は西武・青木勇人投手との交換トレードでチームを去ることになりました。

 福地選手といえば「足のスペシャリスト」として、広島では主に代走として活躍しました。かつては代走専門として今井譲二選手という名ランナーがいましたが、福地選手はそんな今井選手を彷彿とさせるかのような盗塁技術を持った選手でした。主に代走という出場機会ながら、2002年には16盗塁、2003年には20盗塁をマークしています。特に2003年はリーグ2位の成績を残しました。どんなに警戒されても、あっさりと盗塁を決めてしまう高い盗塁技術は、終盤の緊迫した場面では非常に頼もしい存在でした。

 そんな福地選手が打撃では今ひとつアピールできないまま・・・。2003年には開幕から1番打者として起用されましたが、打率がなかなか上がらず、そのせいもあって、「足のスペシャリスト」として自分の持ち味をなかなか発揮できないままでした。そんな福地選手の打撃といって思い出すのが2004年10月11日の対横浜戦、横浜・吉見投手の前に9回2死までノーヒットノーランという窮地に立たされた場面で放った執念の3塁打ではなかったでしょうか。あの1打で、2週連続ノーヒットノーランを喫するという不名誉記録から何とか逃れることが出来たわけです。

 福地選手は西武へ移籍後、心機一転したのか、1番打者に定着し、打撃でもうアピールし、いまや西武では欠かせない打者となりました。プロ通算1本塁打だったのに、今年だけで4本の本塁打を放ち、うち1本は満塁弾。打率も2割8分9厘、盗塁も自己最多の25と、素晴らしいシーズンとなりました。新天地でのチャンスを見事にものにした福地選手。来季以降も手強い相手になりそうですが、頑張ってほしいところです。

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48 天野浩一(投手)

1979年4月12日生まれ。
香川西高〜四国学院大〜広島(2004年)

2006年オフに戦力外通告。2007年より四国アイランドリーグ・香川へ
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2002 13 0 0 0 15 3 14 2 1.20
2003 49 2 4 0 54 22 30 18 3.00
2004 45 3 2 0 47 16 39 28 5.36
2005 14 0 0 0 15 1/3 11 9 17 9.98
通算 121 5 6 0 131 1/3 52 92 65 4.45

 四国学院大から初のプロ野球選手誕生ということで話題になった天野投手。そんな2001年は広島がドラフト10巡まで指名を行い、9名の大量指名となりました。そんなドラフトの10巡目で指名されたのが天野投手です。全国区では無名の存在である四国大学リーグでは通算30勝を挙げ、MAX146キロのストレートにフォーク、スライダー、ナックル、パームなどなど7色の変化球を操る技巧派投手としてずば抜けた存在でした。

 そんな天野投手は子供の頃から広島ファンで、憧れのカープのユニフォームに袖を通し、1年目から1軍のマウンドに立ちました。13試合で防御率1.20。そして、2年目となる2003年には49試合に登板し、5月18日プロ初勝利を挙げました。さらに3年目には45試合に登板し、2年間で5勝を積み重ねました。2年連続で40試合以上の登板を果たし、中継ぎエース格にまで上り詰めました。高橋由選手(巨)も打ちづらい投手として天野投手を挙げるほど、「広島に天野あり」という存在感を見せました。

 ところが2005年はわずか14試合の登板と、その数は激減し、防御率も辛うじて2ケタを割る9.98。自己ワーストの成績を残してしまいました。特にある阪神戦では投げる球がことごとく打たれ、顔面蒼白状態になってしまったということもありました。何か自信がすべて崩れていった・・・そんな印象すらあった大炎上劇でした。

 2006年、一度もマウンドに登ることもなく、2軍でも防御率5.91と、完全に中継ぎエースとしての面影は失ってしまったまま、自由契約となってしまいました。2007年からは故郷の香川県に戻り、四国アイランドリーグの香川オリーブガイナーズに所属し、再びプロのマウンドを目指すこととなりました。プロからは初めてとなる四国アイランドリーグ入りとなります。ここでもとプロの意地を見せ、またプロの世界へ戻ってくることを祈って。

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49 ジョン・ベイル(投手)

1972年3月3日生まれ。
南ミシシッピ大〜トロント・ブルージェイズ〜ボルティモア・オリオールズ〜
ニューヨーク・メッツ〜シンシナティ・レッズ〜広島(2004年)

2006年オフに戦力外通告。2007年よりカンザスシティ・ロイヤルズへ
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2004 25 11 10 0 160 1/3 70 173 75 4.21
2005 51 2 1 24 53 2/3 21 72 19 3.19
2006 30 1 2 6 43 11 46 14 2.93
通算 106 14 13 30 257 102 291 108 3.78

 メジャー通算で27試合に投げ2勝2敗防御率4.69。2001年には14試合、2003年には10試合と、そこそこはメジャーの経験のある左腕。150キロを超えるストレートとスライダー、チェンジアップ、カーブと多彩な変化球を操る投手として、2003年オフにカープと契約すると、期待の先発左腕として、大きな期待を集めました。

 そんなベイル投手の最大の特徴は、相手打者やタイミングによって、オーバースローとサイドスローを使い分けるということ。これによって、特に左打者からは三振の山を築きました。2004年は先発として活躍し、投球回数160回と3分の1に対して、三振数は172という数字。夏場に調子を崩すことはあったものの、11勝10敗という好成績でシーズンを終えました。広島に来た外国人左腕は数多くいましたが、その中で唯一、勝利を挙げたのがこのベイル投手でした。それまでカープが獲得した外国人左腕はあまりパッとした成績を残せずに帰国するケースが目立ちましたが、このベイル投手に関しては広島史上最強でかつ、ダントツの外国人左腕といってもいいでしょう。抑えに転向した2005年には51試合に登板し2勝1敗24セーブ。特にシーズン序盤は完璧な投球で、守護神の座を確固たるものとしました。

 ところが、守護神としてスタートした2006年。開幕後から守護神として活躍し6セーブを挙げたベイル投手でしたが、5月13日の千葉ロッテ戦。雨が降りしきる中で行われたこの試合中に登板したベイル投手は、投球動作中にマウンドのぬかるみに足をとられ、左足内転筋痛で戦線を離脱。復帰後は先発に再転向しますが、急な配置換えに戸惑いもあったのか、持ち前の力を出し切れないまま、2年契約が切れるオフに自由契約となりました。

 これだけの実績のある左腕に他球団も獲得の意思を示しましたが、結果は大リーグ復帰となりました。150キロ近い速球を投げる左腕だけに、大リーグでも十分に活躍できるのではないでしょうか。2007年以降もベイル投手が復帰した大リーグで活躍できることを願っています。

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52 玉山健太(投手)

1982年12月24日生まれ。
山梨・山梨学院大付高〜広島(2000年ドラフト3位)

2006年オフに戦力外通告。カープの打撃投手に転向。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2004 6 1 0 0 18 9 12 10 5.00
2005 1 0 0 0 1 2/3 2 1 2 10.80
通算 7 1 0 0 19 2/3 11 13 12 5.49

 山梨学院大付高といえば、広島カープが3年連続で同じ高校から投手を指名したことでも話題となりました。1999年の苫米地投手、2000年の玉山投手、そして2001年の大島投手です。そんな6年目の玉山投手が2006年のシーズンオフに戦力外通告を受けました。

 玉山投手といえば、山梨学院大付高では、苫米地投手の後継としてエースにも選ばれました。MAX146キロのストレートに、スライダー、フォークなど球種も多彩で、かつ、遊撃手としても出場することもあり、左打者として、その打撃力においても非常に大きな評価を得ていました。ドラフト当時は1位級の逸材とも騒がれました。

 そんな玉山投手は投手一本で勝負してきた6年間でした。2002年、2003年とファームでは2年で7勝を挙げ、ともに3点台の防御率を挙げるなど、安定感のある投球で成長をアピールしました。そして2004年には1軍のマウンド、しかもまっさらな先発のマウンドを踏みました。そんな2試合目の先発マウンドで、玉山投手は横浜打線を5回2失点に抑えて、プロ初勝利を挙げました。しかし、この勝利がプロでの最初で最後の勝利になってしまいました・・・。

 プロ入りしてからは常時140キロ中盤のストレートの威力を発揮しながら、年を重ねるにつれて急激にその球速は影を潜めていきました。そして、2006年には140キロにすら届かない状態が続き、完全に精彩を欠いた状況となってしまいました。今季は1軍登板もなく、2軍で22試合に登板し1勝3敗で防御率5,74と、プロ生活で最悪の数字となってしまいました。

 一度失った球威を取り戻すことは出来ないままプロとしての静かにユニフォームを脱ぐことになりました。そして、来季からは、色は赤ですが、今までとは違う大きな背番号のユニフォームを着て、今度は打者に気持ちよく打ってもらう打撃投手としての一歩を踏み出すそうです。

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54 苫米地鉄人(投手)

1981年9月22日生まれ。
山梨・山梨学院大付高〜広島(1999年ドラフト6位)

2006年オフに戦力外通告。現役続行を希望。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2000 23 2 3 0 40 2/3 25 42 23 5.09
2002 21 5 3 0 63 1/3 36 60 32 4.55
通算 44 7 6 0 104 61 102 55 4.76

 山梨学院大付高といえば、今年限りでカープを自由契約となった玉山投手とともに、広島カープが3年連続で同じ高校から投手を指名したことでも話題となりました。1999年の苫米地投手、2000年の玉山投手、そして2001年の大島投手です。そして2006年オフ、玉山投手とともに苫米地投手もカープのユニフォームを脱ぐことになりました。

 苫米地投手は「鉄のように強く、男らしい人間に」という希望で「鉄人」と名付けられました。カープにも衣笠選手という偉大な「鉄人」がいただけに、苫米地投手にも期待が集まりました。高校時代は140キロ台の速球とスライダーを投げる投手として、スカウトの目に止まり、1999年のドラフトで6位指名を受けました。

 しかし、6位というドラフト順位とは裏腹に、ルーキーイヤーの春季キャンプでは、抽選の末に獲得した河内投手以上に注目される存在となりました。球速も148キロを記録するまでとなり、ドラフト1位級の素材とまで期待され、なんと高校生ルーキーでは17年ぶりに開幕1軍のキップを手に入れたのです。その年の4月9日には、早くもプロ初勝利を手に入れました。そして、河内投手も1年目から1軍に昇格すれば、当時の達川監督から「ウッチーベッチー」のコンビ名を名付けられたことでも有名になりました。

 高校生ルーキーながら中継ぎで23試合に登板した苫米地投手は、2年目は故障で苦しみますが、3年目はシーズン終盤にプロ初完投勝利を挙げるなど5勝を挙げる活躍をみせました。3年目のオフには「調子のいい年と悪い年が交互にやってくる印象があるので、来季は頑張りたい」といったようなコメント残しましたが・・・。

 4年目以降は故障の連続。4年目は疲労の蓄積から右手親指を痛め、5年目はサイドスローに転向するも実らず。そして昨年は「右上腕部三頭筋付着部炎」と診断されながらも、手術を回避し、周辺の筋力をつけることで治していく道を選びました。

 そして2006年。ここ数年は2軍でも登板試合が1ケタの年が続いたのですが、ファームで先発、中継ぎに降る書いて印で33試合に登板しました。しかし、結果は5敗、防御率6.67という苦い成績。高卒直後は148キロ出た直球も、たまに140キロを記録する程度に止まるまでに球威を失ってしまいました。その結果から、オフに自由契約となりました。一時は河内投手とともに期待され、ファンの印象にも強く残った投手だけに、早すぎる解雇は非常に残念の一言に尽きます。現役続行を希望しているようですが、新天地でプロ生活に復帰できるように祈っています。

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63 鈴衛佑規(捕手)

1977年9月29日生まれ。
伊丹西高〜広島(1995年6位)

2006年に自由契約に。2007年からは球団に残る見込み。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1999 2 - - - - - - - 0 -
通算 2 - - - - - - - 0 -

 11年目という隠れたベテランが、ついに赤いユニフォームを脱ぐことになりました。ファンの間では、「一体いつまで契約更新があるのだろう・・・」と言われていたようです。確かに、1軍への昇格は1999年や2005年にあるものの、出場したのは達川前監督時代にわずか2試合、しかも守備要員として出場したのみ。通算成績には、野手にもかかわらず、1軍の出場がありながら打席機会がないという、珍しい生涯成績となっています。そのこともあって、毎年「解雇対象」という予想を裏切り、11年もの長きにわたって、現役を続けることとなりました。

 しかし、そんな鈴衛選手は、1軍の捕手陣にもしものときがあったときの貴重なベテラン捕手として、その役割はあったといえるでしょう。2軍では若手捕手陣の兄貴分的な存在として、またチームとしても、2軍の野手が不足したときに、捕手だけでなく一塁や外野もこなすユーティリティー的な存在として、いざという場面では代打として、その持ち味を発揮していました。2軍では貴重な選手ということでした。

 ところが、倉選手や石原選手、さらには木村一選手が1軍で台頭し、さらには山本翔選手や白浜選手といった若手捕手が2軍で期待され、起用が続いている中で、徐々に2軍でも出場機会が減っていきました。その中でも、代打などで成績を残してはいるものの、やはり29歳という年齢的なものもあり、期待という文字と縁がなく、あくまでも2軍捕手がピンチのときの選手・・・そんな印象があったことは否めません。

 2006年オフ。鈴衛選手は他の選手とは一足遅れて自由契約となりました。おそらく、高校生ドラフトで水戸短大付属高の会沢選手を指名できたからでしょう。私とは同い年だっただけに、頑張ってほしい選手の一人でしたが、非常に残念な結果となりました。来季からは球団に残ってブルペンキャッチャーの職に就くようですが、新天地でも頑張ってほしいところですね。

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98 ファン・フェリシアーノ(投手)

1980年4月6日生まれ。
サンチェス高〜レッドソックスアカデミー〜
ドミニカカープアカデミー〜広島(2004年)

2006年オフに戦力外通告。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2004 3 0 1 0 11 1/3 10 10 20 15.88
2005 5 0 2 0 11 2/3 9 11 9 6.94
2006 12 0 1 0 35 1/3 17 11 29 7.39
通算 20 0 4 0 58 36 32 58 8.95

 破れそうだった殻は、意外と分厚かった・・・。

 フェリシアーノ投手は2004年、ドミニカ共和国のカープアカデミーから見事に入団を決めました。150キロ台のストレートに、スライダーなどの多彩な変化球に対して、球団が将来性を感じての契約となりました。2004年こそは1軍に昇格しても滅多打ちを食らったり、四球を連発するなど、散々な成績でした。

 しかし、2005年シーズンに入ると、2軍ではエース格の投手として、抜群の安定感を誇りました。24試合に登板して、リーグ2位となる2.30という見事な防御率。ウエスタンでは最優秀防御率のタイトル争いにも参戦し、惜しくも0.01という僅差で、当時阪神に在籍していた投手にタイトルを譲ってしまいました。しかし、その投球の安定感は見事なものでした。

 ところが、フェリシアーノ投手の弱点は、抜群であった2軍での投球を1軍ではなぜか活かせないということ。打たれたり、四球を出したりすると同様が走り、思うような投球ができない・・・。2軍では出来たことが1軍では出来ない。2郡に比べて大勢の観衆や相手打線のレベルの高さ・・・そんなことを意識しすぎてばかりいたのか、精神面での脆さが、ピッチングに大きな影を落としてしまいました。2006年も5回まで無失点の投球を見せながら、勝利投手を意識したことで失点を喫したり・・・。

 そんなこんなで、2軍ではエースだったフェリシアーノ投手でしたが、1軍では10回も与えられた先発のチャンスで、白星に結びつけることが出来ませんでした。1勝すれば、彼の中で何かが変わるかもしれない・・・というのはありましたが、「たかが1勝、されど1勝」。彼にとって1勝は遠いままの存在でした。2006年オフ、他選手よりも遅れて自由契約となりました。素材は素晴らしく、2軍でも結果を残していただけに、このような結果に終わったことは、非常に残念ですね。

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