1度きりの追憶(2000年代)


酒井大輔投手の1度きりの勝利(2001年)

酒井投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2000 6 0 0 0 7 1/3 7 7 8 9.82
2001 24 1 0 0 34 1/3 24 30 16 4.19
2002 25 0 1 0 26 2/3 18 17 32 10.80
2003 11 0 0 0 15 1/3 1 10 10 5.87
通算 66 1 1 0 83 2/3 50 64 66 7.10

 プロ入り直後から、そのスピードボールで非常に注目を集めた酒井投手。高卒ルーキーながら2年目の2000年に初めて1軍でのデビューを飾ると、2年目には24試合、2002年には25試合を投げました。けして安定感のある投球ではなかったものの、プロでは153キロをたたき出すほどのストレートは球威十分でした。

 そんな酒井投手がプロ初勝利を挙げたのは2001年10月7日の阪神戦でした。カープが序盤からリードを奪いながらも、先発・鶴田投手がしっくりせず3回で降板し、4回から酒井投手がマウンドに上がりました。ランナーを出しながらも、何とか踏ん張ったこともあり、3回と3分の1を投げて、チームはそのまま逃げ切り、プロ初勝利となりました。しかし、これがプロでは最初で最後の勝利となりました。球威は抜群だったのに、コントロールに課題。コントロールを改善すると球威が落ちた・・・なかなか両立が上手くいかなかったプロ生活。持ち味を出すのであれば、球威にこだわるべきだったのにと思うばかりです。


長谷川昌幸投手の1度きりの完封勝利(2002年)

長谷川投手の生涯のカープでの1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1997 2 1 0 0 10 1/3 4 10 7 6.10
1998 1 0 0 0 1 2 2 4 36.00
1999 10 1 3 0 22 2/3 13 7 15 5.96
2000 10 0 2 0 23 14 20 8 3.13
2001 22 9 6 0 137 64 114 49 3.22
2002 30 13 10 0 194 1/3 46 153 83 3.84
2003 20 2 10 0 97 41 78 57 5.29
2004 4 2 1 0 19 2/3 11 20 12 5.49
2005 23 2 10 0 86 51 73 62 6.49
2006 29 1 3 0 54 2/3 16 57 24 3.95
2007 26 5 5 0 128 1/3 37 83 42 2.95
2008 14 3 6 0 59 2/3 22 28 46 6.94
2009 10 3 1 0 32 17 24 14 3.94
2010 2 0 1 0 5 1/3 5 4 7 11.81
通算 209 42 61 0 900 1/3 359 688 444 4.44

 2002年5月12日の東京ヤクルト戦。かつてのドラフト1位であった長谷川投手が、6年目にして見事プロ初完封勝利を達成しました。長谷川投手はランナーを出しながらも、粘りの投球を続け、最後までスコアボードにゼロを並べ続けました。毎年のように、先発ローテーションの一角として期待されながらも、なかなかそれに応えることができなかった長谷川投手ですが、その前年に自身最多の9勝をマークしたことで、ようやく本来の自分自身の投球がマウンドでも出来るようになったように感じました。

 しかし、このプロ初完封勝利がまさか最初で最後の完封になるとは…。この年、自身最多の13勝をマークし、しかもチームの勝ち頭になりました。ただ、この成績が長谷川投手にとって、野球人生でベストのシーズンとなったわけで、勝ち頭になったこと、そして完封勝利、いずれも最初で最後のものとなってしまいました。期待のドラ1もプロでは、カープで最後につけた背番号「42」と同じ42勝。もっと伸びてほしい投手だったのですが…。

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岡上和典選手の1度きりのホームラン(2003年)

岡上選手の生涯の1軍成績
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2001 10 4 1 0 0 0 2 4 0 .250
2002 71 17 3 0 0 4 11 5 0 .176
2003 51 14 3 1 1 0 4 6 1 .214
2004 30 3 1 1 0 0 2 1 0 .333
2006 10 8 1 0 0 0 2 0 1 .125
2007 2 0 0 0 0 0 0 1 0 .-
通算 174 46 9 2 1 4 21 17 2 .196

 ショートのレギュラーを奪い取るか・・・そんな時期もあった岡上選手。守備と強肩、そして俊足には定評があり、代走や守備要員としての起用は多かったものの、打撃が課題となり、なかなか主力となるには至れなかった岡上選手。しかし2003年10月13日のヤクルト戦で8番・ショートとして始めてスタメン出場を果たし、しかも、9回にヤクルトの当時の守護神・高津投手の伝家の宝刀であるシンカーを見事に捕らえ、当時は狭かった広島市民球場のレフトスタンドへライナーで見事に打ち込むホームランを放ちました。

 その試合は見事にカープが勝利をもぎ取りましたが、ヒーローインタビューに立った岡上選手の緊張ぶりは、今でも語り草になるほど・・・。でも、そんな姿が初々しく思うばかりでもありました。でも、これが最初で最後のホームランだった岡上選手。元々、ホームランバッターでもなかった上に、高津投手から一発を放ったことに驚きもありましたが、この「岡上1号」のホームランは、試合展開の上でも、そして、岡上選手が放った一発だったからこそ今でも記憶に残るものとなりました。


玉山健太投手の1度きりの勝利(2004年)

玉山投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2004 6 1 0 0 18 9 12 10 5.00
2005 1 0 0 0 1 2/3 2 1 2 10.80
通算 7 1 0 0 19 2/3 11 13 12 5.49

 打者としても注目されていた玉山投手が、カープに投手としてドラフト指名されたのは2000年のことでした。MAX146キロの右腕として、そして苫米地投手、大島投手に続いて山梨学院大付高からカープに入団したことでも話題になった玉山投手が、プロで唯一挙げた勝利。それは2004年6月3日の横浜戦でのことでした。

 プロで2試合目の先発のマウンドとなった玉山投手。2回に多村仁選手(2011年現在、福岡ソフトバンク)に2ランを浴びてしまい、チームは逆転されてしまいます。しかし、4回にはラロッカ選手の2ラン、さらには5回には打線がつながり2点を奪い、玉山投手をしっかりと援護しました。玉山投手はそんな援護に応えるように、5回までを何とか1失点で投げきりました。

 その後、中継ぎ陣が2点を失い1点差にまで迫られてしまいます。もはやドキドキだったことでしょう。薄氷を踏むような展開ではありましたが、8回は佐々岡投手、9回は当時の守護神だった大竹投手が何とかスコアボードにゼロを刻み、カープが勝利を決めるとともに、玉山投手にプロ初勝利がついたのです。しかし、玉山投手にとってはこの勝利は最初で最後・・・。やはり微妙なコントロールの甘さが問題だったのでしょう。2011年現在、打撃投手を務めています。


広池浩司投手の1度きりのセーブ(2004年)

広池投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
1999 17 0 0 0 11 7 4 7 5.73
2000 26 0 1 0 18 1/3 14 14 17 8.35
2001 6 0 0 0 2 1/3 3 0 3 11.57
2002 42 1 0 0 45 1/3 22 32 23 4.57
2003 5 0 3 0 15 10 10 16 9.60
2004 19 2 2 1 35 11 24 10 2.57
2005 41 0 1 0 41 1/3 28 33 37 8.06
2006 47 4 2 0 59 20 35 21 3.20
2007 32 2 2 0 27 1/3 11 19 19 6.26
2008 10 0 0 0 12 1/3 7 10 7 5.11
2010 3 0 1 0 1 0 0 3 27.00
通算 248 9 12 1 268 133 181 163 5.47

 「困ったときは広池」…当時の監督がそう語るように、いつもは貴重な中継ぎ左腕ですが、ときにはローテーションの谷間に先発に回ることもあるなど、とにかく場所を選ばず、登板を重ねた広池投手。主に中継ぎとして活躍しましたが、ブラウン監督時代の2006年には、いわゆる「ブルペンデー」として、4度先発を務めた年もありました。

 プロ通算248試合で、239度の中継ぎ登板がありましたが、意外にもセーブはわずか1個だけ。それは2004年10月3日の阪神との試合でした。この日、先発の長谷川昌幸投手が6回まで2失点の好投。7回から登板したのが広池投手でした。1点リードでマウンドに立った広池投手は、ランナーを出しながらも3回を無失点に抑える好投を見せました。

 シーズン終盤で、借金が20近く膨らむという消化試合という状況。しかも前日は延長戦だったことも、ロングリリーフとなった理由かもしれません。その中で、広池投手はロングリリーフでプロで唯一となったセーブをマークしたのです。


林昌樹投手の1度きりの先発(2004年)

林投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2001 1 0 0 0 3 3 0 2 6.00
2002 1 0 0 0 1.2 0 2 3 16.20
2003 13 1 0 0 16 7 10 5 2.81
2004 47 1 1 1 45.2 25 37 21 4.14
2005 5 0 0 0 3.2 1 2 3 7.36
2006 61 2 4 0 65.1 32 44 26 3.58
2007 57 3 2 0 48.1 21 28 19 3.54
2008 17 0 0 0 18 6 13 9 4.50
2009 46 0 2 0 48.1 23 27 23 4.28
2010 26 0 1 0 25.2 8 19 17 5.96
2011 2 0 0 0 2.1 0 5 0 0.00
通算 276 7 10 1 278 126 187 128 4.14

 中継ぎとして2004年には47試合、2006年には61試合、2007年には57試合と多くの試合に登板し、プロ通算でも276試合でマウンドに立った林投手。ここ一番の場面に弱かったことから、セットアッパーなどの重要な役割を最後までになえなかったものの、サイドスローから繰り出すスライダーは、あまりにも切れ味がすごすぎて、動画サイトでも見かけるほどでした。

 そんな林投手は中継ぎが仕事場でしたが、2004年7月8日の対阪神戦でプロ初の先発マウンドに立ちました。前半戦の最終戦でもあっただけに、当時は山本浩二監督でしたが、ブラウン監督が言うところのブルペンデーだったのかもしれません。そんなプロ初先発の試合で2回1失点。でも、それが最初で最後の先発となりました。それだけ、中継ぎ一本で仕事をしてきた投手だったということなのでしょう。

 ちなみに、この年の8月31日にはプロ入り初セーブをマークしています。延長戦の末にカープが勝利を収めた試合でマウンドに上がった林投手に転がり込んできた初セーブでしたが、これもまたプロで最初で最後のセーブとなりました。


田中敬人投手の1度きりの勝利(2005年)

田中投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2005 14 1 0 0 13 9 7 10 6.92
2006 1 0 1 0 2 2 1 8 36.00
通算 15 1 1 0 15 11 8 18 10.80

 即戦力投手としての期待の高さは、入団当初の背番号「19」という数字にも表れていました。MAX146キロの速球とフォークが魅力の右腕は、カープがドラフト8位という下位指名でありながら、その直後に行われた社会人の日本選手権で、ストッパーとして活躍し、JFEスチール西日本を優勝へ導くとともに、MVPを受賞するほどでした。

 しかし、即戦力の期待とは裏腹に、田中投手はプロの壁に当たってしまいました。1年目で登板した試合は14試合。そして、わずかに1勝を挙げただけで、シーズンを終えました。その1勝は、2005年8月2日の巨人戦。総力戦の展開の中で、延長11回に登板し、1点を失ってしまいました。このままいけば負け投手・・・そんな危機も、その直後に石原選手が2ランを放ち、チームは見事な逆転賞を飾り、田中投手には嬉しくも複雑なプロ初勝利が転がり込んできました。

 この1勝がプロで最初で最後の勝利となりました。2006年には1試合に先発して、めった打ちを食らいました。それによって、田中投手を1軍で見ることはなくなり、2007年オフに戦力外通告を受けることになってしまいました。社会人での活躍をプロで生かせないまま終わってしまった、わずか3年間のプロ生活。その中での挙げた唯一の勝利は、良い思い出になったのかもしれません。


比嘉寿光選手の1度きりのホームラン(2005年)

比嘉選手の生涯の1軍成績
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2005 8 16 3 2 1 1 4 0 0 .188
通算 8 16 3 2 1 1 4 0 0 .188

 沖縄尚学高では沖縄県勢初の甲子園優勝を成し遂げたときの主将であり、さらには早稲田大学では鳥谷選手(阪神)や青木選手(現大リーグ・ブリュワーズ)ら錚々たるメンバーの中で、4番を打つとともに、主将を務めた比嘉選手。しかし、プロの世界ではなかなか1軍の戦力とはいきませんでした。プロ野球人生はわずか6年で終了・・・。その中で、1軍の舞台に立ったのは2005年のわずか1年だけ。

 しかし、プロ初の打席では、記録に残る出来事をやってのけました。2005年9月19日の横浜スタジアムでの横浜戦。大味なゲーム展開となってしまったこの日の試合で8回1死、ランナーを1塁に置いた場面で、プロ初の打席に代打として立ちました。これが初めての出場でもあった比嘉選手は、横浜・ホルツ投手から左中間スタンドに、なんとホームラン!!!1985年、元ヤクルトの青島健太選手以来となる、代打でのプロ初打席初ホームランという快挙!

 実はこの日、私はたまたま横浜スタジアムにいました。レフトスタンドで観戦していたのですが、2回終わって1−10というどうしようもない試合。試合も終盤になり、「そろそろ帰るか…」と思っていた矢先に比嘉選手の一発。これには驚きましたね。でも、ド派手なデビューではありながら、ホームランはこの1発に終わってしまったのは残念でした。


佐藤剛士投手の1度きりのマウンド(2006年)

佐藤投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2006 1 0 1 0 2 1/3 2 1 9 34.71
通算 1 0 1 0 2 1/3 2 1 9 34.71

 佐藤投手が高校3年生のとき、ドラフト会議の注目は涌井投手(埼玉西武)、ダルビッシュ有投手(大リーグ・レンジャース)とともに、高校生三羽ガラスとまで言われて、カープのスカウト人は佐藤投手を徹底マークしていましたが、その中で佐藤投手はプロの世界で、1軍のマウンドに上がったのはわずか1度、しかもそれはめった打ちに食らい、ただただ「34.71」というすごい防御率だけが記録として残るだけに終わってしまいました。

 その唯一の登板となったのは2006年4月20日の横浜戦のこと。この日、なんとプロ初登板が初先発となった佐藤投手は、先頭の当時、横浜のトップバッターとして活躍していた石井琢選手のヒットから始まり、最後は相川選手(後に東京ヤクルトへ移籍)に3ランを浴びてしまうなど、初回から5失点という炎上。

 しかし、それでも2回を三者凡退に抑えて、これからエンジンをかけてくれるかと思いきや、3回にはヒットと死球の後、村田選手(後に巨人へ移籍)に3ランを浴び、その後も死球を与えるなどの炎上。2回途中、自責点は実に9という結果に終わってしまいました。高校時代は150キロ出ていたとされるストレートもプロでは影を潜め、2010年オフに自由契約となってします。それゆえに、これが最初で最後のマウンドとなってしまいました。


森笠繁選手の1度きりの4番(2006年)

森笠選手の4番成績
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2006 1 4 1 0 0 0 0 0 1 .250

 2006年もシーズン最終盤となった9月24日の横浜戦。カープは下位打線に若手を起用するなど、来季を見据えたスタメンを組みました。そして、驚いたのが、この試合で4番・レフトでスタメンに名を連ねたのが森笠選手でした。これが自身初の4番となりました。森笠選手といえば、芯で捉えればスタンドまで運ぶことが出来ますが、基本的には巧打の中距離ヒッター。けして4番タイプではありません。だからこそ、驚きがありました。

 そんな森笠選手の4番は、第2打席でレフト前へのヒットを放ちました。試合の中で4打席に立ち、ヒットはこの1本。しかし、もつれる試合展開の中で、相手のレフトへの打球を後逸してしまい、それが決勝点へのきっかけとなってしまいました。初の4番は、ヒットは放ったものの、守備で痛恨のミスをしてしまった、ほろ苦いものとなりました。そして、「4番・森笠」は森笠選手のプロ野球人生でこの1試合のみ、最初で最後の4番となりました。唯一放ったヒットは、4番としての最初で最後の安打ともなりました。



鞘師智也選手の1度きりの打点(2007年)

鞘師選手の生涯の1軍成績
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2006 5 8 0 0 0 0 3 0 0 .000
2007 15 14 3 1 0 2 6 0 0 .214
2009 2 5 2 0 0 0 1 0 1 .400
通算 22 27 5 1 0 2 10 0 1 .185

 2007年5月16日、米子で行われた阪神との地方試合でした。先発マウンドにはルーキーながら先発ローテーションに定着し、好投しても打線の援護に恵まれなかった青木高広投手。初登板から6連敗という状況の中で、チームは序盤から打線の援護で青木投手の念願のプロ初勝利へ近づいているところでした。

 そんな試合でとどめの得点をたたき出したのが鞘師選手でした。8回裏、1死満塁という場面で阪神・橋本健太郎投手から放った打球はショートの鳥谷選手のグラブをはじくような強烈な強襲の当たり。これが内野安打となり、鞘師選手は嬉しいプロ初打点となりました。

 でも、この初打点よりも、2009年5月20日のオリックス戦で見せた、暴走の果てがぐるりとダイヤモンドを一周して1点を奪った打撃が思い出されます。レフト戦への2塁打のはずが、サードを狙い、それが相手の悪送球を誘い、そのままホームイン…相手のエラーがあったので、ランニングHRではなかったものの、「暴走」が1点につながるという結果。こればかりは強いインパクトになっています。


田中彰選手のカープでの1度きりの打席(2008年)

田中選手のカープ時代の1軍成績
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
2008 1 1 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 13 17 1 0 0 0 7 0 0 .063

 右の長距離砲が不足していたカープ。一発のある右打者として、当時カープに在籍していた山崎浩司選手(現オリックス)との交換トレードで、2008年7月にカープにやってきたのが田中彰選手でした。

 トレード直後に1軍に昇格した田中選手は7月26日、旧広島市民球場での横浜戦の8回に上野投手に代わる代打として出場を果たしました。初球から積極的に打ちにいきましたが、結果は一瞬「あっ?」と驚くような特大のセンターフライ。パワーがあるところをいきなり見せてくれたのですが、その直後に2軍降格…。現在、田中選手はカープのスコアラーに転身していますが、カープの選手として1軍の打席に立ったのは、この1度きりでした。

森跳二投手の1度きりの勝利(2009年)

森投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2005 15 0 2 0 21 1/3 10 18 13 5.48
2007 4 0 1 0 3 2/3 1 4 2 4.91
2008 2 0 0 0 1 1/3 1 1 0 0.00
2009 3 1 0 0 1 2/3 1 0 3 16.20
2010 3 0 0 0 3 1/3 2 2 3 8.10
通算 27 1 3 0 31 1/3 15 25 21 6.03

 2種類のスライダーを巧みに使い分けるとともに、制球面でも注目された森投手。ルーキーイヤーの2005年には、プロ初のマウンドを交流戦の西武戦で先発で飾り、当時のルーキー・涌井投手と投げあいました。そのマウンドでは5回無失点の好投…正直、このまま先発として活躍の場を与えられていたら、この投手は一気に飛躍していたかもしれません。

 そんな森投手がプロ野球人生で唯一の勝利を挙げたのが2009年のこと。この年の6月5日、交流戦の福岡ソフトバンク戦で2番手として登板した森投手は、1イニングを無失点で切り抜けると、その直後に味方が逆転し、そのまま逃げ切ったことで、何ともラッキーなプロ初勝利が転がり込んできました。しかし、そのわずか6日後の千葉ロッテ戦で、あの悪夢の1イニング15失点…。千葉ロッテ打線の勢いを止めきれず、そのまま、2軍に降格、そして1軍には再び這い上がれないままとなってしまいました。森投手…非常に面白い投手だと思っていましたし、けして中継ぎタイプではない投手。それだけに、その起用法があまりにも残念でなりません。



上村和裕選手の1度きりの打点(2009年)

上村選手の生涯の1軍成績(カープのみ)
試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 打率
2006 5 7 0 0 0 0 2 0 .000
2008 8 4 2 0 0 0 2 0 .500
2009 1 1 1 1 0 0 0 0 1.000
2012 1 0 0 0 0 0 0 0 .000
通算 26 23 4 1 0 3 10 0 .174

 2004年にトレードで獲得した上村選手。俊足でスイッチヒッターという、捕手としては非常に珍しいタイプではありましたが、1軍に呼ばれることもめったになく、あくまでもカープ捕手陣が故障者続出で、非常に厳しい事態に陥った場合のために契約を更新していたのではないか…そんな気持ちすらする選手ではありました。結果を残しても、1軍に昇格するわけでもなく、1軍に昇格してヒットを放っても、すぐさま2軍降格。結果を残しても2軍降格になってしまうだけに、なんともやるせなさを感じましたが、本人の気持ちはなおさらでしょう。

 そんな上村選手がオリックス時代も含めて、生涯で唯一の打点となったのが2009年。4月25日、マツダスタジアムでの阪神戦は、阪神の猛攻の前に、0−12という一方的リードの展開。途中出場の上村選手は8回無死2塁の場面で打席が回り、センター前へきっちりとヒットを放ち、1点をもぎ取りました。試合はワンサイドゲームですが、上村選手にとってはこれが唯一の打点…スコアボードにただ一度だけ、自分で稼いだ「1」を掲げた試合でした。


青木高広投手の1度きりの完投・完封勝利(2010年)

青木高広投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2007 29 5 11 0 128 1/3 31 89 68 4.77
2008 24 0 3 0 55 1/3 13 28 29 4.72
2009 29 2 3 0 74 18 50 39 4.74
2010 19 1 6 0 65 1/3 16 45 49 6.75
2011 76 2 4 0 55 24 39 20 3.27
2013 34 5 1 0 31 1/3 10 19 10 2.87
2014 38 2 2 0 33 10 15 0 2.45
通算 249 17 30 0 442 1/3 137 285 224 4.56

 ルーキーイヤーから左の先発としての起用が多かった青木高投手。しかし、好投しても打線が援護してくれず、3年目のシーズンを終えた時点で、通算成績は7勝17敗でした。そして迎えた4年目のシーズン。4月30日の中日戦で初完投勝利を完封で飾ったのです。

 この日、青木高投手は初回からピンチの連続でした。しかし、それをしのぐと、徐々に自分のペースをつかんできます。自分が登板する日はなかなか打線が援護してくれない…毎度の繰り返しであった青木高投手でしたが、この日は初回から天谷選手の一発、3回には倉選手の満塁弾に、梵選手の2ランも飛び出して、3回までに8−0の大量リード。そのリードに守られて、青木高投手は3回以降は中日打線を4安打に封じました。9回表、先頭打者にヒットを許しながら、併殺で乗り切ると、続く打者はサードのエラー。しかし、最後はショートゴロに抑え、見事にスコアボードにゼロを9つ並べました。待望の初完投初完封だったのですが、この年の勝利はこの1勝のみ。そして、完投も完封も、これっきり。翌年からは中継ぎに転向することになり、先発する機会も失ってしまったのです。 


相沢寿聡投手の1度きりの先発&敗戦(2010年)

相沢投手の生涯の1軍成績
試合 投球回 四死球 奪三振 自責点 防御率
2010 3 0 1 0 3 1/3 2 2 6 16.20
2011 2 0 0 0 1 1 1 0 0.00
通算 5 0 1 0 31 1/3 3 3 6 12.46

 相沢投手の同期といえば、鈴木将選手、今井投手、齋藤投手の3選手がいますが、その中で相沢投手と同じ投手ということでは、最も1軍デビューは遅くなった相沢投手。2010年シーズンは、シーズン序盤から2軍で先発としても結果を残していただけに、期待の左腕が満を持して1軍の初舞台に上がったのが5月22日の福岡ソフトバンク戦でした。強打を誇る福岡ソフトバンク打線と敵地で相対するという厳しい状況ではありました。

 そして相沢投手はプロの洗礼を浴びることになってしまいました。3回途中6失点。1、2回とふらつきながらも無失点に抑えていたのですが、先制点をもらった直後の3回裏につかまってしまいました。打者2順目となり、相手もタイミングが合ってきたのでしょう。チームは4−7で敗れ、相沢投手にプロ初黒星がつきました。これが最初で最後の先発マウンド、そして最初で最後の黒星となってしまいました。