カープ助っ人列伝<2011〜2015年版>

 2011年
35 ブライアン・バーデン(内野手)
42 ブライアン・バリントン
(投手)
43 チャッド・トレーシー
(外野手)

2012年
57 キャム・ミコライオ(投手)
70 ニック・スタビノア
(内野手)

2013年
13 キラ・カアイフエ(内野手)
41 フレッド・ルイス
(内野手)

58 ミゲル・ソコロビッチ(投手)

2014年
58 ザック・フィリップス(投手)
69 ライネル・ロサリオ(外野手)
70 デュアンテ・ヒース(投手)

2015年
13 ヘスス・グスマン(内野手)
57 ネイト・シアーホルツ(外野手)
58 マイク・ザガースキー(投手)
144 ダニーロ・デ・ヘスス(投手)


2011年


35 ブライアン・バーデン(内野手)

1981年4月2日生まれ。
セントオーガスティン高−オレゴン州立大−ダイヤモンドバックス(07)−カージナルス(07-09)−マーリンズ(10)−広島(11-12)−ドジャース(13-)

2012年オフに自由契約。2013年はドジャースとマイナー契約
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2011 64 210 59 20 3 30 48 0 4 .281
通算 64 210 59 20 3 30 48 0 4 .281

 2011年のシーズン途中、カープ打線には急遽、助っ人が必要となりました。チームとしては長距離砲がほしがっていたのではないかという中で、球団はシュアな打撃で、打率を残せるタイプのバーデン選手を獲得しました。

 初めての日本野球…それだけでも厳しい状況なのに、2軍での実践もそこそこに、1軍に昇格し、いきなりスタメンで起用。不安が付きまとう中、最初は日本野球に戸惑ったようでしたが、8月9日の試合には本塁打を放ち、徐々に打撃でも結果を残すようになりました。柔軟性のある打撃スイングで、チャンスの場面に強い打撃を見せ、20打点を記録し、1軍昇格直後は2割を前後していた打率も、気がつけば、2割台の後半を刻むようになりました。

 辛抱して使い続けた結果として、打率.280前後を記録するようになったバーデン選手。だからこそ、1シーズン通して、試合に出ていたらどうなっていただろうという期待感もありました。ところが、2012年のシーズンはパワーのある新助っ人に仕事場を譲るという、案の定の結果に。自身も右ひじの故障などの影響で、2軍でもなかなか結果を残せず、いったん帰国する場面もありました。そして2012年オフに自由契約に…。せっかく打率を残せる打者だったのに、もったいなさばかりが残る結末となりました。

 そんなバーデン選手は、その後、ドジャースとマイナー契約を結んだようです。その後、メジャーにも昇格し、打数は少ないながら29打数15安打、打率.519という驚きのハイアベレージを残したとか。やはり、シュアな打撃はアメリカに戻っても同じようですね。

▲一番上に戻る


42 ブライアン・バリントン(投手)

1980年9月30日生まれ。
ポールステイト大〜パイレーツ〜インディアンス〜
ブルージェイズ〜ロイヤルズ〜広島(11−14)〜オリックス(15)

2014年オフに自由契約。その後、オリックスに移籍。
2016年からは大リーグ・ブリュワーズの国際スカウトに
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2011 30 13 11 0 204.1 61 136 55 2.42
2012 29 7 14 0 175.2 49 137 63 3.23
2013 28 11 9 0 172.2 55 117 62 3.23
2014 23 9 8 0 131.2 42 85 67 4.58
通算 124 45 45 0 758 239 521 274 3.25

 先発投手の戦力不足に悩んでいた当時のカープが獲得した選手は、2002年に大リーグ全体でも1番最初に指名されたドラフト1位の投手でした。その高評価とは裏腹に、大リーグでは大きな壁にぶち当たり、入団後はわずか1勝にとどまっていたものの、カープは技巧的なピッチングが日本向きではないかと注目していました。ストレートに変化球を上手く織り交ぜ、打たせてとるピッチングスタイル…日本で成功するだけの素養は十分に持ち合わせていました。

 そして、いきなりその素質の高さを1軍のマウンドでも見せてくれました。来日1年目、初登板となった開幕3戦目、敵地・甲子園球場での阪神戦で8回無失点の好投で来日初勝利を挙げたのです。その勢いに乗って、月間3勝をマークし、いきなりセリーグの月間MVPを受賞しました。新外国人投手がいきなり来日1年目の4月の月間MVPを受賞するのは、16年ぶりという快挙でした。

 バリントン投手は1年目から13勝11敗と、2ケタ勝利をマークしました。2年目は打線の援護がない試合も多く、7勝にとどまりましたが、前年に比べて特段悪くなったわけではありませんでした。3年目には再び11勝を挙げました。中4日でも登板することができ、ある程度試合を作ってくれる…こんな投手が先発ローテーションにいると言うのは、投手陣に不安がある状況下では大きかったのではないでしょうか。

 2014年はスタートこそ良かったものの、シーズン中盤以降は尻つぼみに終わりました。防御率も4.58と来日後では最低の数字に終わりました。5年目の契約更新の可能性を残しながらも、新外国人選手が獲得できたことを受けて、自由契約となりました。しかし、カープでは4年間で40勝をマーク。これはその当時、カープに在籍した外国人投手では最多の勝利数でした。それだけチームに大きく貢献し、4年間も在籍したバリントン投手は、その後、オリックスで1年プレーし、現役は引退。2016年からアメリカに戻り、2018年現在もスカウトの業務に就かれているそうです。

 ▲一番上に戻る


43 チャッド・トレーシー(内野手)

1980年5月22日生まれ。
ウエストメクレンブルク高〜イーストカロライナ大〜
ダイヤモンドバックス(04−09)〜
マーリンズ(10)〜カブス(10)〜広島(11)〜ナショナルズ(12−)

2011年オフに自由契約、2012年から大リーグ・ナショナルズへ移籍。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2011 40 149 35 19 1 13 34 0 6 .235
通算 40 149 35 19 1 13 34 0 6 .235

 当時、カープが新助っ人としては球団史上最高額で獲得した長距離砲・・・それがトレーシー選手でした。大リーグでは、2005年にダイヤモンドバックスで145試合に出場し、27本塁打を放ち、打率も.308。さらに翌年も154試合に出場して、20本塁打、80打点。メジャー通算79本塁打という大きな実績を残した選手がカープに入団・・・左投手に弱いとか、最近は大リーグへの出場機会もなくなっていたという不安要素もありましたが、その期待はいやおうなしに高まりました。

 打順を左右交互にするために、栗原選手をあえて4番から外し、4番にトレーシー選手を軸に据えたカープ新打線。シーズン開幕直後こそ、トレーシー選手はセリーグの投手に苦戦していましたが、一通り対戦を終えて、5月に入る頃には一気に打撃の調子を上げ、チャンスの強いバッティングを見せるようになりました。打率も3割を目前にまで迫っていた時期もありました。しかし、交流戦に入りトレーシー選手は大きなドツボにはまってしまったかのように、打率は急降下の一途をたどり、2割5分をも割り込むまでに落ち込みました。

 6月・・・ついにトレーシー選手は2軍に降格となりました。しかし、それは不振だからと言う理由ではなく、股関節痛を発症したことによるものでした。さらにアメリカに帰国して精密検査を受けることに・・・いわゆる典型的な途中退団のパターンとなってしまったのです。もちろん、例に漏れず、トレーシー選手は二度と日本に戻ってくることはなく、故障箇所の完治も思わしくなく、来季の復帰も難しいとの判断からそのまま自由契約となりました。メジャー79発の長打力を期待されながら、日本で放ったホームランは5月12日、甲子園球場で大量ビハインドの展開で放ったライトスタンドへの一発・・・これが最初で最後のホームランとなってしまいました。

 トレーシー選手は2012年から大リーグのナショナルズでプレーするようになりました。その年、主に代打としてナショナルズの初優勝にも貢献しました。そう考えると、アメリカで再び働き場所を見つけることが出来てよかったと思うばかりです。

 ▲一番上に戻る


2012年


57 キャム・ミコライオ(投手)

1984年5月10日生まれ。
ユタ・バレー大〜オリオールズ(08−10)〜ダイヤモンドバックス(11)〜
広島(02−14)〜楽天(15〜16)〜ツインズ(17)

2014年オフに戦力外通告。2018年に現役引退。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2012 61 3 5 21  58 17 54 18 2.79
2013 57 2 4 27  57 1/3 22 39 13 2.04
2014 51 1 1 25  47 2/3 18 29 13 2.45
通算 214 11 11 73 208.1 67 151 56 2.42
※通算成績はNPBでの成績です。

 身長205cmととにかくデカい、そして特徴的なヒゲ。さらに、その長身からストレートはMAX157キロという剛速球を投げ込み、3Aでは三振をどんどん奪いまくっていました。メジャーでは中継ぎで通算29試合に登板しました。それゆえに、2012年にカープに入団したときは、当時カープに在籍していたサファテ投手につなぐセットアッパーとして期待される存在でした。

 来日1年目、当初の構想通り、まずはセットアッパーとしてスタートしましたが、当時守護神を務めていたサファテ投手の不調もあって、5月下旬には守護神の座につきました。インステップする独特の投球、それでいて強烈なストレート…その威力はすごいものがあり、シーズン途中からの守護神転向であったにもかかわらず、1年目から21個のセーブをマークし、欠かせない戦力となったのです。

 2年目には27セーブ、そして3年目は25セーブと、カープの守護神として3年連続で20以上のセーブをマークする活躍を見せました。ただ、年々ピッチングの精度は落ちていたように感じました。いきなり先頭打者にストレートの四球を出してしまう、独り相撲を取ってしまうような場面も数多くあり、どこか安定感に欠け、安心してみていることが出来ない…という印象ばかりが先行したため、とりわけ1点リードという僅少差で迎えた9回、ミコライオ投手がマウンドに上がると、個人的には「大丈夫か?」という不安の方が大きかったように思います。

 さらに、ミコライオ投手といえば、体調不良のイメージもあります。1年目のシーズンでも、ここぞというところで体調不良を訴えることがたびたびありました。「ここでミコライオだろう」と思った場面でも、ブルペンで投球練習をしているメンバーを見ていると、ミコライオ投手がいない…。理由はどうやら体調不良だったようで…いざというときほど、登板できないということばかりが目立ったために、どうしても体調不良のイメージが定着してしまったように思います。

 ただ、それでもカープに在籍した3年間で169試合に登板し、通算73セーブをマークし、カープのCS初進出にも大きく貢献してくれた投手であることは間違いありません。2015年からは楽天でプレーし、1年目こそ椎間板ヘルニアの影響で登板がなかったものの、2年目にはセットアッパーとして45試合に登板し、5勝23ホールドをマーク。復活を印象付けましたが、残念ながらその年限りで楽天を去ることに…。その後はアメリカに戻り、マイナーや独立リーグでプレーしていましたが、2018年に現役を引退したそうです。

 ▲一番上に戻る


70 ニック・スタビノア(外野手)

1982年5月3日生まれ。
ルイジアナ州立大〜カージナルス(08-10)〜広島(12-13)

2013年シーズン中に自由契約に。帰国後、独立リーグでプレー
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2012 52 181 43 24 9 23 42 0 3 .238
2013 14 39 6 3 1 1 14 0 0 .154
通算 66 220 49 27 10 24 56 0 3 .268

 右の長距離砲がほしかったカープが2011年オフに獲得したのがニック選手でした。メジャーでは通算わずか4本塁打ではありましたが、カープに入団する前年の2011年には3Aメンフィスで28本塁打、109打点という大活躍を見せていました。この長打力と勝負強さに目をつけて獲得となったのです。

 来日したニック選手。いかにも打ちそうな体型で、3Aとはいえそのパワーをいかんなく発揮する打棒には期待が高まりました。カープに不在の長距離砲の期待を全身に浴びての入団となりましたが、シーズン序盤はなかなか結果が残せず、苦しい状況でした。ただ飛ばすときの飛距離は目玉が飛び出るほどの破壊力を持っており、それは目を見張るものでした。

 そんなニック選手はカープに2年間在籍しましたが、最大のハイライトは何と言っても、2012年5月8日、新潟で行われた阪神戦でしょう。なんと3打席連続ホームラン!特に3本目のホームランはあわやホームランかという、レフトポールを少し左にそれる特大の当たり。その直後に一発を放つのですから。この日のニック選手はもはや神がかり的で、振ればホームランになるような「打ち出の小槌」状態。この打棒には驚かされるばかりでしたが、それでも勝てなかったチームには4番がこれだけ打ってくれたのに、勝ちをモノにできないとはどういうことだ!と、苛立ちすら感じたものです。

 でも、悪夢は突然やってきました。6月11日、三次で行われたオリックスとの試合。第1打席、サードゴロで懸命に走ったニック選手。そして、ベースに飛び乗るようにして駆け抜けたその瞬間…ニック選手はそれ以上歩けなくなり、そのまま退場。左前十時靭帯断裂と半月板の損傷という大怪我を負ってしまったのです。これにより、アメリカに帰国し、手術…。 翌年、カープはニック選手が復帰可能と判断し、契約を更新することになりましたが、足はけして万全ではなく、2013年のシーズンは交流戦の秘密兵器的な存在で起用されることはありましたが、結局、本塁打は1本だけ。どうしても4番に長距離砲をおきたがる当時の野村監督の起用で、1誌だけ4番を打った試合もありましたが、打撃の様子を見る限り、とても1軍では打てそうにない雰囲気でした。

 2013年シーズン途中の8月13日に戦力外通告を受けました。懸命なプレーがゆえの大きな故障…それがなければという思いもありますが、そのプレーが懸命だったからこそ、カープは故障開けの2年目もチャンスを与えたのでしょう。そしてニック選手だけに、本人が「肉」、この漢字が気に入ってことを思い出されます。その後はアメリカに帰国し、2014年は独立リーグでプレーしていました。

▲一番上に戻る


2013年


13 キラ・カアイフエ(内野手)

1984年3月29日生まれ。
イオラニ高〜ロイヤルズ(2008,2010,2011)〜
アスレチックス(2012)〜広島(2013-2014)

2014年オフに戦力外通告。その後、プロゴルファーを目指すとか
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 打率
2013 66 224 58 45 14 38 65 0 .259
2014 88 288 74 40 11 45 85 0 .257
通算 154 512 132 85 25 83 150 0 .258

 2013年シーズン、主砲として期待されていたエルドレッド選手がシーズン序盤から不振、さらには骨折で離脱するという苦しい状況にありました。主砲不在、得点力不足を打破するための起爆剤として、シーズン途中の6月11日に獲得が発表されたのがキラ選手でした。大リーグでの経験は126試合で15本塁打、打率は.221、また、マイナーでは20本塁打以上を放つシーズンが4度に及ぶなど、長打力が魅力の選手でした。

 来日後、2軍で数試合、試合に出場し、感覚をつかんでから1軍に昇格させると言うプランがありましたが、梅雨の時期の入団だけに、どうしても雨が多く、思うように調整が進まず、1軍に昇格を果たしたのは、獲得が発表されてから約1ヵ月後の7月9日となりました。

 それにしても、シーズン途中で獲得、入団した新外国人野手は日本の野球にいきなり慣れなくてはならないという非常に厳しい環境だと思うのですが、キラ選手は、これほどまでの衝撃的なデビューを飾った助っ人は他にいなかったのではないかと思うほどに、わずか2年間のカープでの野球人生ではありましたが、インパクトが強いものでした。

 7月9日の横浜DeNA戦で5番・ファーストでスタメン出場すると、第3打席で三嶋投手からセンターへ来日初アーチ!しかも次の試合では第1打席で高崎投手からライトスタンドへ2号2ランを放つと、3戦目では4番に座り、第2打席には須田投手からセンターへ2ラン、さらに4回には左腕の田中投手からもライトへ3ラン!もはやどうにも止まらないキラ選手の打棒は、デビュー3試合で4発10打点をマークしました。

 シーズン途中の加入で66試合で14本のホームランを放ったことで、この年のチームの16年ぶりのAクラス、そして球団史上初のCS進出の原動力となりました。キラ選手が加入したことで、軸を得た打線は得点能力を高めるだけでなく、エルドレッド選手の復帰で一気に得点力を高めました。

 期待が膨らんだ2年目はシーズン序盤に死球を背中に受け、骨髄震とうで2軍降格となり、交流戦以降打率は下がっていきました。ロサリオ選手の台頭も重なり、1軍と2軍をいったりきたりする日々。結局、昨季よりも打率、本塁打、打点のすべてで下回り、またファーストしか守れないということもネックになり、残念ながら翌シーズンへの契約更新はなく、カープを去ることになりました。その後、マイナーに戻りましたが、引退し、プロゴルファーを目指していたようです。

▲一番上に戻る


41 フレッド・ルイス(外野手)

1980年12月9日生まれ。
サザン大〜ジャイアンツ(06-09)〜ブルージェイズ(10)〜
レッズ(11)〜メッツ(12)〜広島(13)

2013年シーズンオフ、自由契約。
その後、帰国し独立リーグでプレー
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2013 79 265 71 20 4 34 73 12 3 .268
通算 79 265 71 20 4 34 73 12 3 .268

 左の巧打者であり、俊足の持ち主であるがゆえに、1番打者としての起用も十分に考えられる選手…今までにカープが獲得した選手の中では非常に珍しいタイプの助っ人野手ではないでしょうか。盗塁もできる助っ人だけに、カープが目指す機動力野球を存分にしてくれるのではないかと期待した半面、果たして長打力が大好きな当時の野村監督が、この選手を上手く起用できるのか…結局、野村監督が求める助っ人像に合致せずに、1年で終わってしまうのではないか。そんな予感もしていました。

 その予感は当たりました。ただ正直、もったいないな…という気持ちでいっぱいでした。一発はあまりないけれど、シュアな打撃が売りで、打率が残せそうな選手も過去にいたのに、どうも野村監督の理想とは違っているケースが多く、やはり今回もそれに当てはまってしまったかのような感じでした。では、なぜ最初からこのようなシュアな打撃が魅力の打者を獲得したのか…そのあたりの連携も疑問を感じずにはいられません。

 ルイス選手といえば、沖縄・名護で行われた北海道日本ハムとのオープン戦で、ライトスタンドに内角の球を見事にさばいてホームランにした…あの打撃が強く思い出されます。開幕後、不振で一度、2軍に降格するのですが、その間に打撃の調子を上げるとともに、チームメイトも積極的にルイス選手に話しかけるようにしたことで、内気な気持ちもほぐれてきたようです。それが功を奏してか、再び1軍に昇格した6月下旬以降、ルイス選手は1軍でも打撃での調子をぐんと上げてきました。2割2分台まで落ちた打率は、一時2割7分を超えることもありました。打撃で結果を残したら、指でLの字を作り、喜びを分かち合う場面もありました。

 8月9日からは6試合連続安打、しかも6試合目の横浜戦では2安打のマルチヒットを放ったルイス選手。しかし翌日、投手陣を厚くするため、ミコライオ投手と入れ替えで、2軍に降格しました。チーム事情とはいえ、せっかく打撃が上がってきた矢先の2軍降格…。その後、2軍でも抜群の結果を残し、2軍戦終了後のフェニックスリーグにも参加したものの、途中で自由契約になりました。しかも、自慢の俊足で盗塁も12個決めました。足でも打撃でも、「らしさ」を出し始めていたのに…上手く起用すれば、きっと打線のリードオフマンになれたはずなのに。

▲一番上に戻る


58 ミゲル・ソコロビッチ(投手)

1986年7月24日生まれ。
レッドソックス(04−07)〜ホワイトソックス(08−11)〜
オリオールズ(12)〜カブス(12)〜広島(13)

2013年オフに戦力外通告。メッツとマイナー契約。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2013 11 0 2 0  11 1/3 4 6 1 0.79
通算 11 0 2 0  11 1/3 4 6 1 0.79

 カープにはかつてサファテ投手という、ものすごい唸りを上げるストレートで相手からどんどん三振を奪っていく守護神がいました。しかし、来日1年目のオフに受けた腰椎椎間板ヘルニアの手術、そしてちょっとした起用法での行き違いなどで、なぜか戦力外となってしまいました。これだけの豪腕…あまりにもったいなさすぎる解雇。その後もサファテ投手が日本プロ野球で活躍を見せたことを考えると、なおさら痛感します。

 その後、カープがサファテ投手の後継として、セットアッパー、もしくは守護神の候補として獲得したのが、ソコロビッチ投手でした。大リーグでは通算12試合に登板し、勝ち星なしで防御率は6.06。ストレートは150キロを超えて、スライダーやツーシームなどの変化球を持つ右腕という前評判で、春季キャンプから球威もある所を見せていたので、まずまずの結果を残してくれるのではないか…そんな期待を抱かせました。しかも入団会見では、日本にやってきた理由として給料を掲げるなど、それだけでも日本で成功して稼ぎたいという強いハングリー精神を感じさせるものがありました。

 しかし、ソコロビッチ投手は、これからという場面で故障をしてしまう、そんな傾向が強かったのが惜しまれます。キャンプ中にも足を故障し、シーズンに入れば肩。復帰して、登板を重ね、ついに1軍へとなったときに故障を再発し、1軍で徐々に戦力になってきたかという頃に、また故障…。相次ぐ故障に悩まされて、結局1年でカープを去ることになったのです。成績だけを見れば、11試合で防御率はなんと0.79。素晴らしい成績だったのですが、やはり故障がちで11試合しか投げられないようでは、やはり厳しいでしょうね。

 その後、ニューヨーク・メッツ傘下の3Aラスベガスに移籍し、2014年のシーズンは51試合に登板して2勝2敗、防護率3.64とまずまずの成績を残しました。そう聞くと、もう1年様子を見ても良かったかも…と思ったりもしますが、左腕がほしいチーム事情の中では、仕方がなかったのでしょう。

 ▲一番上に戻る


2014年


58 ザック・フィリップス(投手)

1986年9月21日生まれ。
サクラメントシティ短大〜オリオールズ(11−12)〜
マーリンズ(13)〜広島(14)

2014年オフに戦力外通告。その後、ホワイトソックスとマイナー契約
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2014 9 1 0 0  11 4 7 4 3.27
通算 9 1 0 0  11 4 7 4 3.27

 2013年、カープが球団史上初のCS進出を果たしたものの、ファイナルステージで巨人に敗れた直後、獲得したのがフィリップス投手でした。大リーグでの経験はけして豊富ではないものの、3Aでは2013年に50試合に登板し、59イニングを投げて74奪三振と、中継ぎ投手としては申し分のない三振が奪える投手でした。しかも、カープからすればのどから手が出るほどほしい左腕。150キロ台のストレートも大きな魅力でした。

 しかし、獲得したのは良いものの…。カープには先発にバリントン投手、守護神にミコライオ投手がいます。しかも、パワーのある助っ人を優先して使いたがる野村采配では、助っ人起用は野手に大きく偏っていました。その中で、フィリップス投手はいくら左腕というチームに不足している特徴がありながら、なかなか1軍に昇格するチャンスはありませんでした。左腕であるがゆえに優位性はあったはずなのに、そのときの采配では何よりも「長打力」を重視していたのでしょう。

 2軍では抜群の成績を残しました。32試合に投げて、勝ち負けなしの17セーブ。35イニングを投げて14被安打、自責点は6月14日の中日戦で浴びた藤井選手のソロホームランによる1点のみ。防御率は脅威の0.26。もはや申し分のない結果でした。交流戦の最中、ミコライオ投手が故障と奥様の出産のための一時帰国の間に1軍昇格を果たし、3試合目の登板で来日初勝利を飾るのですが、この1勝が唯一の白星となりました。それくらい、機会に恵まれなかった投手でした。なぜ、そんなに急いで獲得したのか…よっぽどほしい左腕だったからではないか。しかし、当時の野村監督の戦力構想にはあまり入っていなかったのではないでしょうか。

 そんなフィリップス投手ですが、1軍に昇格すれば、2軍のようにはなかなかいかず、決め球に欠け、コントロールの甘さが目立つマウンドが多くあったように感じます。信頼を得られないまま、シーズン途中に入団したヒース投手が1軍で活躍しました。フィリップス投手にとっては、どうも間が悪い日本での野球人生となりました。

 左腕という優位性から、カープは再契約を打診したと言います。ただし、先発に転向するならという条件付でした。しかし、カープは相次いで助っ人左腕を獲得。先発候補の助っ人左腕の獲得もできたことから、フィリップス投手との再契約話は消えました。なお、戦力外通告後、ホワイトソックスとマイナー契約を結びました。もう少し1軍で、本領を発揮したときの投球を見てみたかった…そう思うばかりです。

 ▲一番上に戻る


69 ライネル・ロサリオ(外野手)

1980年4月16日生まれ。
ペダゴヒコ高〜カージナルス(06−12)〜
ドミニカカープアカデミー(13−14)〜広島(14−15)〜レッドソックス(16)

2015年に自由契約。レッドソックスマイナーやメキシカンリーグでプレー
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 打率
2014 69 238 80 49 14 24 58 1 .336
2015 42 124 32 12 2 12 23 1 .258
通算 111 362 112 61 16 36 81 2 .309

 2013年、ロサリオ選手はドミニカのカープアカデミーに入りました。実はロサリオ選手は2006年から7年間、米大リーグ・カージナルス傘下のマイナーリーグでプレーし、当時はシーズンで20個以上の盗塁を決めるなど、俊足も大きな武器にしていた選手した。それだけ野球選手としての素質に恵まれていただけに、カープアカデミー1年目の秋には来日し、テスト生としてカープの秋季キャンプに参加しました。

 キャンプの中で、持ち前の思い切りの良い積極的なスイングでホームランを量産。長打力を存分にアピールし、翌年の春季キャンプ直前になんと、育成選手を飛び越して、いきなり支配下選手として4年契約を結んで入団することになったのです。カープアカデミーに入った翌年に支配下登録…今では来日から支配下登録まで何年もかかるケースも多いだけに、ロサリオ選手は異例の大出世という感じです。

 1年目の2014年シーズンは主力の外国人選手の影に隠れ「第3の助っ人野手」という位置づけでした。球団としてもじっくり育成して、2年目くらいから出てきてくれれば…という感じだったのでしょうが、主力の故障で、開幕から1ヶ月ほど経った4月23日に1軍初昇格を果たし、2日後には初本塁打も放ちました。その後、1軍と2軍を行ったり来たりしましたが、シーズンも中盤以降になると1軍に定着。9月2日、長野での巨人戦では、なんとプロ野球史上63人目となるサイクルヒットを達成するなど、持ち前の積極性で一気に主力の座をつかみました。来日1年目のシーズンで、規定打席には届かなかったものの、打率.336、14本塁打という抜群の成績を残し、まさにとんとん拍子の成長でした。

 しかし、2年目の2015年は春季キャンプ中に盲腸になり出遅れたこと、さらにグスマン選手、シアーホルツ選手と、初年度年俸が1億円を超える野手を相次いで獲得し、さらにエルドレッド選手もいるという中で、ロサリオ選手は出番を失ってしまいました。2軍で結果を残しても、1軍には呼べない状況でした。

 結局、2軍では結果を残しながらも、1軍でのチャンスは限定的となり、「モチベーションの低下」という理由で、4年契約の2年目終了時点で強制終了しました。内情は良く分かりませんが、結果を残してもチャンスがこない…そうなるとどうしてもモチベーションは保てなくなるでしょう。「オサム」のニックネームで、チームのムードメーカーとなっていたからこそ、どこかもったいなさが残るものとなりました。

 その後、ロサリオ選手はレッドソックス傘下のマイナーでプレーすることが決まりました。2017年にはメキシカンリーグに所属し、本塁打王のタイトルも獲得したようです。

▲一番上に戻る


70 デュアンテ・ヒース(投手)

1987年1月25日生まれ。
ニュートン高〜フロリダゲートウェイ大〜テネシー大〜
ホワイトソックス(12−13)〜広島(14−15)〜BC・富山(18)〜
埼玉西武(18−19)〜BC・富山(20)

2015年オフに戦力外通告。その後、独立リーグ、西武などでプレー
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2014 7 3 0 0  41.2 19 35 11 2.38
2015 43 3 6 4  49.2 13 59 13 2.36
通算 126 12 10 19 162.1 66 181 48 2.66

 例年、プロ野球では7月末がトレードや新外国人選手獲得の期限とされている中、期限ギリギリの2014年7月24日にカープが獲得を発表したのがヒース投手でした。当時、カープにはバリントン投手やミコライオ投手という主力の外国人選手が在籍していましたが、当時は来季を見据えた外国人選手の補強をシーズン中盤に行うことも珍しくはありませんでした。

 それゆえ、ヒース投手もじっくりと日本の野球に慣らしていくという方針だったのでしょうが、主力の助っ人投手が調子を落としていたこの時期、ヒース投手に1軍昇格の白羽の矢が立ち、8月24日の阪神戦で先発し、6回をわずか2安打1失点という素晴らしい内容で結果を残すと、30日の中日戦で7回途中2安打無失点という抜群の投球で来日初勝利をマークしました。コントロールには課題があるという前評判とは異なり、球威もあり、さらに外角低めに変化球も含めてズバッと決める場面も多く、卓越したコントロールを発揮しました。これが日本ですぐさま結果を出した要因だったのでしょう。

 先発として結果を残したヒース投手でしたが、その年のCS以降、中継ぎでの起用が中心となり、来日2年目となった2015年は守護神としてスタートしました。しかし、守護神というポジションに対するプレッシャーからか、前年に見せたコントロールは影を潜め、肩に力が入った球が多く、なかなか抑えることが出来ないまま、早々に守護神の座を退くことに…。ボールは速いのですが、ウイニングショットになるボールがなく、追い込んでもなかなか抑えられないという場面が目立ちました。結局、守護神転向がヒース投手らしさを奪ってしまったのかもしれません。

 結局、2年目のシーズン終了をもって自由契約となったヒース投手はその後、メキシコリーグや大リーグのマイナーリーグ、さらに日本の独立リーグを経て、なんと2018年のシーズン途中、埼玉西武に入団。中継ぎを中心に42試合に登板し、守護神を務めた時期もあるほどの活躍を見せ、翌年も守護神の座は退く結果となったものの、34試合に登板しました。しかし、やはり2年目で自由契約となりました。

 その後、埼玉西武入団前に所属していた独立リーグであるBCリーグの富山GRNサンダーバーズに復帰しましたが、シーズン途中で退団しました。退団の際は再びプロ野球界に復帰かとも、そして復帰先はカープではないかとも、様々な憶測がありましたが、故障によるものだったようです。

 ▲一番上に戻る


2015年


13 ヘスス・グスマン(内野手)

1984年6月14日生まれ。
ジャイアンツ(09)〜パドレス(11−13)〜
アストロズ(14)〜広島(15)

2015年オフに戦力外通告。大リーグ・カブスや海外リーグなどでプレー。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 打率
2015 34 100 23 12 3 16 25 0 .230
通算 34 100 23 12 3 16 25 0 .230

 カープにとってグスマン選手は長年目を付け、密着マークしてきた「恋人」のような存在だったと言います。ただ、2012年、パドレス在籍時に120試合に出場したことで、一気に雲の上の存在となりました。しかし、2014年にアストロズに移籍後は69試合の出場にとどまり、オフにはFAに…カープにとって、これは大きなチャンスであり、すかさず獲得に至りました。1年目の新外国人選手としてはカープでは当時史上最高額の年俸1億円で契約。それだけカープがこの選手を欲しがっていたということです。

 しかし、球団としては待望のグスマン選手でしたが、現場を取り仕切る当時の緒方監督は左の長距離砲の獲得を希望していました。グスマン選手のプレーを見ると、シュアな打撃は日本向きで、慣れてくれば一発はあまり見込めなくても、勝負強さを発揮してくれるのではないかと感じました。ただ緒方監督が求めていたタイプではなかった…

 この年、助っ人野手が相次いで故障などで離脱する中で、グスマン選手は開幕4番に座り、その後8試合、すべての試合でヒットを放ちました。豪快さはないものの、シュアな打撃で、勝負強さを見せてくれました。しかしその後、左わき腹痛で離脱。その間に、緒方監督としてはのどから手が出るほどほしかった左の大砲としてシアーホルツ選手を獲得し、さらに一発の魅力十分のエルドレッド選手が復帰しました。当初から長打力をほしがる首脳陣の前に、もはやグスマン選手に戻る場所はなくなってしまったのです。

 グスマン選手がようやく1軍に昇格したのはエルドレッド選手の奥様の出産立会いのために一時帰国している間。3本の本塁打を放ちましたが、首脳陣の信頼を得るまでには至りませんでした。1軍昇格の準備が整ってもお呼びがかからない現状に、モチベーションも下がっていたようです。現場と球団の意思疎通がチグハグで、せっかくの実力の持ち主が「宝の持ち腐れ」となったように思えてなりません。帰国後はマイナーや海外などでプレーしているようです。

▲一番上に戻る


57 ネイト・シアーホルツ(外野手)

1984年2月15日生まれ。
ジャイアンツ(2007-2012)〜フィリーズ(2012)〜カブス(2013-2014)
ナショナルズ(2014)〜レンジャース(2015)〜広島(2015)

2015年オフに戦力外通告。帰国後、マイナーでプレー
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 打率
2015 65 232 58 30 10 16 67 3 .250
通算 65 232 58 30 10 16 67 3 .250

2015年のシーズンが始まって間もない4月3日、シアーホルツ選手の獲得を発表しました。緒方監督が監督就任時に「獲得してほしい」と懇願した左の長距離ヒッターで、待望の新戦力でした。それが、キャンプイン前でなく、開幕直後なのかは疑問でしたが。ただ、年俸が116万2000ドルと、初年度の契約としては、カープ球団史上最高年俸だったというのも1つの要因だったのかもしれませんが…。

高額年俸となったシアーホルツ選手は、大リーグでも通算52本塁打を放ったパワーヒッターでした。特に2013年、シカゴ・カブス時代には137試合に出場して21本塁打を放ちました。左投手に弱点ありながらも、左の長距離砲は当時のカープに不足している部分だけに、緒方監督の中では一気に4番を任せたい…そんな青写真を描いていたのかもしれません。

4月9日に入団会見を行い、そこから2軍でわずか2試合の実戦を経て10日後に早くも1軍デビュー。時期尚早すぎないかというイヤな予感は的中。調整不足を感じさせる打撃が続き、4月を終わる頃には打率も.080。もはや広島の市外局番を下回るようなアベレージとなり、ようやく2軍再調整に踏み切りました。

この再調整は功を奏し、1軍復帰後、一時は打率が3割近くまで上げてきました。4番を任される試合もあったほどでした。しかし、初めて体験する日本の夏がシアーホルツ選手を苦しめました。熱中症を発症し、2軍降格を余儀なくされ、その後は立て続けに故障で離脱するという負の連鎖。そのうちに本来の打撃力は影を潜めるようになりました。辛うじて10本塁打を放ったものの、本来のパワーはあまり活かせず、年俸と成績がつりあわず、シーズンオフにわずか1年で解雇となってしまいました。

ただ思うのは、もう少し早い段階で契約を結べなかったのか、そして来日直後、調整もままならない状態での時期尚早な1軍昇格、そして夏場対策…そのあたりがしっかりと出来ていれば、もう少し違った結果があったかもしれません。なんせ1軍再昇格後は日本野球に適応しかけていたのですから。その後、シアーホルツ選手はアメリカに帰国し、マイナー契約を結びましたが、翌年には解雇となったようで…。

▲一番上に戻る


58 マイク・ザガースキー(投手)

1983年1月27日生まれ。
カンザス大〜フィリーズ(05〜11)〜ダイヤモンドバックス(12)〜
パイレーツ(13)〜ヤンキース(13)〜アスレチックス(13)〜
ヤンキース(13)〜インディアンス(14)〜ブルージェイズ(14)〜広島(15)〜
横浜DeNA(16)〜ダイガース(17)〜ブリュワーズ(18)

2015年オフに戦力外通告。横浜DeNAに1年在籍後、米国へ。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2015 19 0 0 0  15 7 16 4 2.40
通算 19 0 0 0 15 7 16 4 2.40

 当時、身長183cmで体重109kgというゴロンとした体型、そしてまん丸な輪郭でかわいらしい笑顔はどことなく愛嬌があって、まるでマスコットキャラクターのような雰囲気がありました。女性ファンからも「かわいい」と言われ、印象に残る人気のある投手、それがザガースキー投手でした。投手としてはMAX152キロの速球派左腕。大リーグでは2012年にはダイヤモンドバックスで45試合に登板したという経験もあり、中継ぎとしてまずまずの経験がありました。

 手薄な中継ぎ左腕の穴を埋める存在として、期待を背負ってカープに入団したものの、春季キャンプが始まり、いきなり投内連携の練習中に足を捻挫し、離脱となりました。開幕に間に合わせましたが、やはり調整不足もあったのか、コントロールがまとまらず、不安定な投球が目立ちました。確かにイニング数を上回る奪三振数をマークしており、中継ぎとして三振を奪える投球には魅力がありました。しかし、肝心な場面で四球を出したり、ストレートを狙い打たれたりと、なかなか首脳陣の信頼を勝ち取るまでには至りませんでした。

 この当時の1軍の投手陣には絶対的な左のエース格となったジョンソン投手、そして守護神を務めていたヒース投手、野手陣ではエルドレッド選手やシアーホルツ選手らがいました。野手2、投手2の起用が必要だった当時、ザガースキー投手は外国人枠の兼ね合いで1軍に昇格することができませんでした。やはり制球難から、なかなか信頼を得られなかったのでしょう。

 ただ、ザガースキー投手はとにかく日本の生活に慣れ、日本での成功を掴みたかったのでしょう。奥様の出産も日本で行うほどでした。カープ在籍は1年のみ。もう少し、その投球が見たかった…。ただ翌年、翌年からは横浜DeNAに入団し、来日初勝利もマークするなど32試合に登板しました。ただ、それも1年限りで終了…その後は帰国し、マイナーでプレーを続けていたようです。

 ▲一番上に戻る


144 ダニーロ・デ・ヘスス(投手)

1987年11月2日生まれ。
オハアンチョ・デアティージョ高〜カージナルス1A〜
カープアカデミー〜広島(15)

2015年オフに戦力外通告。退団後はメキシカンリーグなどでプレー。

 2014年オフ、カープは緒方新監督が誕生し、新たなスタートを切った直後の秋季キャンプで、首脳陣の目に留まったのが、当時、ドミニカカープアカデミー所属で、練習生として来日していたデヘスス投手でした。この年、2014年には四国アイランドリーグの高知に派遣され、42試合に登板し3勝3敗12セーブ、防御率2.06という素晴らしい成績を残していました。

 150キロを超える唸りを上げて伸びてくる速球…首脳陣はそれに釘付けになったようで、緒方監督はすぐさま球団に育成選手として契約できないかという打診をしました。そんな思いが球団に伝わり、翌2015年の春季キャンプが始まる直前に、育成選手として契約することが発表されました。そして、春季キャンプではブルペンの中で、ひときわ鋭いストレートを投げ込むデヘスス投手の姿に、緒方監督のみならず、多くの球団スコアラーが目を丸くして、「あれは誰だ?」とその視線を集める存在となりました。そして、その期待度は早期の支配下登録へと、より高まりました。

 しかし、実戦となると思うようにはいかず、剛速球は、コントロールがアバウトで、ランナーを出せば、足で揺さぶられ、投球に集中できずに失点を重ねるという繰り返し。それでも実戦に慣れてくれば適応してくれるのではないかと期待を受け、オープン戦では他の投手に比べても、数多くのチャンスを与えられました。おそらくは前年まで守護神を務めたミコライオ投手に代わるストッパー候補としても視野に入れていたのでしょう。しかし、オープン戦の防御率は6.75。支配下登録はそうは甘くありませんでした。

 2軍では12試合に登板し、防御率は4.21。25.2イニングを投げて、22個の三振を奪いながらも、打たれたヒットは32本。ボールは速いのですが、なかなか相手を抑えられないのは、やはりランナーを出してからの投球、そしてコントロールという課題が解消されなかったようです。やはりボールが速いだけでは通用しないということ。もう少しプラスアルファの持ち味がほしかった…そんな投手でした。退団後はメキシカンリーグなどでプレーしたようです。

 ▲一番上に戻る