カープ助っ人列伝<2006〜2010年版>

2006年
21 ショーン・ダグラス(投手)
93 ビクトル・マルテ(投手)

 
2007年
43 アレックス・オチョア(外野手)
48 ジャレッド・フェルナンデス(投手)
95 エスマイリン・カリダ(投手)
 
2008年
11 コルビー・ルイス(投手)
34 ベン・コズロースキー(投手)
57 スコット・シーボル(内野手)
70 マイク・シュルツ(投手)

90 ジム・ブラウワー(投手)
 
2009年
22 アンディ・フィリップス(内野手)
43 スコット・ドーマン(投手)
90 スコット・マクレーン(内野手)

99 ディオーニ・ソリアーノ(投手)
 
2010年
11 ジャスティン・ヒューバー(内野手)
24 エリック・スタルツ(投手)

42 ビニー・チューク
(投手)
43 ジェフ・フィオレンティーノ(外野手)

91 ジオ・アルバラード(投手)


2006年


21 ショーン・ダグラス(投手)

1979年4月28日生まれ。
アンテロープバレー高〜オリオールズ〜ブルージェイズ〜タイガース〜
インディアンス〜広島(2006)〜ヤクルト(2008)

2007年シーズンオフに自由契約。2008年にヤクルト入団も1年で自由契約
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 20 9 6 0 97 2/3 36 71 37 3.41
通算 20 9 6 0 97 2/3 36 71 37 3.41

マーティー政権の1年目。黒田投手に次ぐ2枚看板として期待され、入団したのがショーンダグラス投手でした。198cmという長身と150キロ近いストレート、さらにはカットボールなど多彩な変化球が武器の投手で、2005年にはデトロイト・タイガースで5勝を挙げるなど、大リーグ通算7勝を挙げました。入団時の年齢は26歳と、新外国人選手にしては若く、将来性も十分の右腕として大きく期待されました。

 そんなダグラス投手の1年目は順風満帆の船出となりました。とにかく打たれても、それ以上に打線が踏ん張り、もちろんダグラス投手自身も比較的安定感のある投球を披露しました。先発としては完投能力があるわけではなかったものの、6回を2〜3失点に抑えるなど、先発投手としてはまずまずの投球内容で、それでも中継ぎ以降の踏ん張りもあって、勝ち星をどんどん積み重ねていきました。勝ち運の強い投手・・・そんなイメージのある投手でした。一時はハーラーダービーのトップに立つなど、シーズン序盤だけで9勝を荒稼ぎし、黒田投手とともに2枚看板となっていたダグラス投手でしたが・・・。

 その年の6月下旬から右ひじに痛みを覚え、2軍に降格してしまいました。その後、チームは2枚看板のうちの1枚を失ったことによる影響は大きなもので、特にシーズン終盤に黒田投手も離脱した際には、チームは大きな連敗にあえぐ形となってしまいました。

 2006年のチーム最終戦で先発したダグラス投手。2回1失点ながら、順調な回復を思わせ、来季こそはフルに活躍してくれるだろうと思われた、2007年。キャンプも目前に迫った時期になって、来日は延期。それは右ひじの精密検査を受けるためというものでした。オフの期間は十分にあったはずなのに、なぜキャンプ目前で・・・それは球団にとっても不信感に繋がったはずです。

 その後、チームに合流したダグラス投手でしたが、今度は足を痛め、また戦線離脱し、リハビリの日々・・・。結局、1軍はおろか、1軍でも登板することなく2007年を終了し、それとともにチームはダグラス投手を自由契約としました。2008年にはヤクルトに入団し2勝を挙げましたが、実績はそこまで。再び右ひじの痛みが再発し、そのまま自由契約となっています。

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93 ビクトル・マルテ(投手)

1980年11月8日生まれ。
ホセ・トゥボ高〜 ロイヤルズアカデミー〜カープアカデミー〜広島(2006〜08)〜
ロイヤルズ(2009〜10)〜カージナルス(2011〜13)

2008年に自由契約後、大リーグへ。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 12 0 1 0 11 1/3 7 5 2 1.59
2007 17 0 1 0 17 1/3 12 13 16 8.31
2008 1 0 0 0 2 1 2 3 13.50
通算 30 0 2 0 30 2/3 20 20 21 6.16

 ゴロンとした体格はいかにも剛速球を投げこみそうな雰囲気に満ちあふれていました。2003年にドミニカカープアカデミーに入団し、翌年には練習生として来日し、2006年に晴れてカープのメンバーとなりました。

 当時はマーティー・ブラウン監督が指揮を執っていました。ブラウン監督は中継ぎ陣に、いわゆる剛腕タイプの「パワーアーム」を求めていました。マルテ投手の剛腕は、まさにマーティーが求めていたパワーアームそのもので、8月には1軍に昇格し、荒れ球ではあるものの、自慢の剛速球を次々と繰り出し、来日初ホールドをマークするなど、12試合に登板し、防御率1.59という好成績を残しました。

 2007年には17試合に登板したものの、翌2008年はわずか1試合の登板に終わり、戦力外通告を受けました。ただ、2009年は米大リーグのロイヤルズに入団し、メジャーの舞台で初登板を果たすと、翌年は中継ぎで22試合に登板し、日本では果たせなかった初勝利を含む3勝をマークしました。

 マルテ投手はその後、カージナルスに移籍して、2年間で中継ぎで52試合、特に移籍1年目は48試合に登板し、3勝9ホールドを記録しました。2013年に戦力外となりましたが、日本で未勝利の剛腕は、大リーグの舞台で通算6勝。その剛腕を活かして、カープアカデミーから大リーグへと羽ばたいた選手の1人でした。

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2007年


43 アレックス・オチョア(外野手)

1972年3月29日生まれ。
宮崎・高鍋高〜広島(2000ドラフト4位)
ハイアレア・マイアミレイクス高〜ボルティモア・オリオールズ〜
ニューヨーク・メッツ〜ミネソタ・ツインズ〜ミルウォーキー・ブリュワーズ〜
シンシナティ・レッズ〜コロラド・ロッキーズ〜ミルウォーキー・ブリュワーズ〜
アナハイム・エンゼルス〜セントルイス・カージナルス〜
中日ドラゴンズ(2003〜06)〜ボストン・レッドソックス〜広島(2007〜08)

2008年オフに戦力外通告、引退。
2009年からボストン・レッドソックスのコーチとなる。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2007 73 290 87 31 7 30 48 2 1 .000
2008 142 569 174 76 15 35 63 3 3 .300
通算 765 2933 847 416 97 286 474 17 15 .115

 2003年に中日に入団したアレックス選手は。持ち前の強肩は、ランナーとしてはレーザービームに餌食になってしまうことに恐怖を感じるほどでした。中日で4年間に渡って活躍したアレックス選手が、2007年、途中入団でカープの一員となったのです。

 2007年の交流戦後にカープに入団したアレックス選手は、すぐさまチームの主力選手として定着し、打率3割という高打率を残しました。ここ最近のカープを見ていると、シーズン途中での入団を果たした選手に関しては、そのオフに解雇されてしまうケースが多い中で、アレックス選手は打撃面で結果を残したことが認められ、2008年もカープに在籍することが決まりました。

 2008年のシーズンでも142試合に出場し、3割6厘という素晴らしい成績を残したアレックス選手。当然、来年もらい外野の一角を守ってくれると思っていました。しかし、外野争いにおいては、現有戦力で十分にまかなえる上に、アレックス選手が3番打者として君臨する中で、ゲッツー(併殺打)が2008年ジーズンではリーグ最大・・・。3番打者としては、4番にチャンスでつなげてほしい場面でゲッツーが多い。これは3番打者としては大きなマイナスでもありました。

 個人的には2008年オフの中では最大の損失ではなかったかと思います。しかし、助っ人はあくまでも助っ人。日本人選手でその窮地をまかなえるのであれば、ぜひそうしたいのも心情でしょう。しかしながら、アレックス選手の退団は個人的には残念で仕方ありません。ちなみに退団後は、現役を引退し、コーチとして第2の人生をスタートさせました。もしかしたら将来のカープの監督候補になるかもしれませんね。

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48 ジャレッド・フェルナンデス(投手)

1972年2月2日生まれ。
ボストン・レッドソックス〜シンシナティ・レッズ〜
ヒューストン・アストロズ〜ミルウォーキー・ブリュワーズ〜広島(2007年)

2007年オフに戦力外通告後、帰国。引退?
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2007 30 3 8 0 92 1/3 35 33 62 6.04
通算 30 3 8 0 92 1/3 35 33 62 6.04

 カープファンの皆さんにも、この投手は非常に記憶に残っているのではないでしょうか。記録よりも記憶に残る外国人選手の一人が、このフェルナンデス投手です。丸々と太った体格、そして前評判でのストレートは130キロ台前半という話でしたが、来日してみると120キロがやっと・・・。そんなフェルナンデス投手の最大の武器がナックルボールでした。

 その年のカープの春季キャンプが沖縄で始まったとき、100キロちょっとという話だったフェルナンデスの体重。しかし、実際は115キロの巨体で、フラフラになりながらも長距離走をボテボテと走りぬいたことを、今でも忘れることが出来ません。しかし、いざマウンドで投げてみると・・・やっぱりフラフラとしたボール。投げる本人ですら分からない変化をするナックルボール。その魅惑のボールがベールを脱いだのです。

 2007年の開幕後、4月8日に回ってきた来日初の登板機会でしたが、自慢のナックルボールが上手く変化せず、6回途中10失点という炎上でマウンドを降りました。ストレートは118キロ止まり。ナックルとなると80キロ台後半を記録。しかし、それでも炎上・・・。やはり日本でこのナックルは通用しないのか、と感じざるを得ませんでした。

 ところが5月に入り、フェルナンデス投手はナックルボールに磨きがかかり、好投が続きました。しかも、このナックルボールは肩の消耗が少ないため、先発、中継ぎとフル回転させることが出来るという特徴もありました。弊サイトの「週刊カープ評論版!カープ月間MVP」のコーナーでも、見事投手部門で87.9%の得票率で月間MVPを受賞しました。

 しかし、この調子はそうは長く続きませんでした・・・。投球中にハムストリングを痛めるアクシデントに見舞われ、1軍と2軍をいったり来たり。夏場を迎える頃には、自慢のナックルも大きな変化をしなくなりました。どう変化するか分からないナックルボールですが、主に落ちることが多いというデータもあり、相手に完全に見切られてしまった印象があります。成績をどんどん崩してしまい、話題を振りまいたナックルボーラーもわずか1年で日本を去ることになりました。

 阪神・金本選手にめっぽう強く、13打席対戦し、1本にヒットも許さなかったナックルボーラー・フェルナンデス投手。現在はアメリカ在住で野球からも離れている・・・ということまでは分かっています。

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95 エスマイリン・カリダ(投手)

1983年10月28日生まれ。
ラモン・マティウス・メジャ中〜ドミニカアカデミー〜広島(2007年)

2007年オフに戦力外通告、2009年からシカゴ・カブスでプレー
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2007 2 0 0 0 2/3 1 0 0 0.00
通算 2 0 0 0 2/3 1 0 0 0.00

 ドミニカにあるカープアカデミーからカープに入団しプレーした選手は多いのですが、今では育成選手という制度が出来たことによって、日本プロ野球で活躍できる可能性は高まってきました。

 2007年シーズン、毎年のようにドミニカ・カープアカデミーから何人かの練習生が来日し、春季キャンプに参加しますが、その中でもブラウン前監督の目に留まったのがこのカリダ投手。150キロに達する速球とスライダー、チェンジアップを武器にする投手でした。ただ、まだ投手としての経験が浅かったため、まずは2軍の試合なら出場できる育成枠での獲得となりました。当時の背番号は123でした。カープアカデミーの選手が育成選手で契約したのは初めてのことでした。

 その後、2軍でも速球を武器に結果を残したカリダ投手。1軍投手陣が交流戦で、特に中継ぎ・抑え陣が壊滅状態となった6月29日に晴れて支配下登録されました。期限まであと2日という滑り込みでの契約となりました。

 7月5日には1軍で初登板を果たし、プロで初めてのアウトを奪いましたが、続く7月7日の横浜戦での登板では2本のヒットを浴び、わずか1アウトしか取れずに降板。その後2軍降格となりました。いずれも自慢の速球が影を潜め、せいぜい140キロ代前半といったところ。緊張もあったのでしょうが、本来の投球が出来ないまま、ウエスタンに舞い戻り、調子を上げることが出来ないままシーズンを終えました。

 秋季キャンプでは1軍メンバーに入るなど、その素質は注目されていたのですが、キャンプ直前に首痛のため2軍メンバーに降格してしまいました。2007年オフに黒田投手と新井選手がFA移籍してしまい、新外国人選手の獲得が急務となった現状で、支配下選手枠を空けるためにやむを得ず解雇ということになりました。投手経歴が短い中で、ここまで台頭してきただけに、残念な解雇となりました。

 しかし、その年のオフに米大リーグのシカコ・カブスとマイナー契約を結び、2009年にはなんとメジャー昇格も果たしました。日本の育成選手がメジャー昇格を果たした初めての選手となりました。その年は主に中継ぎとして14試合に登板し、防御率1.40という素晴らしい成績を残すとともに、嬉しい初勝利も手にしました。アメリカンドリームへの扉を開いたカリダ投手の今後の大リーグでの活躍に注目ですね。

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2008年


11 コルビー・ルイス(投手)

1979年8月2日生まれ。
ベーカーズフィールド短大〜テキサス・レンジャース(99−04)
〜デトロイト・タイガース(05−06)〜ワシントン・ナショナルズ(07)〜
オークランド・アスレチックス(07)〜広島(08−09)〜
テキサス・レンジャース(10−)

2009年オフに契約交渉が不調となり、テキサス・レンジャースに復帰
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 26 15 8 0 178 33 183 53 2.68
2009 29 11 9 0 176.1 43 186 58 2.96
通算 55 26 17 0 354.1 46 369 111 2.82

 カープ史上最高の助っ人右腕・・・まさに、その言葉にふさわしい投手だったのではないでしょうか。なんせ、わずか2年の在籍でしたが、1年目から15勝をマーク、2年で26勝を挙げ、いずれも奪三振王に輝いたのですから。黒田投手が大リーグへ移籍したことにより、獲得したルイス投手。今思えば、黒田投手がカープに在籍していた頃に、ルイス投手を獲得していたら…そんな先発陣を見たかった。。

 コントロールも素晴らしかった。球速も150キロを超えるほどの球威。そして打者としても、シーズンにホームランを2本放つこともあったりと、投打に渡って活躍をしたルイス投手。コントロールが抜群であったことが、日本野球界で成功した大きな要因だったのではないでしょうか。ルイス投手は球速もコントロールも非常に高いレベルだったことが、この好成績を残した理由だったのだと思います。

 しかし、カープをわずか2年で去ってしまうことになりました。通算26勝17敗・・・9つもの貯金を作っての退団となりました。契約交渉が不調に終わるとともに、奥様の体調が思わしくない…それが理由でもありました。2年間の在籍だったにもかかわらず、カープ助っ人最強右腕として、ファンの心に印象深く刻まれる投手でした。

 そして何よりも、カープを退団してからのルイス投手の投手成績は素晴らしいものがあります。2010年からは6年ぶりにテキサス・レンジャースのユニフォームに袖を通しました。それからというもの、股関節や右ひじの故障で長期離脱することはありましたが、大リーグ復帰後の2010年には12勝をマーク。何と1年で、これまで5シーズン在籍した大リーグでの通算勝利数に並ぶ勝ち星を挙げました。さらに、2015年には自己最多となる17勝をマークしました。大リーグでも骨子の右腕へと成長したルイス投手。日本での投球がルイス投手の投球の幅を広げたのかもしれません。その大リーグでの活躍ぶりは、時おりスポーツニュースでも取り上げられるほどで、それを聞くたびに嬉しく、誇らしく思います。

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34 ベン・コズロースキー(投手)

1980年8月16日生まれ。
サンタフェコミュニティー大〜ブレーブス(1999〜2002)〜
レンジャース(2002〜2004)〜レッズ(2005〜2006)〜ドジャース(2006)〜
ヤンキース(2007)−広島(2008〜2009)

2009年オフに自由契約。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 26 2 1 2 38 19 31 20 4.74
2009 1 0 0 0 1/3 1 0 2 54.00
通算 27 2 1 2 38 1/3 20 31 22 5.17

 カープ期待の左腕でした。左打者にめっぽう強い投球、さらには198cmという長身から繰り出す140キロ代後半のストレート。それは猛、当時はベイル投手の再来かと思ったほどに期待を集めました。春季キャンプのときから、その投球は注目を集め、他球団から見れば驚異的な存在ともなっていたのです。

 来日1年目の2008年、守護神を務めていた永川投手の不振もあって、開幕から守護神を務めたのはコズロースキー投手でした。この年の開幕戦であった中日戦は、開幕投手の大竹投手の好投もあって、9回表を終わって2対1とリードした状態で、早速、守護神・コズロースキー投手の出番が回ってきました。しかし、2死1・2塁のピンチを招き、タイムリーヒットを浴びて、初の救援は失敗に終わってしまいました。

 正直、思うんですが、あのときの救援が成功していたら、コズロースキー投手は日本で十分に活躍していたんじゃないかと思うのです。でも、そこで打たれてしまったこと・・・もともと勝負どころで打たれる傾向がありましたが、やはり開幕戦で抑えられなかったところ・・・それが最後まで響いてしまったような気がします。その後は先発で勝利を挙げることもありましたが、結局2勝どまりのまま、左ひじを痛め、手術することになってしまいました。

 その年の12月にいったん自由契約となったコズロースキー投手は、翌年、術後の経過が良かったことから、再度カープと契約することになりました。背番号は34から67へと変更となりました。しかし、来日2年目のコズロースキー投手は、1軍でも結局1試合に登板し、1つのアウトを取っただけ、2失点、防御率54.00という成績を残しただけで終わってしまいました。

 スリークオーターから150キロに届こうかという速球を投げ込む姿・・・。それが目に焼きついています。良い投手だったとは思うんです。でも、その実力をマウンド上で発揮できなかったのは、ピンチの場面で打たれがちな勝負弱い側面にあったのかもしれませんね。

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57 スコット・シーボル(内野手)

1975年5月17日生まれ。

ウエストバージニア大〜ニューヨーク・ヤンキース〜
セントルイス・カージナルス〜広島

2009年オフに戦力外通告。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2008 110 400 109 53 15 29 74 0 14 .273
2009 40 127 27 11 4 13 32 1 4 .213
通算 150 527 136 64 19 42 106 1 18 .258

 2007年オフ。当時のカープの4番・新井選手がFAでチームを去っていきました。それによってぽっかり空いてしまったのがサードのポジション。なんせ、4番が抜けたわけですから、その穴はそう簡単に埋められるわけもありません。そこで、球団は助っ人でサードの補強を行うことになり、獲得したのがシーぼる選手だったのです。米大リーグ・カージナルス傘下の3Aアルバカーキでは打率.300、32本塁打、105打点をマークした長打力と勝負強さを兼ね備えた打者・・・そんな期待を一身に背負っての獲得となりました。入団当時の背番号は、新井選手がつけていた「25」。その数字からも期待の高さがうかがい知れます。

 2008年のシーズン。出来る限り日本野球に慣れさせようと、調子が悪くてもスタメンで起用されました。ベースから少し離れて立つスタンスのため、外角球を苦手にするのでは・・・そんな不安はありました。そして、やはり案の定、3Aで発揮した勝負強さや長打力はあまり垣間見ることなく、打率は2割5分前後を行ったりきたりという状態。でも、この選手の不思議なところは、期待している場面では打てないのに、「どうせダメだろう」とあまり期待していないと、なぜか打ってしまう。ここがある意味では魅力だったのかもしれません。

 前評判の長打力はあまり感じませんでした。そして勝負強さに関しても、期待すれば打てないという点だけ見ても、やはり微妙な感じ。2008年のシーズンは打率.273という助っ人としては可もなく不可もなくといった感じで、また15本塁打、53打点という数字も、それだけを見れば、まあ可もなく不可もなくではあるものの、助っ人としては不満の残るものでした。

 しかし、2008年のシーズン終盤に調子を上げたことで、2009年の契約が決まりました。ところが、背番号は25から57に降格。それでも、栗原選手が腰痛でスタメンを外れたときは4番も打ちました。ところが、もっと和解戦shにチャンスを与えてもいいのではと思いながらも、それとは裏腹になぜか優先的に起用されていた風潮がありました。それでも、打率は1年目を大きく下回る結果に。シーズン中に故障をしたこともあり、試合から遠ざかっていき、2009年オフ、意外性の男は静かに去っていきました。

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70 マイク・シュルツ(投手)

1979年11月28日生まれ。
ロヨラ・メリーマウント大〜ダイヤモンドバックス(07)〜
広島(08−11)〜オリックス(13)

2011年に戦力外通告。その後、2013年にはオリックスでプレー
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 55 3 4 0 53 20 43 19 3.23
2009 73 5 3 1 75 22 72 19 2.28
2010 11 0 1 7 10.1 2 8 4 3.48
2011 19 0 0 0 17 12 7 2 1.06
通算 158 8 8 8 155.1 55 130 44 2.55

 カープにとって2008年というのは、球団の歴史を振り返る上で、1つの転換期でした。黒田投手、新井選手という投打の柱が一気にチームから去るという事態…ただでさえ、1997年から続くBクラスという低迷期に沈む中で、さらに追い打ちをかけ、もはや希望が見えなくなりつつある時期でもありました。そこで、球団はスコット・シーボル選手、コルビー・ルイス投手、ベン・コズロースキー投手、そしてマイク・シュルツ投手と、一挙に4人の助っ人獲得する補強をしました。

 その中で、シュルツ投手は1年目から活躍するよりはむしろ、長い目で見ての保険的な要素が大きかったのではないでしょうか。それは、当時獲得した4人の助っ人の中で最も大きい背番号「70」にも現れていたように感じます。しかし、外国人選手というのはフタを開けてみるまで分からないとはよく言ったもので、まさか4人の中で在籍期間が最も長くなるとは、当時はまったく思いませんでした。

 入団1年目はいきなり春季キャンプ中に古傷のある右肩の痛みに見舞われます。古傷だけに心配されましたが、5月下旬に1軍に昇格し、2008年には55試合に登板すると、2009年には73試合に登板し、防御率2.25と中継ぎとして抜群の安定感を見せました。シュルツ投手といえば、201cmの長身から角度ある150キロ中盤の速球を投げ込むわけです。しかも前評判よりもコントロールが良かった…日本のマウンドに馴染んだシュルツ投手はカープに欠かせない中継ぎ投手となりました。

 しかし、2010年、守護神・永川投手の不振から守護神を任されていましたが、腰椎椎間板ヘルニアを発症し、帰国、そして手術を余儀なくされました。それでも2011年、術後の回復ぶりが認められ、カープと4年目の契約を結びましたが、ストレートは140キロ台前半と、かつてのピッチングスタイルを失ってしまいました。1軍では19試合の登板にとどまり、防御率は1.06ながら、17イニングを投げて22被安打、12個の四死球という内容に終わり、この年限りでカープを退団しました。ただ、4年間の在籍でシュルツ投手が打たれたホームランはわずかに2本。一発を打たれないというのは、中継ぎの鑑ともいえます。

 その後、翌2012年にワシントン・ナショナルズとマイナー契約。7月で退団し、2013年にオリックスの春季キャンプにテスト生として参加。好投が認められ入団に至りましたが、わずか1試合の登板にとどまり、シーズン途中に自由契約となりました。

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90 ジム・ブラウワー(投手)

1972年12月29日生まれ。
ミネソタ大〜インディアンズ〜レッズ〜 エクスポズ〜ジャイアンツ〜
ブレーブス〜オリオールズ〜パドレス〜ヤンキース〜広島(2008)

2008年オフに自由契約。2009年はアメリカ・独立リーグでプレー
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2008 21 0 2 0 20 1/3 8 13 9 3.98
通算 21 0 2 0 20 1/3 8 13 9 3.98

 実質、在籍1ヵ月半の投手・・・。それがブラウワー投手でした。

 2008年からシーズン中のトレードや新外国人選手の獲得の期限が、従来の6月30日から7月31日へと1ヶ月延長されました。その新しく設定された獲得期限ぎりぎりの7月25日の契約し、オールスター休み期間中の7月30日に入団会見を行ったのがブラウワー投手でした。カープの試合も残り52試合という場面での獲得。それは横山投手の戦線離脱から端を発した緊急入団でした。

 そんなブラウワー投手の持ち味は150キロに届く速球と、高速のシンカー、さらにスライダーと横への揺さぶりとともに内角を攻める投球にありました。またもう一つの持ち味がなんといっても、そのタフさです。2004年、サンフランシスコジャイアンツ在籍時に、現在も球団最多タイ記録となっている89試合に登板し7勝7敗、防御率3.29の成績を残しました。それでも故障知らずで、プロになってから故障者リストに挙がったことがないタフさ、そして丈夫さを兼ね備えていました。ちなみに大リーグ通算では354試合に登板し、28勝(32敗)の成績を残しています。

 連投が利くというタフさから、球団もセットアッパーを期待しての獲得となりましたが、入団当初はその期待に見事にこたえる好投を披露しました。いきなり1軍に合流すると、8月3日には初登板を果たし、1回を無失点に抑える好投。その後も好投を続けるブラウワー投手は永川投手に繋ぐセットアッパーとしての役割を見事に果たします。

 しかしその調子も長くは続きませんでした。シーズンも終盤に入ってくると、ランナーを出しては失点するというケースが目立つようになりました。そして9月16日の登板を持って2軍に降格し、そのまま1軍に昇格することはありませんでした。カープに入団し、1軍生活はわずか1ヵ月半という短い間でした。その間の35試合のうち、6割に相当する21試合に登板したという点では、そのタフネスぶりを十分に発揮したとはいえるでしょう。

 カープでは不完全燃焼だったかもしれません。シーズン通して、日本野球に慣れ親しめば、まだまだ活躍の余地はあったかもしれません。2008年オフに、わずか2ヶ月ちょっとの日本でのプロ野球生活を終え、2009年はアメリカの独立リーグでプレーしていたようです。

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2009年


22 アンディ・フィリップス(内野手)

1977年4月6日生まれ。
アラバマ大〜ニューヨーク・ヤンキース〜ニューヨーク・メッツ
〜シンシナティ・レッズ〜広島(2009)〜東北楽天(2010)

2010年に東北楽天を解雇され、そのまま引退。
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2009 74 264 70 50 15 32 48 0 2 .265
通算 100 345 86 62 17 42 69 0 2 .249

 2008年オフ。カープの補強する助っ人選手の中に、このフィリップス選手の名前がありました。なんと、大リーグではあのヤンキースの4番を打った経験もアルバッターです。しかし、フィリップス選手自身の大リーグ志向の強さのため、獲得を断念した経緯がありました。ところが、カープが貧打に泣く6月。突如として、このフィリップス選手の名前が急浮上したのです。2009年、3Aでプレーしていたフィリップス選手が6月15日にFAとなるや否や、一気に獲得に乗り出したカープは、6月26日は獲得を発表するというスピード契約にこぎつけたのです。

 入団会見では、そのイケメンぶりで取材陣も驚いたようです。広島カープの公式サイトでも「男前新外国人」として紹介されるなど、イケメンを前面に押し出していましたね。

 6月30日、岐阜で行われた巨人戦に3番レフトでスタメンを飾ると、4打席目にレフトスタンドへ来日初安打となる初アーチを架けました。ド派手なデビューを飾ったフィリップス選手ですが、その後は初めての日本野球の前に低迷してしまいます。しかも守備では何でもないフライを後逸したり、取れそうな打球をワンバウンドで捕球したり・・・守備でも足を引っ張るシーンが多々ありました。

 しかし、1ヶ月もすれば日本野球にも徐々に慣れてきて、ホームランにヒットにとついに当たりが出てきました。一時は打率3割に届きそうになるまでに調子を上げました。シーズンが終ってみると、74試合で50打点、勝利打点は実に9個。その勝負強さは目を見張るものがありました。しかも長打率は5割、出塁率は3割3分9厘。途中入団ではありましたが、チームの打撃には大きな戦力となっていたものの、調子の波が激しすぎる…そんな理由で解雇となりました。でも、これだけ日本の野球に適応した選手ゆえに、すぐさま東北楽天入りが決まりましたが、交流戦でのカープ戦以外は目立った活躍は出来ず、そのシーズン限りで退団となり、引退となりました。

 カープでは非常に短い期間ではありましたが、その顔立ち、そして勝負強さ…何だかインパクトの強かった選手でした。やっぱり、カープでの2年目の姿、見てみたかったですね。カープのままなら、何か違った成績を残していたかもと思ったりもします。

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43 スコット・ドーマン(投手)

1978年2月13日生まれ。
ロッキーズ〜ロイヤルズ〜レイズ(デビルレイズ)〜広島(2009)

2009年シーズン中に解雇され、3Aに復帰。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2009 9 0 0 0 8 10 4 16 17.28
通算 9 0 0 0 8 10 4 16 17.28

 中継ぎの軸と期待して獲得したは良いものの、良かったのは前評判だけで、実際に試合に出てみれば、制球難の連発・・・。カープとしては非常に珍しい、シーズン途中での解雇により、チームを去ることになってしまったのが、このドーマン投手でした。

 しかし、前評判は素晴らしかった。プロ入りしてからは3Aでも大リーグでもすべて中継ぎで登板しまくった右腕。MAX154キロといわれる豪速球とスライダーを武器に、大リーグでは目下2005年から4年連続で勝利を挙げており、2008年にも2勝を挙げました。それだけ、中継ぎの軸としても期待でき、クイックが外国人投手にしては珍しく、とにかく素早かった。だからこそ実践的だと見る目も多かったのも事実です。

 このドーマン投手と聞いて、誰も忘れられない苦い思い出といえば、カープがプロ野球史上最悪となる1イニング15失点を喫した6月11日の千葉ロッテ戦。そのイニングの2番手で登板したドーマン投手は四死球連発、ヒットも連発・・・「何をしに出てきたの??」と言いたくなるほどのボロボロ・・・。とにかく見るに耐えない状況でした。実にこのイニングだけで48分のもう攻撃を受けたカープ。私も「見たくない!」と思ってお風呂に入ったものの、お風呂から上がってスッキリしたかと思えば、まだ千葉ロッテの攻撃中・・・スッキリした気分のどこへやらという感じでした。

 そんなドーマン投手は、この試合を機に6月にカープでは2000年のカンバーランド投手とボール選手以来となるシーズン途中での解雇となりました。その後はアメリカに戻り、アリゾナ・ダイアモンドバックスの3Aに入団が決まり、14試合に投げて4セーブを挙げたようです。日本では成功しませんでしたが、きっと母国で地道に中継ぎでフル回転することでしょう。

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90 スコット・マクレーン(内野手)

1972年5月19日生まれ。

アラバマ大〜ニューヨーク・ヤンキース〜ニューヨーク・メッツ
〜シンシナティ・レッズ〜広島(2003年3巡)
アタスカデロ高〜タンパベイ・デビルレイズ〜西武−シカゴ・カブス
〜サンフランシスコ・ジャイアンツ〜広島

2009年オフに戦力外通告後、シカゴ・カブスとマイナー契約。
カブスのスカウトを経て、2011年からカープの駐米スカウトに
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2009 114 401 98 52 18 45 107 1 6 .244
通算 434 1439 340 223 89 208 391 6 6 .236

 打線の不振から、その起爆剤として開幕直後の4月27日に契約を結んだのがマクレーン選手でした。実は2008年のシーズン途中にも、一時、獲得を目指したようですが、チーム事情から回避された経緯がありました。

 マクレーン選手は2001年に西武に入団し、2004年までの4年間、日本でプレーした経験がありました。特に2001年には39本塁打を放つパワーを見せつけ、当時西武に在籍していたアレックス・カブレラ選手とともに、西武の長距離砲として「ツイン・バズーカ」とも呼ばれるほどでした。しかし、2002年以降は元々当たれば飛ぶけれども・・・という打撃だったこともあり、弱点を読まれてしまったのか打撃の調子を落としてしまいました。

 しかし、そんなマクレーン選手の長打力をカープが必要とし、獲得することになったのです。そして、入団直後の5月2日には早速スタメンに入り、いきなりその試合で一発を放ちました。シーズンでは18本塁打を放ち、当たれば飛ぶところは見せたのですが、調子の波が激しかった印象があります。打てる投手にはとことん長打力を発揮するも、相手投手によってはサッパリということもしばしば。打率も2割5分に届かず・・・。守備では主にサードに入ることが多く、自分の手の届く範囲であれば、意外と軽快にさばいていたのが、妙に印象に残っています。

 この年のカープは、シーボル選手、ドーマン選手、そしてマクレーン選手と3人の「スコット」を獲得したカープでしたが、3人とも退団となってしまいました。マクレーン選手の場合、持ち味のパワーは発揮しましたが、やはり5番を任せるには打撃に確実性が低かった。7番あたりで起用できるほど、カープの戦力に厚みがあれば、怖い存在だったとは思うのですが。

 自由契約になってからは横浜が獲得に興味を示した時期もあったそうですが、大リーグ復帰を目指すようです。その後、シコゴ・カブスとマイナー契約を結んだマクレーン選手。その後、カブスのスカウトに就任しましたが、2010年年末にカープの駐米スカウトに就任しました。これからはシュールスカウトs駐米スカウトともに、ツープラトンでアメリカの広い台地からカープを勝利に導ける選手をカープに連れてくることを期待しましょう。

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99 ディオーニ・ソリアーノ(投手)

1982年12月30日生まれ。
セントラル・デル・エステ大〜広東レオパーズ(06)〜
四国九州アイランドリーグ(07−09)〜広島(09−11)〜
台湾・統一(12)〜韓国・高陽(13)

2012年には台湾、2013年には韓国でプレー
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 10 2 3 0 46 19 27 22 4.30
2011 8 1 1 0 24.2 10 12 10 3.65
通算 18 3 4 0 70.2 29 39 32 4.08

 ドミニカカープアカデミーから、中国野球リーグや四国アイランドリーグなどに派遣されながらも実戦経験を積んできたソリアーノ投手。2006年からの派遣生活という長い下積みを経て、2009年のシーズン途中でカープと育成選手契約を結び、左腕から繰り出す速球と2軍でのまずまずの安定感によって、2010年5月に待望の支配下登録を勝ち取りました。そんなソリアーノ投手が1軍の舞台でついに初勝利を挙げたのが2010年10月1日の阪神戦。なんと、プロ初勝利を完封で飾りました。シーズン終盤に2勝を挙げたソリアーノ投手は、更なる飛躍が期待されました。

 しかし、支配下2年目となったソリアーノ投手は開幕こそ1軍入りを果たしますが、助っ人枠の兼ね合いでなかなかマウンドに立つことができず、しかもシーズン中盤からは中継ぎでの起用もあったりで、調子を上げられないまま、シーズンを終えました。チームとしては契約更新の考えがあったようですが、大リーグへの挑戦の意志が強いようで、オフに戦力外通告を受けるにいたったのです。

 大リーグへの挑戦の夢はいまだに達成することが出来ていません。2012年は台湾・統一、2013年には韓国・高陽でプレーしたようですが、ならばカープに残っていても良かったのではないか…そう思わずにはいられません。コントロールには課題はあっても、球威は魅力的だったのですが。

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2010年


11 ジャスティン・ヒューバー(内野手)

1982年7月1日生まれ。
ビーコンヒルズカレッジ高〜ロイヤルズ(05−07)〜
パドレス(08)〜ツインズ(09)〜広島(10)

2010年オフに自由契約。
帰国後、独立リーグ、オーストラリアのリーグなどでプレー
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2010 80 177 39 17 7 32 42 0 5 .220
通算 80 177 39 17 7 32 42 0 5 .220

 野村前監督が米大リーグ・ロイヤルズの臨時コーチを務めていたときに、目をつけた選手…それがヒューバー選手でした。長距離砲であるということが最大の理由なのでしょうが、臨時コーチ時代に練習に対するひたむきで熱心な態度にほれ込んだそうです。そして、球団に頼み込んで連れてきた助っ人でした。監督自ら助っ人を連れてくる…非常に珍しいケースでした。

 それもあってか、野村前監督に異様なまでに重用された打者でもありました。打てないのに、なぜか4番で起用され、どうしても無理だと判断しても2軍には落とさず、一発長打を…という願いから代打で起用していました。4番が故障すれば、直ちにヒューバー選手を4番で起用するなど、実際の打撃成績から判断すれば、到底ありえないような「主力」扱いでした。

 野村前監督はとにかく一発長打が好き…そんなイメージが強く残っています。ビッグイニングを作るために、そして試合の終盤には一発で京成を逆転したいと言う思いが強く、それに傾倒しすぎて、打線が空回りすることもしばしば。就任5年間で、このような起用は何度も見受けられましたが、それは1年目のヒューバー選手の時代から脈々と続いてきたものであって、最後の最後まで一発の魅力にとらわれたままだったのでしょう。打率.220という成績にとどまる選手を、一発があるから…という理由だけで4番に据えるわけですから。ただ、成績だけ見ても、そして実際の打撃を見ても、4番打者としてはあまりに穴がありすぎました。

 右のパワーヒッターとしての魅力は確かにありました。しかし、、得点圏打率は開幕から20打席以上もチャンスでヒットが打てていなかったということもあり、シーズンが終わっても.148とチャンスにはめっぽう弱かった。やはり、いざというときには変化球を投げれば、相手は間違いなく振ってくるという読みがあったのでしょうし、その簡単な術中にはまってしまいました。

 あまり目立った活躍が出来なかったヒューバー選手は2010年オフに自由契約となりました。もしパワーヒッターが獲得できなければ、残留の可能性もあったといいますが、なぜそこまで固執するのか…という思いもありました。その後、ヒューバー選手はWBCでオーストラリア代表としてその姿を見るなど、故郷で現役を続けているようです。

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24 エリック・スタルツ(投手)

1979年12月9日生まれ。
アルゴス高−ベセル大−ロサンゼルス・ドジャース(06〜09)−広島(10)

2010年オフに戦力外通告。ロッキーズとマイナー契約。
その後、ホワイトソックス、パドレス、ブレーブス、ドジャースと移籍。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 21 6 10 0 124 1/3 49 87 70 5.07
通算 21 6 10 0 124 1/3 49 87 70 5.07

 2010年のシーズン開幕して間もない3月31日、獲得が発表されたのが、左腕と先発が手薄なカープにとって待望の先発タイプの左腕・スタルツ投手でした。メジャーでは通算8勝10敗と言う成績ながらも、ドジャースではあの黒田博樹さんが現役時代にチームメイトだったこともあり、日本でも十分にやっていけると太鼓判を押したほど。阪神や千葉ロッテも獲得に動いていたようですが、カープが獲得にこぎつけました。

 前評判ではストレートの最速は148キロ、チェンジアップやカットボールなど多彩な変化球を操る技巧派という点で、日本向きの投手という印象でした。

 4月23日の巨人戦が来日初登板初先発。来日直後は戸惑いもあったでしょうが、徐々に本領を発揮し、5月19日のオリックス戦との交流戦で6回2失点の好投で来日初勝利を挙げました。カープにとって鬼門とされていた交流戦ですが、スタルツ投手はこの交流戦で3勝を挙げました。

 しかし、通常のセリーグとの対戦になると、交流戦の好調ぶりがウソのように調子を崩しました。とりわけ強力打線の巨人戦に関しては対戦防御率8.64と派手に打たれてました。セリーグ所属なのに、セリーグに弱点があったスタルツ投手は、シーズンで6勝を挙げながら、10敗を喫し、シーズンオフに自由契約となりました。ただ、せめて春季キャンプ中に獲得できていれば、もう少し日本の野球に馴染めていたかも知れません。

 その後、帰国したスタルツ投手はしばらくマイナー所属でしたが、2013年にメジャーでシーズン11勝をマークし、一気に花開きました。2014年には8勝。カープに入団する前まではメジャーで通算8勝だったにもかかわらず、カープ退団後、しばらくの時を経て、メジャー復帰してからは30勝。遅咲きではありましたが、帰国後に花を咲かせました。

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42 ビニー・チューク(投手)

1978年12月19日生まれ。
セントトーマス大〜ブルージェイズ〜ジャイアンツ=インディアンス〜広島(2010)

2010年オフに自由契約。
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 16 2 0 1 18 2/3 8 12 12 5.79
通算 16 2 0 1 18 2/3 8 12 12 5.79

 緊急補強で助っ人を獲得することは多いのですが、初めて日本にやってきて、いきなり自分の持ち味をフルに出せる選手はほとんどいないのが現状・・・。もし、そんな過酷な状況でも結果が残せたら、大リーグでも十分に活躍できるのかもしれません。

 チューク投手は選手の補強期限である7月31日の4日前に滑り込みで契約を結びました。当時は米大リーグのピッツバーグ・パイレーツ傘下の3Aインディアンスに所属し、メジャーではトロント・ブルージェイズやサンフランシスコ・ジャイアンツなどで中継ぎのみで252試合に登板し、7勝15敗で防御率は4.33という数字を残しており、大リーグでの経験も豊富な投手でした。2004年から2007年にかけては4年連続で40試合以上に登板するなどタフネスな特徴もありました。ストレートは150キロに迫るほどの勢いがあり、またスライダー、チェンジアップ、さらにはシンカーも操る。しかも相手打者によっては腕を下げてサイドスロー気味に投球する…まるでベイル投手の右投手版のような感じなのかと期待が膨らみました。

 来日して1週間と経たない8月1日の巨人戦に登板したチューク投手は9回からの1イニングを任されましたが、2死取っただけで6失点の大炎上。その後も、確かにストレートが150キロ台を計測することはあるものの、コントロールはアバウトで、甘く入ったところを痛打されるという様子が多々ありました。それでも、2勝を挙げる勝ち運だけは強かったように思いますが・・・。

 しかし、150キロ台の直球を投げるくらいの力はあったわけです。しかも大リーグでも経験は豊富だったことを考えると、チームが苦しいから、その窮地だけ救ってくれたら・・・という場当たり的な補強のためだけに獲得したのではもったいなかったと感じずにはいられません。ストライクゾーンも違う、そしてボークの基準も違う、ましてや文化が違う日本に突然やってきて、どんな形であれ2勝を挙げたのですから。シーズンの最初から獲得していたら、どんな投手になっていたのだろう・・・と思ったりするばかりです。

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43 ジェフ・フィオレンティーノ(外野手)

1983年4月14日生まれ。
フロリダアトランティック大−オリオールズ(05−06)−アスレチックス(08)−
オリオールズ(09)−広島(10)

2010年オフに自由契約後、オリオールズへ。
さらにトレードでブレーブスへ移籍し、オフにはアスレチックスと契約
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2010 44 126 31 15 2 22 37 2 1 .246
通算 44 126 31 15 2 22 37 2 1 .246

 左打ちで巧打の外野手といえば、カープには飽和状態であったはず。確かに、その中でレギュラーを奪えるような選手がいなかったことは確かではありますが、その後の起用を見ていると、果たして、何のためにこの選手を獲得したのだろう・・・という感じでした。その当時は岩本選手もその長打力を一気に1軍の舞台でも発揮できるようになり、フィオ選手の役割は1軍ではどんどんなくなってしまいました。そしてなぜか打てないヒューバー選手ばかりが1軍で重用される状況…結果的に、フィオ選手は1軍からはじき出されるように、2軍での生活が長くなってしまいました。

 私はフィオ選手の過去の大リーグや3Aでのデータを見て、非常に期待をしていました。私自身が目安としているのが安打数と三振数の割合。やはり三振の数が少ないバッターはボールにアジャストできる能力が高く、とりわけ変化球を使った緩急で相手を交わす投球が多い日本では、このミート力の高さが成功するか失敗するかの分かれ目になるように感じます。そこで、安打数が多く、その反面、三振の数が非常に少ない。的確にバットコントロールできる力のある選手という印象を持ってたフィオ選手は、日本野球の特徴である変化球にも十分対応できるのではないかと思っていました。

 しかし、ふたを開けてみると、日本野球は変化球が多いという印象があったのか、初球から積極的に打ちにいくという姿勢はありませんでした。球をしっかり見極めているうちに追い込まれ、最後は三振に終わってしまうという「石橋をたたきすぎて壊してしまう」。それくらいの慎重姿勢のように感じました。もう少し、積極的に行くことができれば・・・いや、それも慣れの問題だったのかもしれません。

 出塁率は.356、得点圏打率は.355。意外とポテンヒットがタイムリーになったりと、妙な勝負強さがあるバッターでした。でも、起用するチャンスがなく、日本野球に慣れる機会がなかった…それが非常に残念でなりません。こういった選手こそ、日本野球に慣れてくれば、十分に3番打者として活躍できただろうに…。日本が好きで、カープという球団にもすっかり馴染んだ巧打者であっただけに、「もったいない」という気持ちのほうが強い選手でした。

 帰国後はオリオールズ、ブレーブス、そしてアスレチックスと、1年で3球団を渡り歩いているようです。打率は.255で8本塁打。まだ老け込む年でないだけに、大リーグに復帰できるよう頑張ってほしいと思います。

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91 ジオ・アルバラード(投手)

1978年1月24日生まれ。
ホセ・パブロ・アビラ高〜パイレーツ(95−01)〜ブリュワーズ(02)〜
タイガース(03)〜台湾・誠泰(04)〜レッズ(05−06)〜エンゼルス(08)〜
台湾・統一(08)〜広島(10−11)〜横浜DeNA(12)

2011年に戦力外通告。横浜DeNAへ移籍したもの1年で自由契約
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 20 8 8 0 119.1 44 97 54 4.07
2011 18 3 7 0 99.1 41 88 30 2.72
通算 38 11 15 0 218.2 62 185 84 3.46

 大リーグで登板した経験こそないものの、台湾球界の経験があり、アジアシリーズに出場した際は、日本代表の埼玉西武を相手に好投を披露したアルバラード投手。サード方向へインステップする独特の投球フォームに注目し、2010年の新助っ人としてカープが獲得しました。ジャンカルロ・アルバラード投手・・・その名前の長さから、ニックネームとして「ジオ」投手と名づけられました。

 2010年のシーズンが始まった直後のジオ投手は、日本野球への適応に苦しみましたが、正念場に立たされた6月13日の埼玉西武戦で嬉しい来日初勝利を手にすると、プエルトリコ出身ということもあってか、夏場に抜群の強さを見せました。ジオ投手は夏場にこそ調子を上げ、自身5連勝を飾るなど、その安定感は当時のマエケンをしのぐほどになり、結果的にマエケンに次ぐシーズン8勝をマークしました。2010年には新助っ人を3人獲得したカープでしたが、年をまたいでカープでプレーしたのはジオ投手のみ。しかし、来日2年目は外国人枠の兼ね合いから、なかなか1軍に昇格できない日々が続きました。ところがシーズン中盤以降には先発ローテーションの一角に入り、18試合に登板し、勝ち星こそ3勝にとどまりましたが、防御率は1年目をはるかに上回る内容を残しました。

 しかし、そのシーズンオフにカープが出した結論は自由契約。そして、2012年からは横浜DeNAでプレーすることになったジオ投手ですが、横浜の地で1軍で挙げた勝利はわずかに1勝。先発不足にあえぐチーム事情にありながら、満足な結果を残すことが出来ないまま、横浜DeNAに所属するそのほかの外国人選手4人と一緒に自由契約となりました。変則的な投球から繰り出す変幻自在の投球…敵ならカープはかなり苦労しそうだと思っていましたが、まさか1勝止まりで解雇になるとは。

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