鯉の4番(11代〜20代)

※打撃成績は4番を打った年のみを表記しています。


第11代4番バッター:緋本祥好
(初4番は1956年7月18日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1956 105 352 85 43 15 25 99 7 5 .241
1957 120 368 87 25 4 36 65 5 3 .236
1958 72 129 27 10 3 11 32 2 1 .209

 カープ叩き上げの4番バッター…それが緋本選手でしょう。1954年にカープに入団した緋本選手は、しばらく2軍暮らしが続きましたが、1956年に1軍に昇格すると、4番を任される日もありました。1956年だけを見ると、シーズン15本塁打はチームでも最高の数字。それだけ、スタンドに運ぶ力があるのであれば、4番に使いたくなるのも分かります。その後、3年間にわたって、シーズンで4番としてスタメン起用される試合がありました。

第12代4番バッター:藤井弘
(初4番は1956年9月23日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1956 23 71 16 10 4 9 18 0 3 .225
1957 130 484 112 62 17 57 75 5 10 .231
1958 120 408 111 55 17 77 71 3 10 .272
1959 126 422 90 54 20 61 90 5 8 .213
1960 86 164 39 23 8 28 46 5 6 .238
1961 117 382 103 56 15 51 80 4 8 .270
1962 131 462 109 73 18 57 64 2 6 .236
1963 130 447 125 80 20 50 37 1 7 .280
1964 133 403 92 45 13 66 46 4 7 .228
1965 126 311 70 37 15 45 46 1 4 .225
1966 104 263 55 38 12 42 50 3 2 .209
1967 125 365 92 57 14 61 75 1 6 .252

 地元・広島出身で、入団当時からその長打力には注目を集めていたようです。そんな藤井選手がプロ2年目のシーズン終盤に初めて4番に座り、それ以降、4番に座る試合も増えました。一発の魅力は十分で、1959年と1963年には20本塁打に到達するなど、主軸としてはふさわしいほど、長打力の魅力に溢れた選手でした。カープの黎明期に活躍した屈指のホームランバッターであり、引退以後はカープの打撃コーチや2軍監督も務めました。

第13代4番バッター:大和田明
(初4番は1958年4月17日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1958 120 372 87 45 14 18 67 7 4 .234
1959 128 480 127 79 23 47 100 10 5 .265
1960 125 468 119 60 18 30 84 9 5 .254
1961 116 353 96 56 14 25 63 3 5 .272
1963 128 492 143 47 19 22 44 8 2 .291
1965 127 449 107 30 7 14 43 10 7 .238
1966 104 389 99 30 13 27 37 1 3 .254

 1957年オフに金銭トレードで西鉄(現・埼玉西武)から獲得したのが大和田選手でした。西鉄時代は目立った活躍を見せることは出来なかったものの、カープに移籍後は4番を打ち、1959年には23本塁打をマークするなど、チームの主砲としても活躍しました。その年にはサイクルヒットも記録したそうです。負けん気の強い性格が、トレードによって相手をぎゃふんといわせてやると発奮材料となったようです。カープにきて、負けん気たっぷりで一気にその素質が開花し、長きに渡って4番を務めることも多かった選手でした。

第14代4番バッター:桧垣忠
(初4番は1958年5月29日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1958 64 116 19 14 0 7 27 2 3 .164

 後にも先にも、たった1試合だけ4番に座ったのが桧垣選手でした。桧垣選手は広島出身の外野手で、左の代打の切り札的な存在だったようです。それゆえに、スタメンに名を連ねることもけして多くはなく、時折クリーンアップを打つこともあったようです。1957年にはキャリアハイとなる87試合に出場し、.241の打率を残しました。9年間のプロ野球人生の中でわずか1日だけの4番…それが第14代4番バッターなのです。

第15代4番バッター:広岡富夫
(初4番は1958年5月31日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1958 82 224 46 23 5 14 38 3 1 .205

 あの広岡達朗氏の弟であるのが広岡選手。広島生まれの広島育ちということで、生粋の広島県人だった広岡選手。広島県庁に勤める公務員がプロ野球選手になったという異例の経歴の持ち主です。初4番となった1958年5月31日から6試合連続で4番に座り、あとはそれっきり4番に返り咲くことはありませんでした。右で一発の魅力のある打者として活躍しましたが、プロ初の4番はもう広岡選手にとっては、選手としての晩年の時期でした。

第16代4番バッター:興津立雄
(初4番は1960年4月6日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1960 129 440 118 64 21 42 108 3 13 .268
1961 64 221 48 30 9 25 61 2 10 .217
1962 126 429 112 54 12 31 108 0 16 .261
1963 140 531 161 93 19 52 82 5 11 .303
1964 131 464 125 55 17 50 73 7 15 .269
1965 135 474 130 52 15 48 97 4 15 .274
1966 93 284 61 28 10 44 64 0 7 .215
1967 38 111 27 9 3 9 22 1 6 .243
1969 80 215 50 35 15 14 52 2 16 .233
1970 89 223 54 24 6 15 47 1 2 .242

 静岡商業高から専修大を経てカープに入団した興津選手。2年目のシーズン序盤にはプロ初の4番に座り、セリーグではトップに1本差と惜しくも本塁王を逃しましたが、長打力ある打撃でカープ打線を引っ張りました。その後は故障にも悩まされたようですが、それでもコンスタントに本塁打を放ち、1963年には19本塁打93打点、打率.303という素晴らしい成績を残しました。計10シーズンで4番を経験するなど、長い間、カープの主軸として活躍されました。

第17代4番バッター:森永勝也
(初4番は1961年6月4日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1961 124 420 117 59 14 40 43 6 10 .279
1962 130 476 146 55 11 51 48 10 3 .307
1966 113 273 71 21 3 25 22 2 3 .260

 専修大から熊谷組を経て、カープに入団した森永選手は、1年目から主力選手として活躍しました。1961年には初めての4番も務め、一発もあり、確実性のある打撃で、チームを引っ張りました。1962年には打率.307の成績を残し、この数字はその年の首位打者であり、2リーグ分裂後では首位打者としての最低打率となっています。その後、巨人へも移籍しますが、引退後は、1974年に1年限りではありましたが監督も務めています。

第18代4番バッター:山本一義
(初4番は1964年5月28日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1964 111 396 115 44 11 64 33 1 2 .290
1965 129 438 112 59 15 64 36 4 4 .256
1966 123 424 127 70 15 69 23 2 3 .300
1967 119 421 131 58 16 55 39 3 5 .311
1968 124 426 109 62 17 69 56 2 4 .256
1969 115 402 118 66 21 56 58 4 6 .294
1970 113 346 94 42 12 51 49 2 2 .272
1972 120 365 103 68 17 50 41 0 1 .282

 山本一義さんといえば、カープでは金本知憲選手をはじめ、打撃コーチとして多くの選手を育成してきた手腕が高く評価されています。カープには池田勇人元内閣総理大臣の説得もあっての入団となりましたが、上表の通り、8シーズンで4番を務めるなど、永木に渡ってカープ打線を支えてきました。打率3割台を2度マークするとともに、4番を打った8シーズンはすべて2ケタ本塁打を放つ活躍を見せました。

第19代4番バッター:横溝 桂
(初4番は1967年5月7日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1967 100 262 60 27 3 29 27 1 2 .229

 カープ一筋15年間プレーを続けた横溝選手。けして目立った数字は残していないものの、いぶし銀で勝負強い選手だったようです。先取しても晩年に近い1967年に、カープの第19代4番バッターとなると、その年、8試合で4番を務めました。しかし、4番を務めた年は後にも先にもこの1年のみとなっています。数字が示すように、けして4番タイプの打者ではなかったようですね。引退後はカープのコーチやスカウトとしても活躍しました。

第20代4番バッター:鎌田 豊
(初4番は1967年10月8日。成績は4番を打ったことがあるシーズンのもの)

試合 打数 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁 失策 打率
1967 37 100 21 8 3 3 33 1 2 .210

 ドラフト会議が始まった1965年。カープが3位指名したのが法政大・鎌田選手でした。法政大時代はクリーンアップを打ち、ベストナインにも輝くほどの活躍。そんな期待もあってか、1967年のシーズン終盤に、わずか3試合ではありますが4番を打つことがありました。1967年のシーズン打率.210…これが鎌田選手にとっては、自身最高のシーズン成績となりました。故障に泣かれたわずか5年のプロ野球人生でした。